第拾伍章 桜の約束
『導きは 漆黒翔る 白雪なりて 花の傍らで 汝を待たん』
白地に菖蒲の花が咲き誇る着物を纏い、椿はそっと息を吐いた。
「もう…後には引けませんの。あの方のためにも、一族のためにも」
空を見上げれば、燃えるような赤が空を染めていた。あと数刻で客人が訪れる。大切なものを守る為に。椿のもとに。
「雪玲、彰人と朔真に伝えてくださいませ。貴方方も含めて、私が良いと言うまでこちらに来ないようにと。これは当主としての命令です」
『かしこまりました姫君。御身のお心のままに』
闇が近づいてくる。
*
数刻後、椿は近づいてくる足音を聞きつけるとそっと息を吐いた。
『姫君、お連れいたしました』
「ありがとう」
雪玲の呼びかけに応えると、雪玲は一目し、その場を離れる。
「…」
招かれた客人は一言も発さずにその様子を見、椿を見つめた。表情には出さないもののその瞳には強い感情が燃えていた。
「こうして直接合い間見えるのは初めてですわね。お初にお目にかかります。私、南雲家当主の南雲椿と申します」
やわらかな笑みを浮かべ、微笑む椿。だが、依然として客人は表情を変えない。
「申し遅れました、―――と申します。この度はお招きに預かり光栄です」
丁寧で穏やかな響きを含んだ声、彼の名前は風に掻き消され椿の耳にしか入らなかった。
「お噂は聞いております。家のものがお世話になったそうで―」
「前置きは結構ですよ。恐縮ではありますが、こちらも長居はできませんので早速本題に入らせて頂きたいのですが…?」
にこやかに言葉を進める椿をやんわりと遮る青年。穏やかで丁寧すぎるような口調が、彼の存在を浮き立たせる。
「そうですの。もっとお話したかったですが、残念ですわ。取引とは?」
残念そうにしつつ、呑み込む様な気迫で椿は問う。
「もう既にお察しでしょうに…。先日、同朋が回収したこの『指輪』、あなた方にお返し致します」
そう言い、彼は袖を捲った。華奢な鎖が繋ぐ一対の白銀、南雲の宝『誓いの指輪』がそこに輝いていた。彼は、それをちらつかせながら言葉を続けた。
「勿論、無償で、とはいきませんが、こちらの提示する条件を呑んで頂けるならば、確かにお返し致しましょう。僕の望みを叶えてくれるなら、ですがね」
「…望みとは?」
静かに尋ねる椿。その瞳には何の色も浮かんでいない。
「彼女に、城崎花音には手を出すな――僕が対価として要求するのはそれだけです。今後いかなる事態に陥ろうとも、彼女には指一本触れないと約束して頂きたい。…如何です、あなた方にとって悪い条件ではないでしょう?」
彼は、陸上斎は、静かにけれども力強く言った。肌で感じる気迫は一般人であれば当の昔に気を失っているほど深かった。
椿は悲しそうに微笑んだ。斎の花音を守ろうとする強い意思を見て、自身には無いものを見るかのように。
「その方が大切ですのね。宝を捨ててでも守りたいほどに。羨ましい、私も―」
『なぁ、お前名前は?』
『約束だぞ! 必ず―』
椿の脳裏に誰かの言葉が響いた。桜が柔らかに舞い散る中、あの子は笑っていた。
「――!」
言葉を紡いだはずの口から出たのは、音の無い空気だけ。何かを忘れている、椿がそう感じた瞬間、その記憶は真っ白に塗りつぶされていく。
「…? どうかされましたか?」
斎の呼び声で椿は覚醒した。頭がぼんやりとして、先ほどまで何を考えていたか分からなくなってしまっていた。
「…取引の話でしたわね? 良いでしょう。元より私もなるべく争いたくないんですの。争いは、悲しみを生むだけですから」
「それは…殊勝な貴意ですね…。まあ、あなた方の真意がどこにあろうと、取引に応じてさえ下されば、こちらとしてはこれ以上申し上げることはありません。…では、この度の取引、御快諾頂けたと受け取ってよろしいですね?」
確認を取ると、斎は彼女に『指輪』を渡した。そして、用は済んだと言わんばかりにその場を後にしようとする。
「お待ちくださいな。我が家の桜をじっくりとごらんいただきませんこと?」
椿は背後の桜を示し、自慢げに微笑む。彼女が引き止めるのも無理も無いほど、桜は美しく、艶やかであった。だが、斎は先ほどから一瞥もしていなかったのだ。
「桜、ですか? 頂いた手紙にもそうありましたが……そんなもの一体何処にあるんです?」
怪訝そうに言う斎。そう、見えるはずが無いのだ。南雲の桜は、南雲家の人間にしか見えないのだから。
「そう、貴方には見えないんですのね。天城に連なる者でしたら見えると思ったのに残念ですわ」
悲しそうに話す椿。その清楚で柔らかな面影には既に当主としての顔は消えていた。
「僕にはなんのことだか。それに、生憎僕は桜は嫌いでしてね。…どうやら無駄話が過ぎたようです。それでは、僕はこれにて失礼させて頂きます。…くれぐれも反故になさらぬよう…」
その言葉を最後に斎は姿を消した。
「まぁ、冷たい。取引した以上、狐さんには手を出しませんわ。こちらからは」
風に靡く無数の花びらが椿の表情を隠す。一瞬見えたその顔には、酷く冷たい色が浮かんでいるようにも、今にも泣き出しそうな寂しげな色が浮かんでいるようにも見えた。