第捌章 波瀾の跫音
天城の家系は、遡れば平安時代の豪族に行き着く。
帝の覚えもめでたく、安定した地位を与えられ、名声をほしいままにしていた権力者であった。
華やかな平安の都で栄華を誇っていたかの家はしかし、ある時を堺として地に転落した。
没落した一族は都を追われ、あまつさえ表舞台からその存在を完全に抹消された。
しかし一族の血は絶えることなく、子々孫々後世に引き継がれていった。
天城はその末裔にあたるのだ。
……表向きには。
横浜郊外に門を構える天城邸は、遥か千数百年も前の館の造りをそのまま残している。
時代に合わせて多少修復改装こそされているものの、今でも門構えや屋敷の外観は日本古来の趣を呈している。
豪邸とは言いがたいが、なかなかに敷地面積は広く、とても没落貴族の屋敷とは思えぬ代物だった。
そして今、この邸宅は七宝回収の行動の拠点となっていた――。
*
《遅いですね、二人とも……》
心配そうな声音が頭上から降ってきた。
眺めやっていた花壇の花から目を外し、花音は声のした方に振り向く。
視界にとまったのは屋根瓦の上に停まる青い小鳥――水羅の姿だった。
《雷毘からの連絡もありませんし》
人語を話せるとはいえ、動物の姿をとる水羅には、感情を表情として表現することは出来ない。
だがこうして発せられる言葉からは、それが痛切に感じられる。
《何事もなければよいのですが……》
心根が優しく慈悲深い性分の水羅は、『盾』の回収に向かったきり音沙汰のない二人の身を心底案じているようだった。
「心配しすぎだ、水羅。大方、封印の解き方が分からなくて四苦八苦してるんだろ」
そんな水羅に投げられた言葉は対照的に冷ややかなものだった。
「そのうち戻ってくるさ」
《ですが、斎様》
屋根から縁側に降り立った水羅は、開け放たれた障子の奥に向けて非難めいた声をあげた。
非難を向けられた当本人はといえば、障子の影でまるで関心がないと言わんばかりに悠然と畳の上に仰向けに転がっていた。
その視線は水羅に向けられることはなく、手にした洋書の横文字をひたすら追っている。
事実、斎は二人の身の心配など微塵もしていなかった。
どうせ倖介が意固地になって無駄に足掻いているだけだ、というのが斎の見解だ。
しかし水羅は気が気でない様子で右往左往している。
《やはり様子を見に行くべきでしょうか……》
《その必要はなさそうですよ》
誰にというでもなく呟かれたその言葉に、穏やかな返答があった。
《どうやら、戻ってきたようです》
落ち着いた声音はまだ年若い青年のものだった。無論、斎のものではない。
《本当ですか?》
水羅は嬉々として声の主の前に降り立った。
その声の主は小柄な体躯の狐だった。
美しい檜皮色の毛並みは光の加減で猩々緋に煌めいている。
炎珠という名の、花音の守護獣だ。
《ええ。二人とも無事ですよ》
炎珠のその言葉に水羅の全身から安堵の色がにじむ。
そんな守護獣たちのやりとりに、斎は一瞥を投じた。
僅かほんの一瞬。その視線にはどこか、冷たい光が宿っていた。
だが次の瞬間には既にその光は消えうせ、斎は今までどおりに本に目を走らせる。
そんな斎の姿を目に留め、花音はその端麗な面差しに悲愴の色をのせた。
*
「随分と時間がかかったね」
襖戸を開くと同時に声がした。
その声に倖介は渋面を作る。
覚悟はしていても、やはり実際に耳にすると腹が立つ。
「うるせえ」
不機嫌そうに一言吐き捨て、倖介は部屋に足を踏み入れるなりその場にどかっと腰を下ろした。
「で? 件の『盾』は? 見当たらないけど、どこにあるのかな?」
倖介のその様子で、ことの大方の経緯を悟った斎は、皮肉めいた口調で倖介に問いを投げかけた。
だからくだらない意地は張るなとあれほど言ったのに、と斎の表情が物語っている。
あからさまに嘲笑を含んだその問いかけに倖介は反射的にがなりたてた。
「うるせーつってんだろ!」
分かっているくせにあえて問うてくるという彼の根性の悪さに、倖介は舌打ちした。
倖介の中で沸々と怒りがこみ上げてくる。
「それがね、斎君」
不機嫌最高潮の倖介に代わって言葉を発したのは、遅れてやってきた冴だった。
「おかえり、冴」
冴の姿を認めると、斎はそれまでの人を食ったような表情を一変させた。発する言葉も幾分か穏やかなものになる。
それに対し冴は「ただいま」と明るく返したが、その明るさは一時のものだった。
明るさの消え失せた顔で、冴は申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめんね、実は『盾』回収できなかったんだ……」
入り口付近に胡坐を掻いている倖介を邪魔そうにしながら部屋に入ってくると、冴は一枚の紙切れを斎に差し出した。
「これが『盾』の封印を解くための唄なんだけど……」
斎は手にしていた本を閉じると、やおら起き上がって紙切れを手に取った。
「さっき『命の大樹』にあたしの雷落としてみたんだけど、『盾』出てこなくて……」
冴から経緯の説明を聴きながらも、斎の視線は依然として、唄が記された紙切れに注がれている。
「本当に唄はこれで間違いないのか?」
隣に歩み寄ってきた花音に紙に記された唄を見せながら、斎は視線を倖介に向けた。
その表情には、先ほど倖介に向けていたようなからかいの色は微塵もない。
「ああ」
ぶっきらぼうな物言いだったが、斎はそれを意に介す素振りもなく再び紙切れに視線を戻した。
“言霊と共に 鳴神が一つの命を奪う 祈りと共に奪われる命から 守りの証 目を覚ます”
――おそらく冴の解釈は間違ってはいない。
『言霊』とはこの唄のこと。
『鳴神』は神鳴り即ち雷のこと。
そして『奪われる命』というのは『命の大樹』を指し、更にそれが封印場所であることを意味している。
ならば何故、封印が解かれなかった?
『祈り』が重要なファクターなのか。
或いは、何かミスリードに引っかかっているのか。
はたまた、封印を護るために何か特別な術でも施されていたのか――。
真剣な面持ちで考えに耽る斎を不機嫌そうに眺めていた倖介は、ふと彼の手元に目を留めた。
「おい、斎。何でお前がそれつけてんだ」
唐突な倖介の問に、斎は何のことかと一瞬怪訝そうな表情を見せた。
だが自らの手元に目をやるとすぐに合点がいった様子で、斎は左手を軽く持ち上げた。
「これことかな?」
その手首には細いシルバーチェーンが巻かれていた。
そしてそのチェーンには二つの銀細工の指輪が通されており、その指輪にはそれぞれ紅と蒼の石が嵌め込まれている。
更に二つの指輪は白金の鎖でしっかりと繋がれていた。
その指輪は紛れもなく、昨日倖介と冴が回収した『誓いの指輪』であった。
あれは水羅が天城家当主のもとに持ち帰ったはずだ。斎が持っているはずがない。
倖介の思考を読み取ったかのように、斎は薄く微笑する。
「本星以外の宝は自分で管理する気がないらしいよ、我等の若様は」
「はぁ?」
訳が分からないといった体の倖介を、斎は面白そうに眺めやる。
「要するに、リスクの分散さ」
一息置いて、斎は滔々と続けた。
「本来なら回収した宝は本殿に安置するのが筋だ。その場合、襲撃に備え結界を張ることになる。だが、もしその結界が破られてしまったら、宝を一度に全て失うことになる」
無論、徒人に結界が破られることはない。ある程度の術者であっても撃退は可能だろう。
だが、相手が南雲の当主ともなれば話は別だ。
南雲当主の力の前には、結界などという小細工は不落の砦とはなりえないのだ。
「だが、こうして各々が身に付けていれば、宝を奪うためには否が応でも実力行使で勝負を挑むしかなくなる。仮に、結果として一人が討ち負けたとしても、奪われる宝は一つで済む」
だから『誓いの指輪』は斎が、『泰平の勾玉』は花音が身に付けているのだ。
ちなみに。斎が『誓いの指輪』をあえてブレスレット形式にして身に付けているのは、指輪同士を繋いでいる白金の鎖をどうやっても断ち切ることが出来なかったためである。
「それくらい、君にだって分かるだろ?」
言外に、いくら馬鹿なお前でも、と言われているのを感じ取り、倖介は露骨に不快感を顕わにした。
確かに理には適っている。
大切なものは見つからないように結界しておくというのが定石のように考えられているが、実はそれはハイリスクと背中合わせの行為。
逆に、常に身に付けて持ち歩くなど一見無用心なように映るかもしれないが、かえってその方が安全だ、というわけだ。
理屈は分かる。それは解るが……。
それは一方で、宝を身に着けている人間の身に迫る危険を高めることになるのだ。
――まったく、我等が主も随分と酷な真似をするものだ……。
倖介の顔に微かに暗い影が宿った。
そんな倖介をよそに、再び解読に意識を戻していた斎はやがて小さくひとつ息をついた。
「ここで考えていても埒が明かない。とりあえず現物を見よう」
実際にその場に立って触れれば、何か感じるものがあるかもしれない。
言って斎は立ち上がった。
やはり先入観を除いても、ミスリードの線はなさそうだ。
また、斎の知る限り、『祈り』に相当するような要素は天城には伝わっていない。
ならば考えられるのは、それは、南雲にのみ伝えられているものであるか、或いは、元より確立された特定の要素を示しているのもではないかのどちらかだ。
もし前者である場合、自分たちに南雲に太刀打ちする術はなく非常に厄介なことになる。
いずれにせよ、いくらここで考えをめぐらせたところで判断することは不可能だ。
更に、特殊な封印法が用いられたという可能性が残るが、その存否もここで判ずることはできない。
要するに、実際に現物を見ないことにはろくに分析も出来ない状況なのだ。
手立てを講じようにも、あまりに情報が少なすぎる。
ただでさえ、初見で唄の解読をしようなどという無謀極まりないことをしているのだ。
足りない情報の中このままいくら考えていたところで答えなど得られようはずがなかった。
コートに袖を通した斎は、そこでふとひとつの事柄に思い当たった。
「冴。雷を落としてからどれくらいその場にいた?」
「え……? どれくらいって……」
思いもかけない突然の問に、冴は面食らった様子で首をひねった。
「多分、数分……五分もいなかったんじゃないかな?」
その返答に、斎は何かに思い当たったように表情を変えた。
「覚醒の時間……」
「斎君?」
訝るような視線を送ってくる三人に、斎は早口に捲くし立てた。
「七宝の覚醒はそれぞれ一定の時間を要する。この『勾玉』のようにほとんど時間をかけずに封印が解かれるものもあれば、ものによっては数時間近くの時間を必要とするものもある。……おそらく、『盾』は後者だ」
……失態だった。
唄の解釈に気を取られすぎたあまり、初歩的なことを完全に失念していた。
「……ってことは」
倖介の顔から色が失せる。
「もう『盾』の封印は解かれてあそこにあるってことか……!?」
「断言は出来ないが、可能性はゼロじゃない」
ややぶっきらぼうに言い放った斎の言葉を受け、倖介は感情的に声を荒げた。
「おい、雷毘!! てめえ何でそのこと言わなかった!?」
倖介の視線は、縁側に控える一尺足らずの金色の蛇を射止めている。
《責任転嫁しないでくださる?》
突然怒りの矛先を向けられ、責任を糾された雷毘は心外そうに反論した。
《そもそも、自力で封印を解くと息巻いて、助言するなと厳命したのは貴方じゃなくて?》
「必要最低限の知識は与えるだろ、普通!?」
「ちょっと、二人とも! ここで喧嘩したってしょうがないでしょ!」
睨みあう倖介と雷毘を見かねて、冴は二人の間に割ってはいる。
その様子を横目で見やり、そんなことしてる余裕がどこにある、と嘆息すると、斎は「どうでもいいが」と呼びかける。
「結界はちゃんと張ってきてあるんだろうね?」
あくまでも確認の意味合いで発した言葉だった。
完全にとは言わないまでも、ある程度南雲を足止めできる程度の結界を張っただろうな、ということの確認だった。
しかし、その直後、二人と一匹の動きが止まった。
しばしの沈黙。
「……おい、まさか……」
斎の顔からさっと血の気が引いた。
「お前、張ったか?」
「倖介君こそ……」
《わ、わたくしには結界を張る力などありませんから、関係ありませんわよ?》
失態では済まされない事態に、蒼白な面持ちで互いの顔を見合わせる二人と一匹。
問い質さずとも、それが意味しているところは明確だった。
風が唸る。斎のまとう空気が変わった。
舌打ちと同時に「馬鹿が」と小さく吐き捨て、斎は庭に向かって声をあげる。
「水羅!」
一連のやりとりから全てを諒解した水羅は宙に舞い上がった。
すると小さかった体躯は見る間に巨大化し、鮮やかだった瑠璃色の毛並みも深い紺色へと変化する。
鷹ほどの大きさへと変貌を遂げた水羅はそのまま天高く上昇し、一瞬の間に目的地へ向け滑空した。
「何してる!? お前たちも早く行け!」
斎の叱責に、固まったままだった二人は我に返ったように慌てて入り口へと走り出す。
その様子を厳しい目つきで見送り、花音にも先に行くよう促した後、斎は残る守護獣に向いた。
「炎珠、お前はここに残れ」
《御意》
斎の指示を受け、檜皮色の狐は身を翻し、縁側から姿を消す。
それを確認すると、斎は誰もいなくなった庭先に向かって己が守護獣の名を呼んだ。
「風牙!」
するとどこからともなく灰白色の毛並みが庭先に躍り出た。
無駄なく引き締まった体躯。精悍な顔立ち。光を受けて銀色に輝く毛並みを纏った大柄な犬。
「お前は水羅に続け。万が一邪魔が入るようならば――」
一旦言葉を切った後、斎は今までにないほど冷厳に命を下した。
「手段は問わない。排除しろ」
主の命に風牙は無言の了承を示し、地を蹴った。
若草色が広がる庭先に銀色の閃光が走る。
瞬く間に風牙の姿は消え去った。
一通りの指示を出し終えた斎は、そこで冷淡な表情の中に不適な笑みを浮かべた。
「お手並み拝見といこうか……」
現状は自分たちにとって非常に分が悪い。
ここで南雲に『盾』を奪われようものなら、かなりの痛手になる。
それでも、今彼の胸中を占めているのは、危機感でも焦燥感でもなく、狂気に塗れた愉悦感だった。
「少しは楽しくなってきたな……」
――僕の期待を裏切らないでくれよ……。
内心でそう呟き、斎は足早に部屋を後にした。
温かい日差しの中、部屋を吹き抜ける風は異様なほど冷たかった。