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第拾章 無音の痛み

 そこにある老木の姿は、記憶の中にあるそれとは似ても似つかないものだった。


 生命力に満ち溢れていたかの大樹は、今や力なく根元から倒れ、枯れ落ちたか細い枝を地を這うように広げている。

 大樹たらしめていた太い幹は、先刻の落雷で黒く焼け焦げ、木っ端微塵に散在していた。

 踏めば音を立ててなくなってしまいそうな、脆く、儚く、あまりに無惨な姿だった。


 変わり果てた『生命の大樹』を前に、一行は言葉を失っていた。

 地面に縫い取られたような四つの人影が、漆黒に染まっている。

 重く澱んだ空気を縫い、低く唸る冷たい風が耳朶を打つ。


「……どうしよう……」


 異様な静寂の中、それを破ったのは冴だった。

 その声音は普段の彼女に似つかわしくないほどに弱々しく、何かに怯えるかのように震えていた。

 幼い面立ちは色を失い、口元を覆う小さな両手は冷たく、小刻みに震えている。


 それは冴に限ったことではなかった。


 彼女と共に『盾』の回収に当たっていた倖介もまた、蒼白な面持ちで呆然としている。


 倖介と冴が『盾』の回収を一時断念してこの場を後にしてからおよそ一刻あまり。更に一行が天城邸を出てからものの半刻。

 だが彼らがこの場に駆けつけたときには既に、『生命の大樹』はかような姿となっていた。


 そして、この朽ち果てた老木の元にはもはや『盾』は存在していなかった。

 残されていたのは、七宝特有の霊気の残滓と、南雲の霊力(けはい)だけ。


 ここへ真っ先に馳せ参じた水羅でさえ、南雲の姿を認められなかったという。

 即ち、一行が到着したのは、南雲が『盾』を回収し、この場から完全に撤収した後だったということ。


 ……完全な敗北だった。


「戻るぞ」


 よく通る声が静寂を切り裂いた。その声に、冴と倖介は身を強張らせる。

 それは、不気味なほどに静かな声音だった。

 苛立ちも感じられなければ、呵責や威圧もない。

 それがかえって彼の激しい苛立ちを表しているようで、無言の呵責を受けているようで、絶対的な威圧があった。


 えもいわれぬ重圧に圧倒されていた倖介は、そう言って背を向け歩き出した斎を慌てて呼び止めた。


「戻るって、『盾』はどうすんだよ……?」


 その呼びかけに斎は足を止め、体の向きはそのままに視線だけを倖介に向ける。

 凍てついた鋭利な双眸が倖介を射抜く。


「過ぎたことにいつまでも固執していたって仕方がないだろう。それとも、このままここで嘆いていれば『盾』が戻ってくるとでも?」

「なら、今から『盾』を取り返しに――」

「やめておけ。……無駄死にしたくなかったらな」


 斎の言葉は極めて静かだった。波一つたたない水面の如く。

 だがそれは凍りつくような冷たさを帯びた静けさだった。凍てついた水面に波など立ちようもない。

 それと、同じだ。


「この霊力……、南雲の当主が『盾』の回収に来ている。どう足掻いたってお前が勝てる相手じゃない。返り討ちにあうのが関の山だ」

「……けどよ……」

「それに、力ずくで奪うというのなら今は時期尚早だ。どうせなら、奴等が『杖』を回収するまで待ち、一度に三つ全て奪う方が効率がいい」


 現在南雲が所有している七宝は二つ。

 一つは、今奪われた『盾』。

 もう一つは、かねてから南雲が守護していたものであり、この七宝争奪戦の皮切りともなった『髪飾り』。


 しかし南雲はもう一つ、七宝の封印を解く鍵を有している。

 天城の知りえない、『杖』の封印を破るための唄を……。


 ならばいっそ、南雲に『盾』の封印まで解かせた上で全て奪えばいい。これは斎のかねてよりの持論でもある。 


 だが、現実に失態を犯した倖介には、そんな悠長な戦略を是とするだけの余裕はなかった。


「じゃあ(レオ)に、『盾』を奪われました、って報告しろってのかよ!?」


 一刻も早く失態を帳消しにしたい倖介は、焦燥感から自然と語気が荒くなる。

 その言葉に、それまで重圧に耐えるように顔を伏せていた冴も、弾かれたように不安に満ちた瞳を斎に向ける。

 二対の縋るような視線に、斎は冷めた視線を返した。


「それ以外に何がある。諦めて腹を決めろ」


 さも当然といわんばかりの口調だった。

 突き放すように言い切り、今にも崩れ落ちそうな二人から視線を外す。


 頼りの綱を断ち切られ、いよいよ二人は絶望と恐怖の底に突き落とされた。


「斎……!」


 その様子に、見かねた花音が声を上げた。玲瓏とした声音が響き渡る。

 思いもかけないその呼び止めに、斎は驚いたように振り返った。

 振り返った先で、花音は静かに、だが真っ直ぐに斎に向いていた。澄んだ黒曜の瞳が彼の姿を映し出している。


 花音は滅多に感情を表すことをしない。その上、想いや感情を口に出すこともしない。

 今もまた然り。


 だが、彼女の真意を読み取るのに、斎にはそれで充分だった。


「……解ってるよ」


 しばし花音の、一見無表情とも取れる面持ちを見つめた後、斎は小さく息を吐いた。


「心配しなくても、レオには僕から口添えはしてやるよ。結界を張り忘れるなんていう救いようもない凡ミスをしでかしたことに関しては弁明の余地はないが、それは『盾』が奪われたことの致命傷じゃない」


 項垂れる倖介と冴を一顧だにすることなく、斎はどこか投げやりな体で淡々と言葉を並べた。

 判りにくく差し伸べられた救いの手に、憔悴しきっていた二人の表情が和らぐ。

 そんな二人の様子に、心なしか花音の表情にも穏やかさが浮かぶ。

 それらを気配で感じ、再び軽く息を吐くと呟くように言葉を繋げた。


「それに、お前たちが仮に何の落ち度もなく任務遂行に当たっていたとしても、『盾』の回収は不可能だった」


 突然の予想だにしない発言に、倖介と冴はその言葉の意図を測りかねて困惑の色を見せた。

 想定どおりのその反応に、斎は剣呑な面持ちで一度左手に視線を落とす。そして、袖口から覗く『指輪』に依然何の変化も見られないことを確認すると、応えるように続けた。


「唄の解釈は間違っていなかった。覚醒に時間を要することも。……だが、それだけじゃ不十分だったんだ」


 一旦言葉を切り、朽ち果てた大樹を視界の端に捉える。


「七宝にはそれぞれ、司るもの(・・・・)があるんだ。例えば『泰平の勾玉』はその名のとおり、泰平――平安や安寧を司る。同様に、他の七宝にも皆役割(・・)がある。……『盾』はそもそも何かを護るためのもの。断言は出来ないが、おそらく『盾』は守護ないしは庇護といった類のものを司っているんだろう。つまり、『盾』が存在するためには、守護の対象となるべき存在が必要だったんだ。そして、その対象となりえたのは――――南雲(やつら)の持つ『髪飾り』だ」


 ここには『盾』の他にもう一つ別の七宝の霊気が漂っている。

 それは、南雲が既に手中にしている『髪飾り』のものだった。


 斎の持つ『指輪』も、花音の持つ『勾玉』も、それら同胞たち(・・・・)の霊気に対して何ら反応を示していない。すなわち、同じ七宝であっても『指輪』や『勾玉』は性質上『盾』とは呼応関係にないということ。

 対して、『髪飾り』の霊気が漂っているということは『髪飾り』が何かしらの反応(・・)を示したということであり、『髪飾り』は『盾』と呼応し得たということだ。またそれは換言すれば、『髪飾り』もまたその役割を果たせ得た(・・・・・・・・)ということでもある。


 要するに、『盾』は他ならぬ『髪飾り』によって存在意義を与えられ、その使命のもとに目覚めたということだ。


 それは、今まで決死に取り組んできた、封印を解くための要素とは別の次元のもの。もっと原始的な、七宝の存在意義に関わるもの。


 斎は内心で舌打ちした。


「仮に覚醒に必要な適当な時間が経過するまでお前たちがここにいたとしても、『盾』は目覚め得なかった」


『盾』の役割(・・)など、知る術はなかった。ましてや『髪飾り』のみが『盾』に対応しうることなど、知る余地は皆無だった。

 だが、盾というものの性質から、その役割が守護にること、そして守護の対象の必要性を推測することは不可能ではなかった。


 以前から気にかかっていたことではあるが、そもそも倖介が『盾』の唄を南雲から易々と盗み出せたということ自体が不自然だったのだ。

 気配もろくに消せない倖介のことだ、南雲が彼の侵入を見過ごすはずもない。

 にもかかわらず南雲が今まで何ら行動を起こさなかったのは、唄を盗み出したところで『盾』の封印を解くことができないという確信があったから。そう考えれば辻褄が合う。

 そこまで考えを至らせられなかったのは自分の失態(ミス)だと、斎は自覚している。

 しかし――。


「お前たち二人だけで『盾』の回収に向かわせたレオにも非がある。これは完全な人選ミスだ」


 しかしそれは、作戦の総指揮権を有する天城の当主とて同じこと。

 むしろ、当主という地位にありながら七宝の本質的な性質を斟酌することなく、また南雲の動向も計慮することなく、安直にその権限を以って人員配分をした彼にこそ、今回の糾弾の矛先が向けられるべきではないのか……。


「あいつにお前たちを制裁する道理はない」


 どこか棘のある口調で、斎はきっぱりと言い切った。そして倖介と冴に向き、だからもう無駄に思案するな、と目で語りかける。

 そこでようやく落ち着いたのか、二人の表情に色が戻ってきた。さながら、生き返る、を体現しているかのようだ。


「分かったらさっさと帰るぞ」


 言って斎はバイクのエンジンをかけた。

 静けさを突き破り、アイドリング音が騒々しく空気を振動させる。


 斎に促され、倖介と冴も重い足を動かした。

 覚束なさの感じられる足取りの冴を気遣うようにしていた倖介は、斎の前でふと足を止めた。


「斎」


 目の前の倖介を見上げ、斎は怪訝そうな視線を向ける。

 倖介は軽く周囲を窺った後、やや置いてから、言いにくそうにしながらも声を潜めた。


「お前……今でも天城のこと(・・・・・)……――」


 瞬間、斎の瞳が揺れた。それまで僅かな付け入る隙も与えなかった漆黒の双眸に、動揺が浮かんだ。

 心臓が早鐘を打つ。徐々に大きくなり、煩わしいほどに全身に響く。


 それを悟られまいと、斎は極めて平静に努めた。


「……馬鹿言うな」


 低く発せられた言葉には、一片の動揺も宿ってはいない。

 しかしそれはあまりにも弱々しく、ともすれば掻き消えてしまいそうだった。


「早く帰れよ」


 搾り出された一言。これ以上の関与を拒絶するかのように吐き捨てられたその短い一言に、倖介は深追いせず素直に引き下がった。

 愛機に跨ると倖介は手馴れた様子でレバーを蹴り込んでエンジンをかけ、冴に乗るように指示を出す。

 慣れた手つきで発進準備を整えると、斎に一瞥を投げ、だが言葉は置かずに、クラッチをきって勢いよくチェンジレバーを蹴り上げた。


 砂煙を巻き上げながら、黒塗りの機体が遠ざかる。


「……くそっ……!」


 それを見届け、斎は我知らず歯噛みした。


 まったく、倖介(あいつ)は普段、極めつけに鈍感で察しも悪いくせに、こういうところ(・・・・・・・)だけは敏感に衝いてくる。最も悟られたくない部分を的確に見極めてくる。


 脳裏に倖介の言葉が甦り、幾重にも反響する。


 ――違う……!


 うるさいくらいに駆け巡るそれを払拭するかのように、自分自身に言いきかせるかのように、斎は心のうちで叫んだ。


 天城のことなどどうだっていい。

 この世界がどうなろうと興味などない。

 宿命も因果も知ったことか。


(……僕は、ただ……)


 遠い記憶の中に、一人のあどけない少女の姿がある。

「いつき」と名を呼ぶ幼い声がある。

 生まれてはじめて愛おしいと想った、狂おしいほどに慈しんだ、たったひとりの――。


「……斎?」


 突如名を呼ばれて、斎は現実に引き戻された。

 見れば花音の案じるような面立ちが顔色を窺っている。


「……いや、なんでもない……」


 斎は小さく頭を振った。


 花音にまで悟られるわけにはいかない。

 決して、悟られてはならない。

 ……彼女にだけは――。


「僕たちも帰ろう、花音」


 ヘルメットを手に取り、斎はあくまでも平静を装って穏やかに声をかけた。

 普段通りに振舞う斎にあえて追及することはせず、だが花音は逡巡する様子を見せた。


「……先に行って。やらないといけないことがあるから」

「やらないといけないこと?」


 鸚鵡返しの問いに、花音は頷くと朽ち果てた老木を振り返る。


「このままじゃ、救われない……」


 そう言う花音の瞳が哀愁に揺れるのを見てとり、斎は僅かに表情を歪めた。


 花音は幼い頃から植物が好きだった。それらを愛でては、心を寄せ、耳を傾けていた。

 そんな彼女にとって、この老木の姿は胸が痛むのだろう。

 何百年もの間宝の封印を護り続けた挙句、封印が破られ無惨に朽ちれば見向きもされず、悼まれることもなく捨て置かれることが、彼女には苦しいのだろう。


「僕も手伝うよ」


 言って斎はバイクのエンジンを切った。

 辺りに静寂が戻る。柔らかな風が頬を撫でる。


「……斎?」


 真意を問うように見上げてくる花音に、いいんだ、と頷き、斎は眼前の老木に視線を落とした。


 斎には、花音が感じているような感情を抱き、共に分かち合うことなど到底出来ない。

 だがそれでも、彼女の気持ちを酌み、それに寄り添うことならば、それくらいならば……。


 いつの間にか、彼を苛む一切の騒音は消え失せていた。今はただ、不思議と全てが凪いでいる。


 ――まったく、らしくないな……。


 その理由(わけ)に想いを至らせ、斎は自嘲気味に苦笑する。


 そんな斎の心のうちを知ってか知らずか、花音は斎に淡く微笑し、やおら『生命の大樹』の前に膝をついた。

 そして朽ちた幹に手を差し、慈しむようにそっと撫でる。


「……ありがとう。おやすみ……」


 たった二言の言葉。

 だがその二言には慈悲と哀悼が確かに込められていた。


 すると、どこからか甘美な香りが漂ってきた。

 いとも柔らかく、優しい香り。


 まるで花音の言葉に応じたように漂ってきたそれは、既に枯死したはずの『生命の大樹』から溢れていた。


「……死んだはずの木が、香りを……?」


 目の前の出来事に、斎は軽く目を見張った。


 心地よい清風が淡い香りを連れ、紅に染まる空の彼方へと舞い上がる。


 その行方に想いをはせ、花音は愁いを帯びていた表情を和ませた。


 『生命の大樹』の役割は終わった。

 これで、この大樹も安らかに眠ることができる。

 七宝に纏わる運命から解放され、もう何者にも邪魔されずに、静かに、自由に――。


 あたりに散在する大樹の欠片に視線を落とすと、花音はその一片を拾い上げ、それを両手で包み込んだ。

 静かに瞑目し、膝をついて胸の前で両手を重ねるその姿は、まるで祈りを捧げているかのようで――。


 大切そうに大樹の一片を包み込む華奢な両手に、温かい雫が一滴落ちた。


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