第拾弐章 漆黒の望
――よいですか、決して違えてはなりませんよ――
遠い記憶。
朧げなその記憶の中の両手がそっと頬に触れる。
それは記憶の中にしかいない母親の両手。
母の顔は、もう思い出せない。
覚えているのは、その両手の温もりだけ。
すべてが朧な記憶の中にあってただ一つ、今も尚鮮明に思い出されるものがある。
それは物心つく頃から毎日聴かされた、一つの詩。
母によって紡がれたそれは、温かな微睡を漂う子守唄のようで。
不思議とそれはまるで躰の一部となるかのごとく、幼い自分の中に入ってきた。
そしていつしか、意味も解らぬそれを一言一句違わずに聴き覚えていた。
それを詠い聴かせる度、母は必ず決まって言った。
決して他言してはならないと。決して形に残してはならないと。
それが、天城を継ぐ者に与えられた使命であり責務なのだ、と――。
*
漆黒の空高くに漂う朧月。今宵のそれは欠けるところのない真円を描いている。
時は丑三つ時。深淵の闇に包まれた世界は不気味なほどに静まり返っていた。その暗がりの中に、生命の息吹は欠片もない。生きとし生けるものは影をも隠し、風さえも深い眠りについたかのように息を潜めている。
そんな無音の世界に突然鈴の音が響いた。黒闇を切り裂くかのごとき、鋭利な鈴の音。
《遅いぞ》
続いて低い声がした。
鈴の音と共に漆黒の闇が動く。それが模るのは、小柄な猫の姿。
《南雲が『杖』の封印を解いた。奴等に遅れを取るなどなんたること》
闇夜と同じ漆黒の毛並みを持つその猫が言葉を投げた先から、応えるようにして跫音が近づいてきた。
闇路に反響するその跫音は徐々に大きくなり、やがてはたと止まった。
「……そう神経を尖らせるな。俺たちは宝を手に入れる速さを競っているんじゃない。結果を出せれば過程はどうあっても構わない」
夜陰の中から聞こえて来た声は少年のものだった。落ち着きのある、無感情とも取れる声音。
「不要な焦燥は判断を誤らせる。以前から言っているだろう、急いては事を仕損じるぞ」
《黙れ! 貴様は我らが一族の悲願を何と心得る!》
少年が言い終わるが早いか、地を這うような低い怒声と共に、黒猫の毛並みがゆらりと大きくうねった。
《天城の家が地に落とされてからこの千年間、貴様の祖先たちがいかな思いで艱難辛苦を耐え忍び、このときのために一族の血を護り続けてきたと思っている! 貴様がしくじれば、千年の長きに渡る一族の業はすべて徒となるのだぞ!》
黒猫の憤怒の情を表すかのごとく、漆黒のうねりは荒々しさを増す。
荒れ狂う黒猫の放つ霊気は暗闇を裂き、闇の中に身を置く少年を包み込んだ。少年の漆黒の髪が不規則に踊る。
敵意とすら感じられるその霊気を前に、しかし少年は動じた素振りを見せない。
そして無言のまま黒猫の元に歩み寄り、その額に手を翳した。
「静まれ」
一言。
静かに、だが厳かに放たれた、たったの一言。
瞬間、黒猫から溢れていた荒立つ霊気は消散した。
まるで少年の言葉に縛されたかのように、黒猫は身動ぎ一つしない。
黒猫に注がれる少年の黒曜の瞳には、えもいわれぬ冷たさが湛えられていた。
そこには感情と呼べるものは微塵も感じられない。ただ、無音の静寂の中に絶対の威厳があるのみ。
「他を制したくばまずは己を制することだ。自らを律することができなければ、いずれ自らを見失い、やがては自らに喰われるぞ」
少年は闇をそのまま切り取ったような黒闇闇とした衣服に身を包んでいた。意識しなければ、周囲の夜闇との区別は判然としない。
少年は言葉少なに続けた。
「案ずるな。使命は必ず果たす」
その言葉に、黒猫は我に帰ったように少年を見上げる。
《……その言葉、必ず違えるなよ》
釘を刺すような黒猫の言葉に、少年は視線で是と返す。
少年は闇に漂う薄月を徐に振り仰いだ。
――決して、負けるわけにはいかない。
これは、何を賭してでも勝たなければならない戦い。
なんとしてでも、勝たなければならないのだ。
鬼に貶められた、一族のために……。
*
開け放した窓枠に腰を掛け、斎は霞のかかる望月を眺めていた。
円かなあの月は、明日には姿を変えて現れる。日々姿を変えてゆく闇夜の光。
それは儚く、それでいて神秘的で、そしてどこか妖に満ちている。
そんな月を、人々は怖れた。そのために同じ天空に輝く光でありながら、太陽とは対照的に月は妖魔と結び付けられ邪の対象とされた。
人間たちの勝手な偏見によって、一方は至高の神と畏れられ、一方は忌むべき邪神と恐れられる。
……そう。全ては人間たちの、身勝手な空想によって。
淡く降り注ぐ月光に手を伸ばし、斎は目を細めた。
――だから、嫌いなんだよ……。
掴めるはずもない月を握り潰すかのように、伸ばした手が拳を固めた。
冷たさを帯びた一陣の風が音もなく吹き抜ける。
風に乱れた漆黒の黒髪を無造作に片手で梳き、斎は消していた部屋の灯りをともした。強烈な光に一瞬目が眩む。
無機質な人工の光が照らし出した部屋は、一言で表せば殺風景そのものだった。
十六畳という広さを持つその部屋にはやや古びた畳が敷き詰められ、机と本棚以外には何も存在していなかった。
更に、本棚は空、机の上にも数枚のメモ用紙と一本のペンしか置かれていない。なんとも寂然とした部屋。
ここは天城邸における斎の自室だった。とはいえ、使っていたのは五つになるころまでで、この部屋に足を踏み入れたのは実に十四年ぶりになるのだが。
この十四年間ですっかり洋式の生活に染まってしまった斎としては、天城邸での生活は一々が不便且つ不自由だった。
例えばそう、寝る際に自分で毎回布団を敷かなければならないこととか。
いっそこのまま直に畳の上で寝てしまおうかとも考えるが、流石にこの春先にそんなことをしでかせば確実に体を壊す。
今日明日にでも倖介にベッドを買いに行かせようかと考えつつ、斎が渋々押入れに手を掛けた時。
「おい斎、起きてるか?」
部屋の扉の外から声がした。
聞き慣れた声。誰何せずとも声の主は判る。
斎の表情があからさまに不快感を形作った。
実にいいタイミングだ。よりにもよって、ひとが寝ようとしているこのタイミングに、しかも見計らったように、消していた蛍光灯を点けたこのタイミングで。
そもそも二時半過ぎというこの夜半遅くにひとの部屋を訪ねてくるということ自体が非常識極まりない。
訪問の目的は大方予想がつく。要件を訊かずとも判ってしまうあたりがまた倦怠感を増幅させる。
どうにかしてこの招かれざる訪問者を追い返す術はないものかと斎は思考をフル回転させるが、努力も空しく、この煌々と蛍光灯の点った状況下では誤魔化しは利かないという終着点に至る。
「……入れよ」
斎は諦めたように息をつき、面倒くさそうに扉の向こうに声を投げた。
すぐに扉が開かれ、同時に低く声がした。
「聞いたか、南雲が『杖』を手に入れた」
「ああ」
開口一番放たれた台詞に、斎は興味なさげに応える。
一方部屋に入ってきた、斎曰く非常識極まりない招かれざる訪問者の倖介は、いつになく神妙な面持ちだった。
「これで南雲が手に入れうる七宝は全て揃った。ここからどうやって宝を奪うんだ? 何か策があるんだろ?」
倖介にしては珍しく抑えられた口調だった。
しかしそれは、彼の心中が平静であることを表しているのではない。漲る闘争心が息を潜め、狩りの機会を窺っているだけ。
その様子に斎は冷淡な一瞥を投じ、予想通りの要件に心底うんざりした体で大きく息を吐いた。
「……お前は馬鹿か? 時機を待てと何度言えば分かる」
斎のその一言が倖介の感情のリミッターを外した。倖介は荒立つ感情の全てを乗せた拳を壁に叩き付ける。
「もう十分に待っただろうが! お前はあの時、南雲が『杖』を回収するまで待てといった、だから今日この時まで待った! これ以上まだ待つなんざ冗談じゃねえ!」
荒々しい怒声が夜の静寂を裂いた。猛り狂ったような攻撃色の気が倖介の全身から迸る。
その目はさながら飢えた獣のようだった。
その様子を前に、倖介は少し感情の制御を覚えるべきだな、と内心で冷ややかに呟き、斎は呆れたように瞑目する。
言葉で言って解らないのなら、躰に直接教え込む他あるまい。
一呼吸の後、ゆっくりと擡げられた瞼の下から黒曜の双眸が覗く。
瞬間、空気が張り詰めた。
呼吸もままならない程の圧迫感が空間を支配する。
漆黒の双眸は氷刃がごとく冷たかった。その眼居には静かに燃え盛る修羅が宿っている。
「何度も言わせるな。時機を見誤れば死ぬぞ。身の程を弁えろ」
触れれば切れそうなほど鋭い視線に射止められ、倖介は思わず一瞬身動ぎした。
その威迫を前に、あれだけ荒れ狂っていた倖介の激情は瞬時に畏縮する。
倖介の気が完全に治まるのを見計らい、斎はふと視線を窓の外へと移した。
「今、レオが『剣』の回収に当たっている」
突然突飛した話題を振った斎に、倖介は意図を測りかね、訝ったような表情を見せる。
対して斎は、そんな倖介に一瞥もくれず、努めて淡々と続けた。
「一介の守護者では、当主の力には及ばない。当主を征しうるのは当主のみ。……分かるか? いくらお前が奮起しようと、南雲の当主に出てこられては太刀打ちが出来ないということだ。当主に出てこられたときに対処できるよう、我々も体制を整えておかなければならない。即ち、レオがいつでも応戦できる状態にしておくことが最低条件だということだ。こちらの戦闘体勢が整っていない段階で戦闘ふっかけるなんて自殺行為以外の何でもない。これを時期尚早と言わずに何と言う? みすみす自ら命を捨てに行くような戦を仕掛けるなんて馬鹿げた真似ができるか。少なくとも僕は勝算のない戦いなんて願い下げだ。それこそ、冗談じゃない」
心なしか徐々に語気を尖らせながらも淀みなく言い切り、斎は正面から倖介を見据える。
「お前の今後のために忠告しておく。剛勇と蛮勇は別物だぞ。大局を見ずに目下の一事に囚われ、ましてや策もなしにむやみやたらに突っ込んで行くなんて問題外だ。そういうのを血気の勇と言うんだ。匹夫の勇とも小人の勇とも言うな。そんな愚行で一体何が勝ち取れる。無様に徒死にするのが関の山だ。尤も、独りで愚案に落ちて自滅するのは勝手だ。だがそこに他人を巻き込むなど言語道断」
斎の双眸からは既に威迫の修羅は消え失せていたものの、その視線は依然倖介に注がれている。
だが倖介は、彼の瞳に映っているのが自分でないことに気が付いていた。確証はないが、彼の瞳は、自分ではない別の何かを映している。
堰を切ったように滔々と弁ずる斎を前に、倖介はある意味圧倒されていた。
倖介と斎は何しろ付き合いが長い。世間一般で云えば、幼馴染にあたるだろうか。
その倖介を以ってしても、こんな斎の姿は滅多に見ることがない。
普段腹立たしいほどの余裕を以って斜に構え、いかなるときも憎らしいほどに理知に徹する彼が、感情を高ぶらせている。
どうにも、帰国して後の彼は様子がおかしい。
それは七宝を巡る戦いに臨んでいるからなのか。
或いは、それとも――。
倖介は自分でも恐ろしいくらいに冷静だった。
つい今しがたまで感情を爆発させていたのは自分の方だというのに、今では完全に逆転している。
そこで倖介は無意識の内に考えを巡らせている自分の姿に、小さく息を吐いた。
まったく、つくづく損な性分だと思う。
放って置けばいいものを、どうしてもそうできずにいる自分がいる。関わるほど、探るほど、彼は拒絶の壁を増築する。それどころか、とばっちりという名の反撃を仕掛けてくる。関わって馬鹿を見るのは自分だと身を以って解っている筈なのに、それでも関わらずにはいられない。
そんな自分の性分を倖介は一応自覚している。だが自覚したところで直るものでもないし、また、直そうとも思っていない。
だから、救われないと嘆きつつも結局、倖介は反撃覚悟で斎の築く壁を叩きに向かう。
「……お前、何か機嫌悪くねえか?」
「別に」
間髪あけず返ってきた斎の返答はぶっきらぼうなものだった。
斎が内心で、お前のせいだよ、と悪態をついていることなど知る由もない倖介は、その返答に納得のいかないような面持ちで「何怒ってんだよ」と呟く。
そんな倖介に斎は不機嫌そうな視線を向けた。
確かに機嫌は悪いが別に怒ってはいない、と声には出さずに吐き捨てる。
だがそこで、はっとした。
気付けば、知らぬ間に感情を高ぶらせている自分の姿がそこにあった。
何故こんなに柄にもなく熱くなっているのか。これでは目の前の直情馬鹿と同類だ。
彼の言うとおり何かに腹を立てているのだろうか。でも一体何に?
不躾な倖介の訪問に腹を立てているといえばそうなのだが、本当にそれが原因か?
では、本当の原因は――?
自問して、斎は軽く自嘲した。
愚問だ。実に滑稽だ。
本当は分かっている。全て、本当は知っている。
ただ、気付かない振りをしたいだけ。認めたくないだけ。
――本当に、倖介といると調子が狂う。
幾重にも仮面を被っていても、いつの間にか一枚残らず剥がされてしまう。
いつの間にか、本当の自分が曝け出されてしまう。
そしてそれは、真の自分自身と否が応でも向き合わされるということで――。
――だから倖介はイヤなんだよ。
やはりたとえ不自然でも無理矢理にでも彼の訪問を拒むべきだった、と今更のように後悔する。
七宝関連の話題と知っていながらまともに取り合った自分が馬鹿だった――。
この借りをどう返してやろうかと暫し思案し、そこで斎は何かを思いついたように机の上にあったメモ用紙に何かを書き始めた。
そして書き終えるやいなや、倖介を指で呼び寄せ、一枚のメモ用紙を倖介の眼前に突き出した。
「何だ、コレ?」
そこに記された文面に、倖介は怪訝そうな表情を見せる。
「……『剣』の在処を示す唄――って言ったら、信じるか?」
斎は端整な面持ちに意味ありげな微笑を湛えた。
その斎の言葉に、倖介は目を見張った。次いで視線を斎に移す。
倖介の視線の先で、斎は普段通りの人を食ったような不適な笑みを見せていた。
「ちょっとした頭の体操だ。それが何を意味してるか、当ててみろ」
言って窓枠に腰を掛け優雅に足を組む斎は、普段通りの彼だった。
倖介は眉根を寄せた。
こうなれば気遣いは一切不要だ。というよりむしろ、彼の提示した頭の体操とやらを本気でクリアしなければ罵倒の嵐に見舞われる。
倖介は渡された紙切れに記された文字を必死で目で追った。
世を薙ぐ漆黒の影 穢れを祓ふる断罪の業
其の表に映ずるは 咎人の断末魔
朱き文目の燃ゆる 石木に祀られたり
盃の光満ちし刻 氷輪が加護に覚醒めん
*
目の前で口をあける岩窟はまるで深淵への入り口のようだった。
風の抜ける音が、地を這う呻き声のように不気味に響いている。
入り口の片隅には、忘れられたように咲く一輪の花があった。
月華に照らされた深紅の花弁が手招くように風に揺れる。
少年は軽く周囲を見渡した。意識を巡らせ、近辺に追跡者のないことを警戒する。
同じようにして周囲の様子を窺っていた黒猫と視線だけで確認を取ると、少年は誘われるように、暗い岩窟の中へ足を踏み入れた。黒猫もそれに追従する。
客人の訪れを歓迎するかのように、岩窟の奥から低い歓喜の呻りが轟いた。
《先の『盾』の件、二人の処罰はどうした》
暫くして黒猫から問いが投げられた。岩窟の中に黒猫の低い声が反響する。
「既に処分は言い渡してある。封印場所を探し当て、唄の解読に成功していながらみすみす宝を奪われるというのは由々しき事態だ」
数歩前を行く少年は、問いに答えながらも黒猫を振り返らない。
「だが、ファルコンとサーペントは『指輪』の回収には成功している。その分を考慮した上での処分を言い渡した」
《処分の減刑とは、随分と温いな》
黒猫の声音からは不服の色が滲み出ていた。
少年はその反応を予想していたと見え、間髪あけず更に理由を付する。
「今下手に厳罰を下せば、戦力を失うことに繋がりかねない。それどころか暴走して自滅する危険性もある。少なくとも現段階では最低限の処分で済ませるのが最善だ」
そこで一呼吸おき、少年は「それに」と続けた。
「この件に関してはループスが執拗に食い下がってきたからな」
少年の口から出たその名に、黒猫の全身の毛が一瞬逆立った。
「曰く、『盾』の回収を遂げられなかったのは不可抗力だ、と。俺にも責任の一端があると言外に言いたげだったな」
気分を害した様子もなく、少年はただ淡白に事実を述べる。
その態度が気に障ったのか、黒猫は更に不快感を露わに吐き捨てた。
《それで、奴の言いなりに減刑に応じたというわけか》
先の口上も奴の受け売りか、と、黒猫の放つ空気が少年を呵責するが、少年はまるで応えた様子がない。
そんな少年を黒猫は射抜くように睨めつけた。
《君主として臣下の進言に耳を傾けることは必要だ。だが進言をすべて鵜呑みにすることは感心できんぞ。あくまで一つの案として聞くに留めておけ》
「要するに、お前はループスの進言通りに事が進むことが気に入らないのか」
《曲解するな。奴が策士として長けていることは認める。何時如何なる時であろうと、奴は最善の策を導き出す。その布陣にぬかりはない。だが、だからこそ、奴は危うい》
黒猫は一層声音を落として冷たく言い放った。
《奴には気をつけろ》
そこから不穏な何かを感じ取り、少年はそこではじめて黒猫を肩越しに一瞥した。
ややあって足を止めると、少年は口元にふと微笑を湛える。
「お前のその提言、一つの案として受け取っておこう」
意味ありげに言って、少年は黒猫に背を向けた。
背後で黒猫が憎らしげに睥睨しているのが、気配でありありと判る。
しかし少年は黒猫を一顧だにすることなく、遥か奥まで続くと思われる深淵の暗闇を凝視していた。
果ての見えない暗闇。時折響く風の低い呻り声。
三尺ほどの道幅しかないその岩窟の中は酷く暗く、そして冷たかった。
冷気が外套もろとも肌を刺す。触れれば、岩肌は氷のようだった。
この岩窟は冥府へ続くという都市伝説がある。
この岩窟にまつわる怪奇めいた噂は枚挙に暇がない。
実しやかに流れるその噂に、人々はこの岩窟を恐れた。
そして近づくことを固く禁じ、口を揃えて言った。
ここは鬼の住む魔窟だ、と――。
少年は瞑目すると、静かに呼吸と精神を整えた。
霊力を高め、馬手で刀印を結ぶ。
そしてきっと眦を決し、「解」と真言を放つと同時に真一文字に一閃した。
すると刀印の軌跡に沿って空間が両断された。切断面から空間が歪む。
歪んでできた隙間の奥に淡い光が垣間見えた、その直後。
暗闇一色だった空間は切断面を起点に音もなく蒸散した。
《先代の施した結界を断ち切れた程度で、間違っても上々などと思うなよ。貴様には断ち切れて当然の結界だ。むしろ時間がかかりすぎだ》
どこまでも続くかのように見えていた暗闇は、先代の天城家当主が施した結界の見せる幻影だった。部外者の侵入を拒み、選ばれしもののみに扉を開く、絶対の砦。
結界が消滅する様を前に、黒猫は隣に立つ少年に冷厳に言い放った。
少年は無表情のまま黒猫に一瞥を投じる。しかし言葉を置かずに、目の前に広がる景色に視線を移した。
二つの黒い影の前には、一面に広がる紅があった。
それは一面に咲き誇る菖蒲の花だった。
岩窟の入り口に忘れ咲いていたあの一輪と同じ、深紅の菖蒲の花。
少年はその紅色の海の中へと分け入った。
広く開けた空間は円形を描いている。その直径は大体今までの道幅の五倍ほどだろうか。
天井は高く半球円を形作り、その円蓋の中央には、さながら天窓のごとく小さな円形の穴が開いていた。
その穴から差し込む月の光が、地表を覆い尽くすように咲き乱れる菖蒲の花を照らし出している。
少年は月下に身をおくと、天井の穴から覗く佳月を振り仰いだ。
黒曜の双眸に焼き付けるように、闇夜に浮かぶ真円の光を眩しそうに見つめる。
すると少年の耳に鈴の音が突き刺さった。
早く封印を解け、という黒猫の催促に、少年はまるで感情の読めない表情のままその場にやおら片膝を付いた。そして静かに頭を垂れ、瞳を閉じる。
刹那、全ての音が掻き消えた。
次いで少年を取り囲む一面の紅がざわめき立つ。
少年は心の内で、一篇の詩を幾度か反芻した。
幼い頃毎夜母に聴かされた、忘れまいと幾度も繰り返し己に聴かせてきた、一篇の詩。
母から受け継いだその詩を、『剣』の封印を解くための鍵となるその詩を、静かに唱える。
詠唱が終わると間もなく、菖蒲に覆われた地表からふわりと一陣の風が吹き上がった。
少年の漆黒の髪が風に踊る。
すると、月明かりが紅い海に描く真円の輪郭が仄白い光を帯びはじめた。
はじめこそ頼りなく弱々しかったその光は、徐々に力強く鮮明なものになってゆく。
眩しいくらいに輝きを増した頃、光る円周から五本の光が内側へ走った。
五つの光は曲折しながら円の中央へと向かう。
やがてそれらは中心部に――そこにいる少年の許に集結した。
見れば、少年を中心に、光が複雑な魔方陣を描いている。
少年は徐に立ち上がった。
それに呼応したかのように光の魔方陣は収縮し、少年の掌の上に浮上した。
少年の掌に収まると、魔方陣から淡い光が溢れだした。溢れる光はゆっくりと形を成してゆく。
光が細長く一尺ほどの長さに達したとき。
何の前触れもなく、突如光が消え失せた。
強烈な光を放っていた魔方陣も、淡く細長い形を作っていた光も、瞬時に掻き消えた。
一瞬空間を暗闇が支配する。
少年は自らの掌の上で何かが大きく脈打つのを感じた。
皓々と月光が照らし出す弓手の上。
そこには、一振りの日本刀があった。
漆塗りの黒い鞘に同じく黒一色の柄と鍔。掠れた紋が彫られている以外に装飾の類は一切見られない、黒作りの太刀。
少年の目にえもいわれぬ強い光が宿った。
これが七宝が一つ、『断罪の剣』。
そして、天城家に代々伝えられ、当主によって祀り護られてきた、文字通り伝家の宝刀――、
「……名刀『月影』……」
*
倖介は必死に小さな紙切れと睨み合っていた。
その姿を面白そうに眺めやり、斎は小ばかにしたように声を投げる。
「言葉が難しくて解らないようなら、辞書でも貸そうか? ああ、読み方も分からないなら電子辞書の方がいいか?」
あからさまに馬鹿にした物言いに、倖介は反射的に「あぁ!?」と柄悪く声を上げる。
(この野郎……!)
完全に楽しんでやがる。でもって完全に馬鹿にしてやがる。
そもそも、この部屋の何処に辞書があるというのだ。
「要らねーよ! 英語で書いてあるわけじゃあるまいし!」
倖介は斎を睨みつけるが、あえて辞書には言及しなかった。下手に突っ込めば墓穴を掘ることになりかねない。
必死に強がって見せる倖介に斎は満足そうな笑みを向ける。
「わざわざ英語にするなんて無意味なことはしないさ。 まあ、英訳して欲しいならしてあげるけど?」
嫌味たっぷりに言ってさらに言葉を続けようとした、その時。
斎の中で何かが触れたように心臓が強く脈打った。
斎は表情を一変させ、その何かの気配を探るように窓の外に視線を向ける。意識を集中させ、気配を正確に捉える。
そして、確証を得た。
斎の面立ちが険を帯びる。
闇色の冷たい風が吹いた。
「倖介、残念だが時間切れだ」
突如声音の変わった斎に、紙切れを睨みつけていた倖介は不審げに顔を上げる。
険しい表情で窓の外、その彼方を見やる斎の姿に、倖介は状況を得た。
――『剣』が目覚めた。
*
手に入れた『断罪の剣』を腰に佩き、岩窟から身を出すと、少年は明月を見上げた。
霞の晴れた白銀の光は、凍てつくほどに鋭く澄んでいる。
鼓動が高鳴った。
少年は『剣』の柄に手をかけ、ゆっくりと鞘から刀身を引き抜く。
夜陰の下その姿を現したのは、闇を具現したかのような漆黒の刀身だった。
鏡のように磨きぬかれた刀身に、氷のような月が映る。
再び『剣』が強く脈打った。
まるで生きているかのように『剣』は少年の手の中で鼓動を続ける。
少年は『剣』から伝わってくるその鼓動に、高ぶる自らの鼓動を同調させようと霊力を研ぎ澄ませた。
しかし、『剣』は容易にはそれを許さない。
少年は小さく舌打ちした。
その静かなる攻防を、黒猫は厳しい視線で見守っていた。
これは、『剣』の与える試練。
『剣』は使い手を選ぶ。『剣』に使い手として認められなければ、『剣』の持つ力を借り受けることは叶わない。
そうなれば、『断罪の剣』はただの鉛刀も同然。
少年は端整な面持ちを顰めた。双眸に宿る光が鋭さを増す。
一族のために、この戦いに勝つために、『剣』の力が何としても必要なのだ。
この力を自家薬籠中のものとすることができなければ、一族を救うことは叶わない。
抵抗を示す『剣』を捩じ伏せるように、少年は力を込めた。
――鬼に貶められ、闇に落ちた一族を救うために……!
「俺に従え……、『月影』――!」
闇を裂く少年の呼号に、『剣』が応えた。
冷たい月明かりを浴びた漆黒の刀身が白銀に煌めく。
少年と『剣』の鼓動が重なり、少年の手の中で『剣』が大きく脈打った。
間髪空けず、少年は袈裟懸けに『剣』を振り上げる。
漆黒の空に一筋の閃光が差し上った。『剣』の切っ先が白月を捉える。
少年は、己の鼓動と『剣』の鼓動が完全に同調しているのを全身で感じていた。
品定めの末、『剣』は主として自分を選んだのだという事実に、少年は口角を上げた。
――これで漸く、一族の悲願が成就する。
今こそ、千年の因縁を断ち切るとき。
『鬼』の呪縛を解き放つとき。
少年は脳裏に母親の姿を描き出す。記憶の中に住む、顔のない母が微笑んだ。
――頼みますよ……飛鳥――
少年――いや、天城家当主・天城飛鳥は、『剣』を手に、岩窟の渕に咲く一輪の菖蒲を一瞥した。
刹那。夜陰に白銀の一閃が走った。
飛鳥は漆黒の剣を鞘に収め、岩窟を背に歩き出す。
その背で、無惨に両断された紅い花弁が風に舞った。冷たい月華に散るその深紅は、まるで闇夜に散る鮮血のようで――。
「機は満ちた。千年越しの因果の決着をつけよう……」
低く静かに発せられた言葉が夜闇に溶けて消えた。
飛鳥の中に漲る霊力が静かに猛る。
精悍な面差しは、正しく闘将のそれだった。
玲瓏たる氷鏡が闇の中から二つの漆黒の影を照らし出す。
無表情の月花に詠い聞かせるように、飛鳥は母の残した封印の唄を今一度口号した。
よをなぐしっこくのかげ けがれをはらうるだんざいのごう
そのおもてにえいずるは とがびとのだんまつま
あかきあやめのもゆる いわきにまつられたり
さかづきのひかりみちしとき ひょうりんがかごにめざめん
常日頃から“短く纏めることを目指す”と言ってきたはずなのに、
気付けば自分でも驚くくらいの長さになってしまったこの拾弐章。
流石に今回ばかりはやりたい放題しすぎたと深く反省しております、仁です。
この場を借りて、お付き合い頂けました皆様に、心よりの感謝を。
さて今回、(性懲りもなく)作中で封印の唄が出てまいりました。
もうお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、
例によってこの唄の解説はブログの方に掲載する予定でおります。
前回の『勾玉』(第肆章)のとき同様、今月は解読のヒントを掲載し、
解説(正解)は来月改めまして掲載致します。
作者の戯れにお付き合い頂ける方は、一度ブログのほうに足をお運び下さいませ。
これからいよいよ物語りも佳境に入りますので、
これからもどうか『いつわりの仮面』をよろしくお願い致します。
八月吉日 仁