第拾参章 悲しみの歯車
満開の桜花が舞い散る中、誰かが涙を零していた。艶やかな漆黒が背を覆い、柔らかな瞳が絶望の色に染まっていた。
「―――」
震えた唇が小さく言葉を紡ぐが、風に掻き消され誰の耳にも届かない。あぁ、あれは―。
「姉」
己を呼ぶ声に、椿はゆるりと目を開けた。
「…創太。おはようございます」
「…はよ。…学校」
拙い言葉で椿に呼びかける創太。その瞳は不安に駆られているようだった。
「どうしましたの? 久々に登校するから緊張していますの?」
その問いに創太は否定するように首を振った。そして、おずおずと椿の顔を窺う。
「…怒ってない? …まだ駄目?」
椿は思わず微笑んだ。まるで、母親に叱られたような子供のようで。
「『指輪』の件ですわね。怒ってないですよ。ごめんなさいね、処罰を与えてしまって。怖かったでしょうに」
創太の頬を優しく撫で、悲しそうに椿は謝る。その手にすがりつくようにしながら、嬉しそうに笑う創太。
「…大丈夫。…でも『指輪』…」
「もう過ぎた事です。それより創太、客間の手入れをしてくださらない? 近々、お客様がいらっしゃるそうですから」
椿の言葉に創太は顔を勢いよく上げた。その瞳には驚愕の色が浮かんでいた。
「…誰?…」
「…大切な方が悲しむかも知れないけれど、その方を守る為にやってはいけない事をしに来る方ですわ」
そう語る椿の顔には、寂しそうな微笑が浮かんでいた。
椿達が在学している学校は、名を『私立横浜英宝学院』という。中高一貫で幼稚園から大学までを擁しており、百年前より存在する歴史ある学院である。
彼女らが持つ異名もこの学院の者たちにより付けられたものだ。
そして、一般生徒及び教職員、近隣の人々に至るまで一般人に『神』と呼ばれる一族『南雲』を知っており、敬愛している。
だが、その一方で『鬼』の一族『天城』とそれに連なる者を嫌っているのだ。
全ては千年前の『事件』によって。
「ねぇ知ってる? 『白の女神』達が久しぶりに登校して来るんだって!!」
「マジ?! って事は『聖者』とか『天使の王子』も来るって事よね!!」
女子生徒達は黄色みを帯びた奇声を上げる。
「おぅ聞いたか!! 『紅の女神』登校だってよ!!」
「マジかよ!! 白と紅、二人のアイドルが来るんなら、さぼれねーじゃん!!」
男子生徒達は歓喜の雄たけびを上げる。
男女ともが今か今かと彼女らの登校を待ち望み、校門を見つめていた。そして、その期待に応えるかのごとく、『神』の一族が姿を見せた。
柔らかな風に靡く漆黒の髪、儚くも美しく慈愛に満ちた笑みを浮かべ、椿は現れた。『白の女神』と謡われる少女の傍らには、穏やかな空気をまとった青年、『聖者』の異名を持つ彰人が並ぶ。彰人の反対側、椿の左には、『天使の王子』の名に相応しいほわりとした微笑を浮かばせた創太が並んだ。
そして少し遅れるように、時折表情を翳らせながらも、艶やかな笑みを出した『紅の女神』、美夜が歩く。
「皆様、ごきげんよう」
椿の一言に、彰人達を除く全ての学生、大人が歓声を上げる。
「人気者ですね」
彰人は困ったように微笑む。無理も無い。時期を空けて登校するといつもこうなのだから。
「椿さん!! 成果の程はいかがですか!? 『鬼』の様子はどうですか!!」
興奮気味に一人の女生徒が椿の前に出て尋ねた。その言葉を皮切りに様々な人が声を上げる。
「大丈夫よ! 椿さん達が『鬼』に負けるわけ無いもの!」
「そうだ! 『神』にたてつく『鬼』には天罰が下るんだ!!」
「早く、死んで欲しいよ。あんな化け物がいたんじゃ落ち着いて寝れやしない」
「あんな奴ら、なんで生きているんだろう」
悪意に満ちた声の数々、話すたびに嫌悪の空気が場を包み、一人一人の表情も歪んでいく。
「皆様、そう仰らないでくださいませ。彼らは私たちと同じ『人』ではありませんか」
悲しみに満ちた表情を浮かばせ訴える椿。
「椿さんは優しいですね。『鬼』とあたし達も『神』とあたし達も一緒じゃないのに」
「あっ、勿論椿さんたちは『化け物』じゃなくて『すばらしい神』ですよ!」
「そうですよ!! 椿さんたちは俺らとは良い意味で違うんですから!!」
それらの言葉に、椿は顔を伏せた。だが、それも一瞬の事。すぐに顔を上げ、優しく微笑んだ。
「そうですわよね。可笑しな事を言ってしまいましたわ」
「椿、疲れが出てしまったんですよ。保健室で休みましょう」
彰人はそう言うと、椿を優しく抱えその場を後にした。
歯車は、静かに動き出す。