第拾肆章 純白の咎人
桜祭りに行こうと、約束していた。
大岡川の桜が満開だから、と。
でもその約束が果たされることはなかった。
*
「おい、聞いたか、例のアレ」
「夜中の白い光だろ? 鬼の仕業だってな」
「俺見たぜ! こう、白い光が柱みたいにさ」
「その光、例の魔窟からだって聞いたんだけど、マジ?」
「位置的に見て間違いないな」
「マジかよ!? あの魔窟がヤバイって話、ホントだったんだな」
「なぁ、折角だから放課後行ってみねぇか? 鬼の魔窟にさ」
「冗談よせよ!」
「やめとけって! 鬼に呪い殺されるぜ?」
……予想はしていた。
噂は本当に広まるのが速い。
以前『盾』の封印を解いたときもそうだった。あの時は日中に起きた快晴の落雷ということもあり、実際に目にした者も多かったらしい。翌日の教室はその話で持ちきりだった。あろうことか、授業丸一時間分を噂話に提供してくれた教師もいたほどだ。まったく、県内屈指の進学校が聞いて呆れる。
しかし、覚悟はしていても、やはり事実無根の噂というのは聞いていて気分が悪い。
しかもそれが、悪意に満ちたものであるから尚更だ。
「鬼って言ってもさ、あたし達と見た目は変わんないんでしょ?」
「そうそう。街中ですれ違っても変わんないと思うと怖いよね」
「電車で隣に載ってるやつが実は鬼だったり、とか?」
「うわ、怖ッ!」
「鬼だったら鬼らしく角でも生えてりゃ判りやすいのに」
「ホントだよねー」と、どっと笑いが起こる。
その様は中学生のいじめっ子そのものだった。
……実に勝手なものだ。
勝手に『鬼』というイメージを作り上げ、それをさも真であるかのように語り継ぎ、新たな事実を創り出す。
『鬼』の真実など、何も知らないくせに――。
「俺の従兄が英宝に通ってんだけどさ、今日神の一族が来てるらしいぜ」
「うっそ、椿様来てんの!? いーなぁー、オレも会いてー!」
「オレ授業サボって英宝行って来ようかな」
「なぁなぁ、サイン頼んだらしてくれると思うか?」
「バッカじゃないの? アイドルじゃあるまいし」
「つか、神サマ相手にサインとか、畏れ多いっての!」
「あーあ、俺もやっぱ英宝行けばよかったなー」
「うちはただの進学校。向こうはある意味正真正銘の神学校だもんな」
「言えてる!」
人々は南雲の一族を『神の一族』と呼ぶ。
そして反対に、天城の一族を『鬼の一族』と呼ぶ。
理由は他でもない。千年もの昔からずっと、そう呼ばれているから。そう教えられたから。ただ、それだけだ。
「マジ鬼なんてさっさと消えちまえばいいのに」
「あんな奴等、みんな神サマに滅ぼされちゃえばいいのよ」
「神サマも何でいつまでも野放しにしておくのかしら?」
「あれじゃね? 神サマは全てのものに分け隔てなく平等に愛を分け与えるスバラシイ存在だから、鬼退治を躊躇ってんだよ」
「おいおい、オレらと鬼は同じかよ?」
「情け深い神サマの目から見れば一緒なんだよ、きっとさ」
「あー、もう慈悲とかどーでもいいから、鬼に怯える哀れな俺たちを早く助けて欲しいわ」
「そうよ、鬼は所詮鬼なんだから」
「鬼に情けは必要ねぇ」
「ホント、マジウゼェ」
「とっとと死ねよ」
「鬼なんて皆死んじまえ」
「そうだ、死ね」
「死ね」
はじめのうちはただの悪口だった会話が、徐々に険を帯び、憎悪に満ちたものへと変わっていく。
聞くに堪えない言葉に耳をふさぐも、教室に溢れる黒い言葉は直に身体に突き刺さる。
心無い言葉は自分に向けられたものではないのは分かっている。だが、我がことのように辛い。いや、むしろ自分のことであるなら反論も出来る分、いくらか楽かもしれない。
この場から今すぐにでも逃げ出したい。そんな衝動に駆られる。
それをギリギリの精神状態で保っていた小さな背中に、追い討ちをかけるような言葉が投げられた。
「鬼は世界を滅ぼして人間を皆殺しにしようとしているんですってね。いわば鬼は全人類の敵。なのに、そんな鬼に味方するような人間がいるんだから、私にはそっちの方が信じられないわ。――――ねぇ、秦野さん?」
頭上から降ってくる棘のある声に、冴はゆっくりと顔を上げた。数人の女生徒を引き連れ、正に女王様然とした少女が視界に止まる。
高圧的に腕組みをした少女は、躊躇いも悪びれもなく冴の机にどかっと腰を降ろした。
「どうしたら鬼の肩持とうなんて血迷った発想ができるのかしら?」
気付けば、いつの間にか教室は静まり返っていた。全員が全員、冴と少女のやり取りに関心を寄せているようだった。
その空気が気にいらない冴はあえて少女の挑発を無視する。だがそれは少女の神経を確実に逆撫でた。
「あら、シカトなんて随分と失礼ね」
机の隅に冴の携帯を捉えると、少女は断りなく携帯を取り上げた。
「勝手に触らないでよ」
あろうことか勝手に携帯をいじり始めた少女に冴は咄嗟に抗議の声を上げる。
その声に普段の明るさや無邪気さはない。どこか冷たい、突き放したような口調。
少女はといえば、ロックがかかって操作が出来ない携帯に舌打ちして一瞬苛立った様子を見せたが、やがて表情を一変させた。
「アナタ、天城の家に出入りしているそうね?」
突如少女の口をついて出てきた言葉に冴は思わず瞠目した。
――どうしてそのことを――!?
どこかで姿を見られるような失態をしただろうか。
いや、天城への出入りには細心の注意を払っていた。誰かに見られているはずはない。
では、何故――?
すると、少女がにやっと不適に笑んだ。
その笑みを見て、冴は悟った。
少女の発言は確証に基づいたものではない。ただの、ブラフ。
(はめられた……!)
心のうちで地団駄を踏む冴を前に、少女は勝ち誇ったように盛大に嗤いだした。
「そう! やっぱりそうだったの! やっぱりアナタ鬼と繋がってたの!!」
「……何、言ってんのよ……」
「言訳したって無駄よ! 今のではっきりしたもの!」
甲高い少女の声の後ろで、クラスがどよめきはじめた。
「ようやく分かったわ、何でアナタが鬼の肩を持つのか。奴等と個人的に親交があれば、そりゃあ当然肩持つわよねぇ?」
詰め寄る少女に焦燥感が煽られる。
ここで自分が天城と――『鬼』と関係があることを認めるのは得策ではない。だが、少女の確信を覆すのはどう見ても容易とは思えない。――ならば。
「だったら何よ!? 別にあたしが誰とつるんでようとあたしの勝手でしょ!?」
これ以上仲間へ向けられる侮蔑や罵倒を聞かされるくらいなら、いっそ自分がそれを正面から受けて立ってやろう。
感情のままに叫んで、少女の手から携帯を奪い返した。
その瞬間。
バチッと何かが弾けるような音と共に、少女が短く悲鳴を上げた。
一瞬遅れて、冴は息を呑んだ。奪い返したばかりの携帯が手から滑り落ちる。
――しまった……。
全身から血の気が引くのが分かる。頭の中が真っ白になった。
少女は冴に触れられた手を抱えながら、痛い、痺れる、と涙目でクラスメイトに訴えている。
少女の性格からすれば、その大仰さ故に演技ではないかとも思えるが、それが演技でないことは冴自身が一番よく分かっていた。
「ちょっとアンタ何したのよ!?」
「凄く痛がってるじゃない!」
「謝んなさいよ!!」
非難の声を向けてくるクラスメイトに、冴は数歩後ずさりした。
脳裏に雷毘の言葉が甦る。
彼女は常に言っていた。
――独りでは『力』を十分に制御出来ないのだから、独りの時には決して『力』を使ってはならない、と。
そして、感情が高ぶると『力』が暴走するから、気をつけなさい、と――。
「何が起こったんだよ」
「それに何だよ、今の音」
尋常ではない状況にクラスがざわめきだす。
すると、誰かがぽつりと言った。
「――鬼」
それが、引き金だった。
それまでの動揺は恐怖へ変わった。ざわめきは悲鳴へと変わった。
「鬼が出た」「殺される」と緊迫した叫びをあげながら、我先にと教室から逃げ出そうとするクラスメイトたち。
それより一足早く、冴は教室から駆け出していた。
耳を劈くような悲鳴が背後から聞こえる。
それを振り払うようにして、ただ全速力で学校を後にした。
学校を飛び出した冴は、その足で天城邸を目指していた。
あの騒ぎでは秦野の家には帰れない。天城の家に落ち着く以外他になかった。
脳裏でいくつもの声が錯綜する。
嫌悪に満ちた罵声。
恐怖に染まった悲鳴。
『鬼』という言葉が重くのしかかる。
それらの声を掻き消すように、冴は声に出してわざとらしくぼやいた。
「あーあ。財布くらい持って来れば良かった」
教室を飛び出したとき、何かを持って行くなんていう発想をしている余裕はなかった。だから鞄も何もかも教室に置いたままだ。
あの状況下ではいた仕方のないことではあるのだが、おかげで天城邸に行こうにも足が確保できずにいた。せめて財布くらい持ってくれば交通機関を利用することもできたのだが、如何せん綺麗な一文無し状態である。
ここから天城邸までは電車でも一時間ほどかかるというのに、それを徒歩でといったら、一体どれくらいかかるのだろうか。
前途多難な状況に大きくため息をついた、その時。
「お前、こんなとこで何やってんだ?」
ぶっきらぼうな声があった。
よく聞き知った声に、冴は弾かれたように顔を上げる。
今まで下を向いていたせいで気付かなかった。
目の前には、金髪の柄の悪そうな青年が――倖介が、そこにいた。
「でも本当に助かったよ! たまには役に立つんだね!!」
「何が『たまには』だっ! カワイくねーこと言ってっと――」
「それより倖介君は何でこんなとこにいたの?」
学校はとうに始まっている時間だというのに、制服を着た、しかし靴は上履きの女子学生が何も持たずに独りで街中を歩いている――誰が見ても明らかに不自然な状況だった。
だが倖介はそのことについて何も訊いてこなかった。ただ「乗るか?」とヘルメットを投げてよこしただけ。それが、冴にとっては非常にありがたかった。
事の成り行きを説明するには、再びあの嫌な声を思い出さなければならなくなる。それは、今の冴には耐えがたい苦痛だった。
彼はデリカシーなどというものとはおよそ無縁と思っていたが、案外そうでもないのかもしれない。
冴は幾分か安堵したように微笑した。
一方その当の倖介はといえば。
心外な発言をされ、その上反論も途中でかき消され、なかなかにご機嫌斜めの様子だった。
冴の問を受け、心底苛立たしげに吐き捨てる。
「……バレたんだよ、アイツの車勝手に乗って傷付けたの」
ここで言う『アイツ』が誰を指すのかは言うまでもない。
曰く。
渡英に際し、倖介は彼から愛車の管理を託されていたのだが、管理の見返りとして少しくらい乗り回しても問題はないだろうと調子付いた結果、車体に見事なストライプを刻んでしまったらしい。
「それはどう考えたって倖介君が悪いでしょ」
「いいじゃねーか、少しくれぇ。俺のとこ置いて自分はイギリス行ってんだからよ」
「だからって他人のもの勝手に使っちゃいけないんだよ。それで疵付けられたら誰だって怒るって」
「疵ったってバンパー少し擦っただけだぞ!?」
「疵は疵じゃん」
「うっせーな! バンパーっつーのはもともと疵付けるためにあんだよ!」
バンパーの存在意義をどうにも取り違えているらしい倖介とこれ以上この議論しても無駄だと判断した冴は、別の問いを投げかけた。
「斎君の車って高級車でしょ? どうすんの?」
「ペンキで隠す」
即答だった。
なるほど、そのためのペンキを買いに来ていた、ということのようだ。
「……それ、やめた方がいいと思うけど」
「何でだよ、絶対バレねーぞ」
「いや、絶対バレるって。修理どころかむしろ逆効果だよ」
「そう言うけどな、お前! あんな車修理出したらいくら取られると思ってんだよ!! 全うな修理なんざ出せるかッ!!」
無断で乗り回した挙句自分のミスで疵付けたというのに、随分な言い草だ。
しかし当の本人は怒り冷めやらないらしく、そもそも二十歳にもならんガキがフェラーリを愛車などと抜かしていること自体がふざけてやがる、と愚痴を並べている。
確かに倖介の言うとおり、愛車というには年齢不相応な高級車だ。でも、と冴は首を捻った。
「でもあれって斎君がお父さんから貰った車でしょ?」
彼の父親は三度の飯よりも車が好きな人だった。
毎日のように愛車を磨いては満足そうに眺めていた。
ガレージには確か数台の車が並んでいたように記憶している。その内の一台を息子に譲ると言っていた。数台あったうちのどれを斎が譲り受けたのかは知らないが、いずれも高級車だったのは確かだ。
しかし倖介は、何を思ったか若干間を置いた後、不機嫌そうな声音でそれを否定した。
「ちげーよ。陸上の親父さんのはアウディ。フェラーリはアイツが自分で買ったやつ」
これには流石に冴も驚いた。陸上の家が裕福だったのは知っているが、まさかあの年でフェラーリを自腹とは。
いやそれよりも、彼はかなりの吝嗇家で、どちらかといえば高級嗜好を毛嫌するような印象が強かったのだが……。
でもとにかく、彼が自分で買ったというのなら尚更。
「そりゃあ怒るよね、斎君」
「あーもー、ッるっせーな!! 今日アイツが帰ってくる前に直さなきゃいけねーんだ。てめーも手伝えよ!」
しみじみと言う冴に対して、怒気に満ちた声で決め付ける倖介。
犯罪の片棒を担ぐような罪悪感と抵抗感があるのだが、途方に暮れていたところを拾って貰った恩のある冴に断ることは出来なかった。
嘆息交じりに「ハイハイ」と気のない返事をしたところで、冴はふと疑問を口にした。
「斎君、出かけてるの?」
「花音と二人で朝から出てった」
「花音ちゃんと?」
そう訊き返して、はっとした。
花音は滅多なことでは出かけない。その彼女が月に一度、必ず出かける日がある。それは――。
「……そっか、今日、だよね。花音ちゃんのお父さんとお母さんが亡くなったのって……」
両親の墓参りだ。
必ず、一度も欠かすことなく月命日に。
そして今日は、祥月命日だ。
「――違う。死んだんじゃねぇ」
突然、倖介が低く呻った。
「殺されたんだよ! 城崎の親父さんもお袋さんも、クズ野郎共に殺されたんだ!!」
搾り出すように吐き出された、恨みに塗れた叫び。
怒りに震える倖介の背にしがみ付き、冴は唇を噛んだ。
……そう。
倖介の言うとおり、城崎花音の両親は『死んだ』のではない。『殺された』のだ。
彼ら二人を鬼だと恐れた、人間たちによって――。
*
父も母もとても優しい人だった。
いつもあの大きくて温かい腕で抱きしめてくれた。
三人で花の世話をするのが何よりも楽しかった。
平凡で質素ではあったが本当に幸せだった。
優しくて温かい両親が、大好きだった――。
今日のために育ててきた鈴蘭を恭しく目の前の躑躅に備え、花音は静かに合掌した。
純白の花を咲かせるその躑躅は、傍目には何の変哲もないただの躑躅だ。それに花を供え、膝を突いて手を合わせる姿は、何も知らない人間から見れば異様と映るだろう。
だが、これはただの躑躅ではない。この下には、大切な両親が眠っている。
……そう。この躑躅は、両親の墓標――。
しばらく黙祷を捧げた後、そっと躑躅に手を伸ばす。
汚れなく美しく、しかし凛と咲き誇る躑躅は、両親の面影を思い起こさせる。
「……また、来るから……」
両親の笑顔を思い出し、花音は寂しそうに微笑むとやおら立ち上がった。
「――もう、いいのか?」
同時に背後で声がした。振り向けば、いくらか離れた場所に、どこか居心地の悪そうな佇まいの斎の姿があった。
彼とこうして両親の墓参りに来るのはもう数え切れないほどになるが、それでも彼は未だにここに来るとどうにもぎこちない様子になる。
そのぎこちなさが何故のものなのか、それを察した花音は穏やかに顎を引いた。
斎は変わった――。
時折、ふとそう感じる瞬間がある。
殊にこの数日はそれが頻繁に、そしてより顕著になっているように感じられる。
花音は向かいに座る斎に視線を向けた。
注文を取りに着たウェイトレスにオーダーを出す姿は、一般の青年と変わるところはない。どこにでもいる、普通の青年だ。
自身の本心や本性を決して他人に悟らせない完璧な所作。その処世術は実に見事なものだと思う。
彼を見て、一体誰が思うだろうか。
――彼が、天城に連なる『鬼』の一族の者であるなどと――。
ウェイトレスが去った後、斎はすまなそうに口を開いた。
「ごめんね、こんなところで。本当はもっとまともなところでちゃんとしたものを、と思ってたんだけど……」
その言葉に花音は内心で苦笑した。
彼だって本当は、こんなファミレスなどではなく、それなりのカフェか何かに入りたかったに違いない。それでも彼があえてこちらを選んだのは、人が多い場所が苦手な自分を慮ってのことだと花音は分かっていた。
時刻は昼時をとっくに過ぎたティータイム。この時間なら、カフェよりもファミレスの方が人が少ないと読んだのだろう。現に店内には彼らのほかに数組の客しかおらず、さほど人の気配に窮屈を感じずにいられる。
彼はいつもそうやって当たり前のように気遣ってくれる。
「これなら大丈夫。……ありがとう」
そんな彼の優しさに応えようと、花音は努めて柔らかく微笑んだ。
それを聞いた斎もまた、安堵したように穏やかな表情を見せた。
こうやって外出してどこかの店に入るのは、花音にとっては久しぶりのことだった。最後に入ったのは前回斎が一時帰国した時だから、もう半年前になる。
花音は基本的に外出するのは好きではなかった。正確に言うならば、人ごみや他人と接することが嫌いだった。だから花音は普段、独りで街中を出歩いたり、まして店に入ることなどしない。
それでも斎と二人でこうして出かけるのは嫌いではなかった。
何故かは分からない。
でも、彼といると不思議と落ち着く。人を見るとどうしても感じてしまう恐怖心も、彼がいると薄らぐ。まるで、彼に護られているかのような、そんな安心感がある。
斎は花音にとって両親と同じくらいに身近で頼れる存在だった。物心つく頃には彼は常に側にいて、以来ずっと兄妹同然に育ってきた。両親の亡き今、彼はこの世界で最も信頼できる存在だといえるだろう。
真実、花音は誰よりも身近な彼を誰よりも信頼していた。
だが、最近、身近なはずの彼を遠くに感じることがある。
たとえ彼がイギリスにいて、物理的に離れているときであっても、彼の存在を遠く感じたことなどなかったのに。
まあ、物理的に離れているとは言ってもその実、二、三日に一回はメールが送られてきたし、最低でも月に二回はイギリスで見繕った品が送られてきた。
とにかくイギリスにいても彼の気遣いはいつでも感じられた。だから、姿は見えなくても、彼がいつもすぐ側にいてくれているような、そんな気がしていた。
でも最近は、違う。こんなに近くにいるのに、手を伸ばせは触れられるほどの距離にいるのに、彼が遠い。
勿論今も彼は十分すぎる気遣いを見せてくれるし、優しくしてくれる。
でも、違うのだ。姿は隣にあっても、そこに彼はいない。手の届かないずっと遠くに彼を感じる。そんなことが多くなった。
――斎は一体何処にいるの……?
胸の奥が疼く。
独り遠くに立つ彼が苦しそうで、傷だらけに見えて、そして、泣いているように思えて。
それなのに、彼が何も話してくれないことが、彼のために自分には何も出来ないことが、お前は無力だと言われているようで、辛くて、哀しかった――――。
「あら? 陸上君?」
突然かけられた女の声で花音は現実に引き戻された。
声のした方を振り向けば、そこには二十歳前後と見受けられる二人の女性が立っていた。
斎の知り合いだろうか、と彼に視線を投じるも、名前を呼ばれた当の本人は二人を見上げ、しかしその顔に覚えがないのか困惑の色を浮かべている。
「やっぱり陸上君よ、ほら」
「ホントだ! 私たちのこと覚えてる?」
やや興奮気味の二人は順に名乗った後、小学校の同級生だと加えた。
小学校と聞いてようやく合点がいったらいしい。斎はそこで隙のない笑みを見せた。
「久しぶり」「元気だった?」そんなありふれた挨拶が三人の間で交わされる。一般的などこでも見られる、昔の級友との再会の図だ。
一通りの挨拶を終えると、一方の女性が花音を視界に留めて言った。
「その娘は?」
「もしかして……彼女、とか?」
「違うよ。従妹なんだ。八年ぶりに日本に帰ってきたら、驚くくらい街が変わっててね。それで、彼女に色々案内してもらってるんだよ」
そこはかとなく険のある口調で問うた二人だが、斎の返答を聞くなりどういうわけか嬉々とした表情を見せた。
こうして見ると、つくづく斎は身の処し方が上手いというのがわかる。
こうもさらりと何の違和感もなく嘘をつけるとは。
それに、この女性二人の斎に対する態度は非常に友好的で好意的だった。
そこから察するに、おそらく彼は己が鬼と呼ばれる一族の者だと悟られないように、完璧なまでに八方美人を演じていたのだろう。そうすることで他人に疑念を抱かせる余地を与えなかった。
関わりを避けようと他人を拒絶すればどうしても疑念を挟む余地を生んでしまうから。
それにしても、世の女というのは随分と口がよく動くものだ。
近くの大学に通っているだの、授業がつまらないだの、大学にはろくな男がいないだの、そんな訊いてもいないことを次から次へと話し出す。
やがて自分たちのことを一通り話し終えたところで、二人のうちの一方が興味ありげに尋ねてきた。
「陸上君はどう? アメリカの大学ってどんなかんじ?」
その問に花音は思わず斎を見やる。しかし斎はその問に疑問を見せることなく当たり障りのない受け答えを続けていた。
傍から見たら、斎は非の打ち所のない好印象の青年と映るだろう。
たとえそれが虚偽と欺瞞によって作り出された偽りの姿だとしても、誰もそれを真実だと疑わない。
今彼が見せている笑みに温かさはないのに。
穏やかな空気も優しげな口調も、彼の周りにある壁を隠すためのカモフラージュに過ぎないのに。
彼らが知る陸上斎という人間の情報はそのほとんどが嘘によって上書きされたものなのに。
誰もそれに気付かない。
これは花音の推測であるが、おそらく斎はこの二人のことを覚えてなどいない。
ただ、この場を穏便に纏めるために、さも覚えているかのように振舞っているだけ。
するとひたすら喋り続けていた二人が何の前触れもなく話題を変えた。
「ねえねえ、陸上君、鬼のことどう思う?」
「最近鬼が動き始めたって噂でね――」
花音は氷の刃が突き刺さるような痛みと冷たさを感じた。
『鬼』という言葉が、聞きたくない呪いの言葉が、胸を抉る。
だが、背筋が凍るような悪寒の原因は、別にある。
花音が不安げに見つめる先――斎の眼が明らかに変わっっていた。
彼の纏う空気が冷たさを帯び、敵意を孕む。
「……興味ないね。鬼なんて所詮、妄想の産物だろう?」
言い切った斎の口調にそれまでの温厚さはなく、どこか棘を感じさせる冷ややかなものだった。
花音の目にはそれが恐ろしいほど冷徹なものへの変化と映っているのだが、一般人二人の目にはさほどの変化として映っていないらしい。期待したとおりの返答が斎から得られなかったことにやや不満そうにしている。
「――魔女狩りって知ってるかい?」
そんな二人から視線を外すと、ティーカップを片手に斎は突如そう切り出した。
「中世ヨーロッパで実際に行われていた狂気的な大虐殺だ。莫迦げた迷信を根拠に、裁判という体裁の名の下、罪のない人間を『魔女』として次々と処刑していった狂信的殺戮。今でこそ魔女狩りは残虐で背徳的な過ちであったと一般的に認識されているわけだけれど……」
淀みなく淡々と述べ、そこで一旦言葉を切って斎は二人を視界に止めた。
「この『魔女』と君たちの言う『鬼』って、何が違うのかな?」
言葉の文字面だけ見れば非常に穏健だ。しかし、その言葉の裏には確かに怒りと憎しみが宿っている。
二人に向けられる表情は柔和そのものだが、漆黒の双眸は冷冷とした常闇を髣髴とさせる。
疑問形をとってはいるが、異論は許さないという威圧がそこにはあった。
えもいわれぬ威圧に、二人はあきらかに返答に窮していた。
そして、どうしたものかとしばし逡巡したのち「それより」と新たな話題に打開を求めた。
「今日これからあいてるの?」
「よかったら一緒にお花見行かない?」
「大岡川の桜がね、今見ごろなんだって――」
賢明な判断だった。
話題の内容も咄嗟のことで他意はない。
だがそれは――地雷だった。
――大岡川の、桜……――
花音は今度こそ心臓を鷲掴みにされた感覚に襲われた。
恐怖が頭を支配する。視界が歪む。全身が冷たくて、指先の感覚がなくなって。
血相を変えた斎が駆け寄ってくるのが気配でわかる。何かを言っているように思えるのだが、何も聞こえない。
聞こえるのは、すべてが燃え尽きる音。真っ赤に染まりながら崩れ去ってゆく音。
約束していた。でも、叶わなかった。あの約束は、燃え盛る真っ赤な業火にのまれて消えてしまったから――――。
呼びかけても反応のない花音の蒼白な面差しを覗き込み、斎は端整な面持ちを歪めた。
震える華奢な指に触れれば、驚くほどに冷え切っている。斎は咄嗟に着ていたジャケットを脱いで花音の肩にかけた。
そして震える肩を抱き、そっと耳元で労わるように囁いた。
それは、小さな囁きだった。おそらく近くに立つ級友二人にも聞こえないであろう程の。
だがその言葉は花音を苛む真っ赤な音を一瞬で掻き消した。
懐かしい言葉。
温かくて、優しい言葉。
花音はおずおずと上目遣いに斎を見上げた。
「……行こう」
斎の言葉に小さく頷き、力の入らない指で、差し出された手を掴む。
「……どうかしたの?」
「大丈夫?」
何が起こったか状況を飲み込めずにいる二人は、それでも心配そうに声を掛ける。
そんな二人に斎は一瞥を投じた。
そのとき黒曜の瞳に宿っていた光は、もはや冷たいなどと呼べる代物ではなかった。
もっと恐ろしく身の毛のよだつような、息も出来なくなるほどの、そう――殺意。
「彼女、調子が優れないんだ。悪いけど僕はこれで」
口早に言い捨てると、以後斎は言葉を加えることも振り返ることもしなかった。
覚束ない足取りの花音を気遣いながらカウンターに向かい、財布から無造作に一枚の五千円札を引っ張り出して伝票と共に店員の前に突き出す。
「Keep the change.」
短く言い残すと、困惑顔の店員になど目もくれず、店を後にした。
今は釣銭を捨ててでも、一刻も早く、この場を去りたかった――。
天城邸に戻るまで、花音は一言も口を開かなかった。斎もまた、同様に。
邸の門の前で花音を降ろしたところで斎は伏し目がちに謝罪を口にした。
「……ごめん。嫌な想いをさせて」
その謝罪の言葉に花音は即座に反応した。
「斎のせいじゃない」
彼が謝るのは筋違いだ。彼は何も悪くない。
だが彼はどうにも己を責めているらしい。表情を見れば分かる。だから――、
「また、どこか一緒に行こう?」
だから、花音は淡く微笑んで見せた。
それがよほど想定外だったらしい。斎はしばらく驚きを隠せずにいたが、やがて決まり悪そうにしながらも表情を和らげた。
「……そうだね。また、どこか――そうだ、今度は薔薇園にでも行こうか」
「薔薇園……イギリス館の?」
「違うよ、本場のイギリスの。リージェンツ・パークっていうのがロンドンにあってね、そこの薔薇園が凄く綺麗なんだ。君ならきっと気にいると思うよ」
そう言った斎の表情は幾分か明るかった。
イギリスの話をする時の斎はいつもとても楽しそうだ、と花音は思う。よほどイギリスが気に入っているのだろう。
彼の好きな国。有名な薔薇園。――飛行機に乗るのは嫌だけれど、でも、一度くらいは行って見たいと思う。
花音は頷きかけて、しかしそこで、バイクに跨ったまま降りようとしない斎を訝って首を傾げた。
「どこか行くの?」
「ああ、ちょっとね。会う約束をしてる人がいるんだ」
さりげなく視線を逸らす斎。
――会う約束? 誰と――?
しかしそれを花音が問いかけることはなかった。
訊いてはいけない――本能がそう訴えかけていた。
「……これ、ありがとう」
エンジンに手をかけた斎に、花音はジャケットを差し出した。
日が傾きかけているせいか、段々と風が冷たくなってきている。
彼のジャケットのおかげでバイクに乗っていても寒さを感じずにいられたが、その分彼は寒い思いをしたのではないだろうか。ただでさえ、バイクのライダーは風を全身で受けるのだ。
今更のようにそう思えてきて、申し訳ない気分になる。
しかし斎はジャケットを受け取ると案ずるような表情を見せた。
「もう家の中に入ったほうがいいよ。冷えるといけないから」
ある意味予想通りの言葉だった。
本当に彼はいつもいつも私のことばかり――。
花音は苦笑交じりに小さく頷いた。だが頷いたもののその場を動こうとはしない。
――せめて見送りくらいはちゃんと……。
その意図を読んだのか、彼は心なしか素早く準備を整えエンジンをかける。
「すぐ戻るから」
そう言って軽く手を挙げると、斎はバイクを発進させた。
そのとき花音の中で何かが疼いた。
苦しいほどに胸を締め付けられるような感覚。
……そう、この感覚だ。
遠ざかって行く背中を見送りながら、花音はこみ上げる不安と寂寥感に苛まれていた。
また、遠くへ行ってしまう。
独りで、誰にも頼らずに。
声も届かない、遥か遠くへ。
どれだけ走っても追いつかない。
どれだけ叫んでも振り返ってはくれない。
彼は優しい。彼の気遣いも嬉しい。
でもそれは、同時に悲しくもあった。
いつも自分は助けられてばかり。いつも護られてばかり。
自分だって彼の力になりたい。助けになりたい。
――傍で、支えになりたいのに……。
しかしその儚い想いが、もはや見えなくなった背中に届くことはなかった。