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第拾陸章 慟哭の凍月

 あの日、あの時、確かに誓った。

 泣き崩れ、震える小さな身体を、この両腕に抱いて。

 たとえ何を犠牲にしたとしても、必ず――――。




      *




 磨きぬかれた漆黒の刀身が仄白い月光を弾いた。

 さながら鏡の如くその身に月を映し出す黒太刀を、険を宿した黒曜の瞳が射抜くように見つめている。

 やがて小さく息を吐くと、飛鳥は太刀を鞘に収めた。

 この『月影』を手にしてからというもの、幾度となくこうして対話(・・)を試みているのだが、どこまでもこの剣は素直に従ってくれる気はないらしい。まさかこいつがここまで強情だとは……。


《お疲れのご様子ですね》


 やや憔悴気味の背中に、労わるような声がかかった。

 振り返れば、いつからそこに控えていたのか、開け放たれた障子戸の影に畏まって端座する炎珠の姿があった。


《何事も一朝一夕に成しえるものではありません。互いに歩み寄り対話を重ねればこそ、双方に理解も得られましょう》

「だがこうも煩いやつだと俺の身が持たない」 


 独り言のように漏らす若き当主に、炎珠は小さく笑みを零した――ように見えた。

 それを感じ取った飛鳥はついと炎珠から視線を逸らした。


「何の用だ?」

《……大変申し上げにくいのですが、実は、若様に至急ご報告申し上げねばならないことがあって参りました》


 一変して緊張感に満ちた炎珠の口調に、飛鳥は精悍な面持ちに一層の剣呑を乗せた。




      *




 南雲との取引は無事に相成った――。


 冷たい月明かりが不敵な笑みを冴え冴えと照らし出した。

 七つある宝のうち六つの封印が解かれた今、残る一つの宝を巡って両家の対立が激化するのは必至。そうなれば、手段を問わない乱戦に発展することはもはや時間の問題だろう。

 ならば、目下に迫ったその避けられぬ戦闘を前に自分がなすべきことはただ一つのみ。

 そしてそれは南雲家当主の英断によって成就した。

 これで、戦いの準備は整った。これで、心置きなく戦える――。


 先刻見えた少女の姿を脳裏に描き出し、端整な面持ちに満足げな微笑を湛える。

 はじめて見えた南雲の当主は、想像していた通りの人物だった。

 年は花音よりも下と見受けられるほどの少女だった。その若さゆえか、時折危うさを覗かせることもあったが、しかし当主としての自覚と自負、威厳をしっかりと持ち合わせていた。そして何よりも、物事の分別を弁え、采配の揮い方を心得ていた。


 ――本当に、同じ当主でも天と地ほどの差だ……。

 

 軽蔑の色を黒曜の瞳に乗せた時だった。


《やってくれたな、ループス……!》


 突如、背後に怒りに満ちた霊気が現れた。


 ――まったく、本当に早いな……。


 内心で嘆息交じりに感嘆しつつも、氷のごとく凍てつく月をバックに悠然と構え、斎はそ知らぬ顔で嘯いて見せた。


「何のことだい?」

《惚けるな! 我等に隠し立てが通じるとでも思っているのか!》


 爆発寸前に荒れ狂う霊気と共に激しい怒号が飛ぶ。


《貴様、己のしたことが分かっているのか!?》


 圧倒するような霊気を放つ黒猫を流し目で捕らえ、斎は面白そうに目を細めた。


 黒猫はよほど激昂しているらしい。その姿はもはや『猫』と呼ぶには遠くかけ離れていた。

 人間を凌ぐ巨大な体躯に、鈍い光を放つ鋭い牙と爪。

 それは言うなれば――黒獅子。

 

 はじめて目の当たりにするその本性に興味こそ示したものの、しかし黒獅子の放つ霊気に応えた様子もなれければ悪びれた様子もなく、斎はあっけらかんとして罪過を自白した。


「必要ないだろう、アレは? 僕達にはアレの力を引き出すことは出来ない。なら、持っていても無意味だ」

《僭越ながら、斎様。我々には力を引き出すことができずとも、南雲にその力を引き出すことが出来るというのであれば尚更、それを阻止するために我等の下に置いておくことに意義は十分にあるのではありませんか》


 意見の声は水羅だった。

 声を荒げるでもなく声音は静かなままだが、的を射た指摘は確かに強い非難を物語っている。


「……ああ、そういう見方もあったな。気付かなかったよ」

《嘘おっしゃい! 宝の扱いは戦術を練る上での中核! それを等閑視するなんてありえませんわ! そんな見苦しい嘘が通用するとでも思って!?》

「生憎、君たちが思っているほど僕は優秀じゃないんでね。以後気をつけるよ」


 雷毘の追及も軽く受け流し、斎は尚も白々しいまでの単調な受け答えを貫く。

 その態度が黒獅子の神経を逆撫でた。


《ふざけるなよ、ループス!!》


 怒気に満ちた一喝に空気が振動する。


《事は重大なのだぞ! 南雲(やつら)に宝を譲り渡すなど……! そんな愚行に出た輩はこの千年見ても貴様が初めてだ! 貴様は天城(われわれ)が培ってきたこの千年の礎を――》

「くだらない」 


 怒りで熱のこもった弄舌を皆まで聞かず、侮蔑を含んだ冷ややかな一言が一蹴した。


「使命だの伝統だの、そんなものにいつまでも固執してるから千年たっても尚その因縁を断ち切れずにいるんだろうが」


 斎の相貌に浮かんでいるのはそれまでの嘲笑とは打って変わった冷笑。


「千年の天城の苦悩? そんなもの僕には関係ないね。そもそもこれは天城が自ら選んだ運命(みち)だろう。それを僕に押し付けるな」

《貴様……!》


 斎が吐き捨てた暴言に、黒獅子のみならず、居合わせた他の守護獣までもが息を呑んだ。

 言葉を失う守護獣たちに冷眼を向け、斎はその面に嗤笑の色を乗せた。


「でもまあ、これで大分面白くなっただろ? ゲームは観戦する分には拮抗しているのが理想だが、自分が当事者である場合には劣勢の方が楽しみ甲斐がある。苦境をいかにして打開するか……そのために持てる知識を駆使し知略をめぐらせ血路を作出することこそがゲームの醍醐味であり真髄だ」


 あまりに場違いな発言に、守護獣たちは思わず己らが耳を疑った。


《ゲームだと……? これは遊びではないのだぞ!?》


 突飛のなさに困惑を示しつつも、黒獅子は聞き捨てならない縦言を咎め立てる。

 だが斎はその糾弾をきっぱりと跳ね除けた。


「いいや、僕にとってはただのゲームさ。天城と南雲というプレイヤーが七つの宝を奪い合うだけの、戦略も論理もない極めて単純明快で幼稚なゲーム」


 澱みなく言い切り、斎は意味ありげに探るような視線を守護獣に向けた。


「お前たちだって同じだろ?」

《何を……! 貴様、我等を愚弄する気か!》

 

 即座に反言する黒獅子に、水羅と雷毘も口々に追従する。

 間髪空けずになされる必死の抗弁に、斎の周囲で風が唸った。


「違うと言うか? 違うと言えるのか? 天城に連なる者をただの駒としてしか見ていないお前たちが!」


 感情のままに声を荒げ、冷たい憎しみを湛えた双眸で守護獣を射抜く。

 憤怒に塗れた斎の霊力に呼応するかのように、背後の凍て月が大きく揺らめいた。


「お前たちが僕に……僕達にしたこと、忘れたとは言わせないぞ」


 低く低く発せられた言葉。

 その言葉を聞くなり、守護獣たちは、あの黒獅子までもが一切口を噤んだ。


「謀反で捕らえたかったら捕らえればいい。好きにしろよ」


 居丈高に言い捨てる斎。だが守護獣たちの中に誰一人として動こうとする者はいない。

 沈黙が斎と守護獣の間に横たわる。


「どうした? 僕を断罪するんじゃなかったのか?」


 微動だにしない守護獣三匹を一睨し、斎は不遜に促迫する。

 しかしそれに応えたのはいずれの守護獣でもなく、背後の暗がりから響いた少年の声だった。


「もういい、下がれ」


 その声に心臓が強く脈打った。

 斎は暗闇の中に認めた声の主に、これ以上ないほどの淡白な視線を投じた。

 そこにあったのは、闇を髣髴とさせる漆黒の髪。深淵に誘うかのような黒曜の瞳。


 顔を合わせるのは何時以来だろうか。

 だが、久方ぶりの顔合わせにもかかわらず、その人物を特定することに時間は要さなかった。白状すると、今の今まで彼の顔など記憶の片隅にも残っていなかった。それでも、特定に迷いはなかった。

 見紛うはずがない。判断を誤るはずがない。

 いくら記憶や意識が否定しようとも、本能が告げてくる。


「……やあ、久しぶりだね。いや、『始めまして』の方がしっくりくるかな……若様?」


 彼が天城家の当主である、と――。




      *




 ――チクショウチクショウチクショウチクショウチクショウ……!


 土煙を巻き上げ、荒れ狂うようなエンジン音が閑散とした山道を疾走する。

 差し掛かったカーブにも減速することなく、行く手に迫る障害物を回避することもせず、ただ猛る呻りをあげながらひたすらに突き進む。

 メータの針は既に百キロ付近を指している。

 しかし尚も、紺の巨体はスピードを上げた。

 もはや暴走に等しい機体を駆り、倖介は単身南雲低を目指していた。目的は勿論、力ずくでも宝を奪い返すため。


『指輪』が南雲の手に渡った――。


 今しがた伝えられた緊急通達。それは、本来あってはならない報告だった。許されないはずの事態だった。

 一度我が物としたはずの宝が南雲の手に渡るなど――。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 宝が南雲に渡ったという事実そのものは大した問題ではない。真に重要なのは、問題視しなければならないのは、このような事態に至った経緯。この事態を引き起こした原因。


 即ち――――陸上斎の謀反。


 淡々と伝えられたその言葉を、倖介は幾度も脳裏で反芻する。

 ……謀反。その言葉の意味くらい解る。確かに、天城が手にした宝を勝手な一存で敵である南雲に引き渡すという行為は紛れもない背信行為だ。謀反といわれて然るべきだろう。だが……。


「……何でだよ、何でお前が……!」


 その行為と斎とを結びつけることがどうしてもできなかった。

 否、結びつけることを、これが彼のなしたる業であることをどうしても認めたくなかった。


 バイクのグリップを握る手に力がこもる。


 彼が天城に対してよい感情を抱いていないことは知っていた。憚らずに言うならば、彼が天城を憎んでいたことも知っている。だが、まさか彼がこのような暴挙に出るとは思ってもいなかったのだ。

 七宝は神器だ。その扱いには決して侵してはならない絶対の領域がある。それを、私情に駆られてその境界を越えるなど、彼に限ってするはずがない、と。


 なんだかんだ言いつつ、倖介は斎のことを深く信頼していた。

 だから、必要な時には必ず彼の判断と指示を仰いできた。その度に向けられる嫌味全開の言動は非常に癪に障るし、まるで彼に敵わないという現実は悔しくもあったが、それでも一応自分の能力は自覚している倖介である。故に斎はいざというときに頼るべき最後の拠り所だった。

 全ては、彼が判断を誤ることなどないという、確信と信頼があったから。

 しかしその確信は無惨にも崩壊した。信頼は呆気なく裏切られた。

 だが今倖介を支配しているのは、裏切りに対する怒りでも、まして悲しみでもなく――。


 ――何で気付かなかったんだよ……。


 自分自身に対する悔いと憤りだった。

 彼がこのような行為に出ることを微塵も察することが出来なかったことに対する、そして彼を止めることが出来なかったということに対する、自責と悔恨の念。


 ――アイツの闇を知ってるのは、俺だけなのに……!

 

 何故気付いてやれなかったのか。少し冷静に考えれば、彼がこのような行動に及ぶことは想定できたのに。

 それなのに、勝手に『陸上斎』という像を創りあげ、多少の差異は見て見ぬ振りをして、彼の全てをその像に押し込んできた。

 帰国して後の彼は明らかに様子が違った。その変化が顕著に現れるほど、それほどに彼は己を追い込んでいた。――おそらくは、彼自身でも気付かない内に。


「……チクショウッ!!」


 倖介は感情のままに吐き捨てた。


 その時、視界の隅を何かが掠めた。

 次の瞬間。ヘッドライトが照らす行く手に突如一つの影が飛び込んできた。それは、紛れもなく――人。

 倖介は反射的にブレーキをかけた。

 悲鳴にも似たブレーキ音が空気を裂き、舞い上がった土埃が視界を覆う。

 即座に反応したとはいえ、時速百キロを超えるバイクはそう簡単には止まらない。辛うじて停止したのは、突如現れた人影の一メートルほど手前だった。


「っぶねーだろ、バカヤロウ!!」


 バイクが完全停止するが早いか、倖介は怒声を張り上げた。


 確かに道路に急に飛び出す方にも十分非はあるが、百キロオーバーという完全なる法定速度違反の猛スピードでバイクを飛ばしていた倖介にはそれ以上に非があることは誰の目にも明らかだ。

 が、自分に非があるなどとは微塵も感じていない倖介は一方的に相手の非を責め立てる。

 

 ちなみにどうでもいい余談だが、あの高速走行下での急ブレーキにもかかわらず、体勢を保ったまま急停止させられる倖介の運転スキルは実は拍手ものだったりする。


「テメェ、どこに目ぇつけて――」


 更に文句をつなげようとして、しかし倖介はそこで言葉を切った。

 土煙の中から現れた人物。その顔に、倖介は確かに見覚えがあった。


「……テメェは……南雲の……」


 癖のある肩丈の黒髪。闊達そうな容貌は少女というよりは女性と評した方が適当だろう。


「随分とガサツな運転ね。まあ、見た目どおりだけど」


 乱れた髪を掻き揚げ、臆することなく感想を述べる女性――確か名を美夜といった――を正面から睥睨し、倖介は剣呑に言葉を投げた。


「テメェこんなところで何してやがる?」

「それはこっちの台詞よ。あんたこそここに何しに来たわけ? ここから先は南雲の私有地なんだけど?」


 とても初対面の人間にするものとは思えないドスの効いた挨拶をした倖介を前に、しかし流石に時速百キロで馳突するバイクの前に飛び出してくるだけの肝っ玉を持っているだけあって、美夜はその程度の威嚇などまるで意に介していないらしい。萎縮するどころか相応に高圧的な言葉が返ってきた。

 しかしその常套句じみた中身(とい)に、倖介は尊大に構える。


「訊かなきゃわかんねえのかよ? 宝を返して貰いに来たに決まってんだろ」

「それで独りで敵陣に乗り込んできたわけ?」 


 言葉の端に馬鹿にしたような響きを乗せ、美夜は挑発的な視線を倖介に向ける。

 対して倖介もまた、同様の視線を美夜に向けた。


「小細工は嫌いなんでな。正々堂々真っ向勝負で奪い返させて貰うぜ」


 腕っ節には自信がある。更には、相手が女子供だからといって手加減するような生易しい精神を倖介は持ち合わせていない。


「なんなら、手始めにテメエをこの場でのして見せてやろうか?」


 女相手では物足りないが、ウォーミングアップくらいにはなるだろう。


 倖介の気迫からそれが冗談でないことを察した美夜は肩を竦めて見せた。


「せっかくだけど遠慮しておくわ。あたしは別にあんたとやりあいに来たんじゃないのよ」

「ああ!?」


 美夜の口をついて出てきた拍子抜け甚だしい言葉に、倖介は不信感と不機嫌さを露わにした。


「やりあう気がねえのにわざわざ何しに出て来たんだよ!? つーか、用がねえんなら引っ込んでろ!」

「用がないとは言ってないでしょ」

「じゃあテメェの要件をさっさと言えよ! 俺は家臣(テメェ)に用はねえんだからよ!」

「本当、横柄な男ね。……でも、本題に入る前に一つ答えて。そこまでして、どうして宝を欲するの? 何のために宝が必要なの?」


 思いもしない問いかけに、倖介は咄嗟に返答できずに口篭った。

 いざ何故かと問われると、適切な返答に悩む。

 強いて一つを挙げるとすれば、七宝を全て回収しろというのが天城家当主の命令だから、ということになるだろうか。だがその根底には天城が全ての七宝を手にしなければならない事情があり、そのためには南雲に七宝を渡すわけにはいかないというのも理由の一つのであって……。体裁上の理由は幾つも存在する。

 だが天城として(・・・・・)宝を欲する理由と、今倖介が(・・・・)宝を欲している理由は――別だ。


「んなもん、必要だから必要なんだよ! それ以上に理由があるか!」


 我ながら馬鹿丸出しの回答だと思う。

 だが、かといって、今宝を欲しているところの理由を素直に彼女に答える義理はない。


 だがその返答に、意外にも美夜は気分を害した様子を見せなかった。


「……そう。ってことは、あんたも大して七宝そのものに執着はないってことね」


 呟くようなその台詞に、倖介は眉根を寄せる。

 ……あんた『()』――?


「なら都合がいいわ。……ねえ、取引しない?」


 これには今度こそ倖介は絶句した。

 ……取引? 敵同士の天城と南雲が?


「取引に応じるなら、南雲(うち)が持ってる『盾』をあんたに譲ってあげる」


 願ってもない申し出に、倖介の表情が一変した。


「ほー、いいのかよ? 宝をそんな易々俺らに渡して?」

「あたしの要求を呑んでくれるなら、それくらい構わないわ」

「……『それくらい』ねぇ……?」


 宝を取引の対象とするなど、当主の許可を受けたものとは到底思えない。これは彼女の独断による取引だ。

 だが、それが南雲の(・・・)意志だろうが彼女個人の(・・・・・)意志だろうがそんなことはどうだっていい。

 すすんで宝を譲り渡してくれるというのだ。これを無下にする理由を見つける方が難しい。


「で? テメエの要求ってのは何だよ? 基本的になんだってくれてやるぜ? まあ、今俺らが持ってる宝全てよこせとか、うちの大将の首持ってこいとかいう要求には流石に応じられねえけどな」


 今宝が手に入るならどんな対価だって払ってやる――それは倖介の本心だった。

 ひとまずは一つでも宝を奪い返すことが出来るならそれでいい。とりあえず一つでも取り返せれば、斎の謀反に対する恩赦を啓上することができる。


 倖介の言い様に、美夜は呆れたように嘆息した。


「そんなヤボな要求はしないわよ」


 すると、それまでの勝気な面持ちに影が差した。


「あたしは七宝なんていらない」


 顔を伏せる美夜。

 そして、一息の間を置いて、細く言い放った。


「だから『七宝』を……全て壊して――――それが、あたしが対価として要求する望みよ」




      *




 長らく封じてきた感情がある。心の奥底にある扉の中で長く眠り続けていた感情がある。

 それが今、長い眠りから醒めた――。


 斎ははじめて間近に見る天城家当主の顔を、底冷えするような黒曜の瞳に映した。

 年齢不相応に落ち着き払い、実年齢よりもはるかに大人びた印象を与える容貌。それはまるで感情の類を感じさせない。若さの上に精悍さを宿した端整なその容貌を見れば見るほど――、


 ――つくづく可愛げのない餓鬼だな……。

 

 眠りから醒めたばかりの感情が扉の奥で暴れだす。閉ざされた扉を抉じ開けようと扉を叩く――。

 

 闇夜に浮かぶ白銀の月が不気味に輝く。

 守護獣らが皆下がり、二人きりとなった部屋を重苦しい空気が支配していた。

 それを先に破ったのは飛鳥だった。


「何故『指輪』を南雲に渡した、ループス」


 その物言いに、斎は我知らず眉を顰めた。

 客観的に見れば、飛鳥のそれは当主として当然の口調だった。だが、それは斎の中で蠢く感情を確かに刺激した。


「さぁ……? 単なる気紛れかな」


 一層激しさを増すその激情を押さえ込むようにして、斎はあえてわざとらしいまでに剽軽に応じた。


「対価として何を要求した」

「別に、何も」


 まるで真摯に取り合おうとしない斎の姿勢に、飛鳥は苦渋の表情を見せた。

 これでは何を問い質したところでまともな回答など得られないと推察し、それきり飛鳥は口を閉ざす。


 品定めでもするかのように飛鳥の出方を窺っていた斎は、存外早くに賢明な判断に至ったことに内心で冷罵まじりの称賛を送った。

 事実斎は何を詰問されたところで何も答えるつもりはなかった。答えることで自分が得られるメリットはない。ならばわざわざ素直に答えてやる必要も義理もない。


 ……それにしても。

 このすかした態度。お上気取りの口調。


 ――何様のつもりだよ。


 斎は年下の当主を睨めつけるように疾視した。

 あの髪の色も目の色も。

 何もかもが気にいらない――。


 心の底に渦巻く激しい怨嗟と憎悪の情。

 隙あらば扉をぶち破ろうと虎視眈々と機を狙うそれを辛うじて抑えているのは、たった一つの小さな鍵。


 ――この取引は、お前のためでもあるんだぞ、天城飛鳥……。


 もしもその鍵を失えばたちまち扉は破られ、長い間押さえつけられてきた激情はその反動で暴走する。

 そして必ず――。


 ――何よりも先に、お前を殺す――――。





 ――決して忘れはしない。


 天城によって全てを奪われたことを。

 何もかもを奪われた。

 あらゆるものを、生きる希望さえ奪われた自分にたった一つ残された希望の光。それは、一人のあどけない少女――そう、それこそが花音だった。


 花音はよく笑う()だった。眩しいほどの笑顔をいつも絶やさない、純真で明るい少女だった。

 澄み渡る蒼穹の如く清らかで、万物を照らす白日の如く暖かで、凛と咲き誇る常初花の如く愛しく可憐で……。

 それは、すべてを失い、生きる価値を失った自分にとって唯一の希望の導だった。

 なのに、あの日、それすらも奪われた。


 全てを飲み込み、無情に燃え盛る紅蓮の炎。

 希望の一輪は無慈悲で理不尽な業火に呑まれた。

 血の色と同じ烈火は何の罪もない無垢な花を無惨に灰燼とした。

 闇にも等しい黒煙は蒼天を覆い隠し、日輪を包み込みその温もりを掻き消した。

 忌まわしい煉獄の炎は全てを焼き尽くすだけ焼き尽くし、やがて跡形もなく消え去った。

 しかし炎火は消えても、そこに再び花が芽吹く事はなかった。天を覆う黒雲は晴れず、未だ陽光を阻んでいる。

 

 もしももう一度、あの愛しい花を愛でることが出来るのならば、清清しい天穹の下、暖かく目映い陽の光を浴びて輝くあの花を慈しむことができるのならば、そのためにどんなことだってしよう。どんな犠牲をも払おう。

 反逆者となりはてようとも、罪人に身を落とそうとも構わない。

 粛清でも拷問でも、いかなる責め苦にも耐え抜いて見せる。

 たとえこの手を血で染めることになったとしても。この身がどれほど血に塗れようとも。

 彼女を護るためならば。もう一度、彼女があの頃のように笑ってくれるのならば。

 必要とあらば、どんな殺戮も躊躇わずに完遂して見せよう。

 彼女に勝る価値を有するものなど、この世界の何処にも存在しない。彼女の代わりになるものなどありえるはずもない。万の命を以ってしても彼女の命の前には無に等しい。

 そのために地獄に落ちるとしても、喜んでそれを受け入れよう。

 花音さえいれば、他には何もいらない。何も望まない。

 彼女のためならば、この命だって惜しむものか――。





 不条理な猛火が花音から両親を奪ったあの日。花音からあの笑顔を奪ったあの時。確かに誓ったのだ。

 灼熱の炎を前に泣き崩れ、震える彼女の小さな小さな身体を、この両腕にしかと抱いて。

 たとえ何を犠牲にしたとしても必ず、この命に代えてでも必ず、花音だけは守り抜いてみせる、と――――。



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