1話 はじまり
視界が、不快なほどに白かった。 視神経を焼き切るようなヘッドライトの残光が、雨粒に乱反射して世界を塗り潰している。アスファルトを叩く激しい雨音と、鼓膜を劈く急ブレーキの絶叫。それらが一瞬で遠のき、代わりに襲ってきたのは、肺に溜まった空気がすべて絞り出されるような、鈍い衝撃だった。
(ああ……まただ)
薄れゆく意識の淵で、俺――佐藤健一は、ひどく冷静にそんなことを思った。 死に際だというのに、恐怖よりも先に「既視感」が胸を支配する。思えば、俺の四十年の人生は、この「衝撃」の繰り返しだった。
誰かに期待しては裏切られ、挑戦しては挫折し、そのたびに俺は「自分」を切り捨てて生きてきた。 決定的な瞬間に、いつも一歩を引いた。波風を立てず、周囲の顔色を伺い、失敗のリスクを緻密に計算して、安全な道だけを選んで歩いてきた。 やりたい仕事はあった。だが、周囲の期待に応えて「安定」を選んだ。 守りたい女はいた。だが、振られて傷つくのを恐れて、言葉を胃の奥に飲み込んだ。 信念なんて格好のいい言葉は、いつの間にか、安酒と一緒に居酒屋の隅に置いてきてしまった。
その結果が、これだ。 誰の記憶にも残らず、何者にもなれず、ただ警察の統計データの一行として処理されるだけの、灰色の人生。 悔いがないと言えば嘘になる。だが、それ以上に自分という人間に絶望していた。
(もし……もし次があるのなら)
熱を失っていく身体とは対照的に、胸の奥の澱のような場所で、どろりとした執念が動いた。 次は、間違えない。 流されず、臆さず、自分の足が止まるその瞬間まで、俺自身であり続ける。 そんな、今の自分にはあまりにも不釣り合いで青臭い誓いを最後に、俺の意識は深い闇へと沈んでいった。
――それが、すべての始まりだった。
◇
俺は、死んでいなかった。 正確には一度死に、そして「アルス」という名で生まれ変わったのだ。 いわゆる異世界転生というやつだろうか。佐藤健一としての記憶を保ったまま、俺の第二の人生を歩んでいた。
石造りの家、暖炉から漂う薪の匂い。窓の外に広がるのは、中世ヨーロッパの田舎を思わせる、素朴だがどこか厳格な雰囲気の村だった。 だが、この村――アステリアは何かが決定的に違っていた。 空気が「重い」のだ。 物理的な重さではない。肌をチクチクと刺し、肺の奥に沈殿するような、濃密な熱――「魔力」と呼ばれる未知のエネルギーが、霧のように立ち込めている。
この村の地下には、五百年前に英雄と相討ちになった「魔王軍の四天王」が、死の淵で仮死状態のまま封印されているのだという。 村人たちはその封印を監視する一族であり、代々、地下から漏れ出す強大な魔力の残滓に晒されて生きてきた。 この異常な環境が、村の住人の肉体を作り替えていた。彼らは生まれながらにして魔力を感知し、それを「属性」へと変換する回路を脳内に持っている。
だが、村の学校で教わったところによれば、人間が体内で生成できる魔力の量には限界があるらしい。 自分の力だけで出せる魔法は、せいぜいコップ一杯の水を出す程度。より強大な魔法を放つためには、外部から魔力を取り込まなければならない。その手段こそが、村で採れる「魔力を蓄えた食べ物」を摂取することだった。 つまり、この村の食事こそが、彼らの力の源なのだ。
「アルス、またそんな難しい顔をして! 今日はいい天気なんだから、外で遊びましょうよ!」
背後から明るい声が響き、柔らかな手のひらが俺の背中を叩いた。 隣家に住む幼馴染の少女、サリアだ。陽光を透かすような金髪を揺らし、いつものように俺の隣で屈託なく笑っている。
「……ああ。サリアは元気だな」
「当然でしょ! 見て、アルス! 今日も少しだけ見えたわ!」
サリアが指先を立てると、その先で小さな水の粒がぷるぷると踊った。 驚くべき光景だった。本来、魔法は十歳の「儀式」を経て脳内の回路が覚醒しなければ使えないはずなのだ。 だが、サリアだけは違った。彼女は自身の微かな魔力を、儀式前にもかかわらず「水」へと変換してみせる。
「すごいな、サリア。もう魔法を出力できるのか」
「えへへ、そうでしょ。私、天才みたいなの!」
彼女は誇らしげに笑う。だが、そんな彼女の才能を快く思わない連中もいた。 村の広場へ向かうと、同年代の子供たちが集まって石投げをしていた。その中心にいるのが、鋭い眼光を持つ少年、ライゼンだ。
「おい、また『水遊び』かよ、サリア。そんなショボいもん魔法なんて呼ばねえんだよ」
ライゼンが冷笑を浮かべて歩み寄ってくる。彼は村でも屈指の家柄で、自身の身体能力にも絶対の自信を持っていた。この時点ではまだ魔法を使えないはずだが、その立ち居振る舞いはすでに強者のそれだった。
「やめろよ、ライゼン。サリアは努力してるんだ」 「あ? 無能なアルスがかばうのかよ。お前、魔法の『ま』の字も感じてねえだろ? 毎日毎日、地味な筋トレばっかりしてよ。そんなの魔法使いの村じゃ笑いもんだぜ」
ライゼンに取り巻く少年たちがゲラゲラと笑う。 確かに、俺は物心ついた時から、前世の知識を総動員して肉体を鍛え上げていた。 自重トレーニング、効率的な柔軟、そして呼吸法。 なぜ魔法ではなく筋肉なのか。それは、この不気味なほど濃密な魔力が漂う村で、唯一「裏切らないもの」が自分の肉体だけだと感じたからだ。 佐藤健一だった頃の俺は、自分の身体さえ信じていなかった。だからこそ、今度は自分の手足、筋肉の繊維一本一本までを完全に掌握したかった。
「魔法が使えなくても、守ることはできる」 「はっ、格好つけやがって。泥臭い無能が!」
ライゼンが肩をぶつけて去っていく。 サリアが不安そうに俺の袖を引いた。
「ごめんね、アルス……私のせいで」 「気にするな。あいつの言う通り、俺はまだ魔法を使えない。……でもそれも、次の儀式までだ」
俺はサリアの頭を軽く撫でた。 俺は期待していた。十歳になれば、自分の中にも素晴らしい魔法の才能が目覚めるのだ。 この地道なトレーニングに、魔法という翼が加われば、今度こそ俺は何者かになれる。
そして、運命の「十歳の儀式」がやってくる。
◇
村の北側に広がる、魔力の濃い「深緑の森」。 その最深部には、大気中の魔力を極限まで吸い上げた、不気味なほどに青白く輝く「覚醒の果実」が実る。 これを食べることで、子供たちの脳内にある回路は強制的に覚醒し、一生の属性が決定する。アステリアの子供たちにとって、人生で最も重要な日だ。
「怖い……アルス、大丈夫かな。もし、果実への耐性がなかったら……」 儀式用の白いローブに身を包んだサリアが、震える手で俺の裾を握る。 「大丈夫だ。お前なら、きっと世界で一番綺麗な水の花を咲かせられる。俺が保証するよ」 俺は努めて明るく笑い、彼女の肩を叩いた。自分に言い聞かせるように。この儀式はリスクもあるのだ。適性のないもの、魔力キャパシティの低いものにとって覚醒の果実は猛毒になる。魔力の暴走による内部からの破壊、精神崩壊・・・最悪死に至る可能性もある。
森の広場には、俺を含めた同期の六人が整列していた。 一際鋭い眼光で前を見据えるライゼン。炎のような赤い髪のイグニス。風を纏うような軽やかな身のこなしのウェンディ。寡黙な大男のガウル。そしてサリア。
村の長老が、仰々しく銀の皿に載った果実を運んでくる。 赤黒く光り、どろりとした魔力を放つその果実は、まるで生物の心臓のように脈打っているように見えた。 「食せ。それこそが、汝らの魂の形を定める火種である。アステリアの守護者として、その身に力を宿せ」
長老の合図とともに、俺たちは一斉に果実を口にした。 ――鉄の味だ。 ドロリとした粘り気のある果汁が喉を通り抜けた瞬間、全身の血管を沸騰した油が駆け巡るような激痛が走った。
「あ、あああ……っ!」
最初に叫び声を上げたのは、ライゼンだった。 彼の周囲の空気が激しく振動し、バチパチと青白い火花が爆ぜる。 「雷だ! ライゼンは『雷属性』を引いたぞ!」 見守る大人たちから歓喜の声が上がる。
続いて、イグニスの手から猛烈な火柱が吹き上がり、ウェンディの足元で竜巻が渦を巻いた。ガウルは肌を岩石のように硬質化させていく。 そしてサリア。彼女が祈るように手を合わせると、広場全体を優しく包み込むような、圧倒的な水の奔流が溢れ出した。
同期の五人が、それぞれの属性の色に染まっていく。 光、音、熱、匂い。広場はまさに、選ばれた者たちだけの「奇跡」の色彩に満ちていた。
その光景を目の当たりにした大人たちは、どよめきを抑えきれなかった。
「なんという……! これほど明確な属性発現、ここ数十年見たことがないぞ」 「ライゼンの雷に、サリアの水……他の者たちも驚異的な出力だ」 「今年は『黄金の世代』だ。アステリアは安泰だぞ!」
親たちは互いに抱き合い、長老たちは神に感謝を捧げる。天才たちの誕生に、広場は熱狂的なまでの祝福に包まれていた。
だが。 俺だけは、違った。
(熱い……身体が、バラバラになりそうだ……!)
果実から溢れ出した凄まじい密度の魔力が、俺の頭蓋の内で暴れ回っている。 俺は必死に、目覚めるはずの「出口」を探した。 炎か? 雷か? それともサリアと同じ水か? 何でもいい。この溢れんばかりの熱を外へ解き放つための、道(回路)を開け!
だが、どれほど意識を研ぎ澄ませても、俺の脳内には真っ暗な闇が広がっているだけだった。 道がない。出口がない。 果実から得た強大な魔力は、逃げ場を失って俺の骨を軋ませ、筋肉を強引に膨張させ、内臓を雑に叩きつけた。
耐える。奥歯が砕けるほどに噛み締め、暴れ狂う魔力を強引に「肉」の中へと封じ込める。 一分、二分。 色彩の饗宴が続く中、俺の周囲だけが、不気味なほどに静まり返っていた。
「……アルス、何も起きないのか?」
長老の困惑した声が、冷ややかに響く。 色彩の渦の中心で、俺はただ汗だくになって直立していた。 発火もしない。放電もしない。風も吹かなければ、水も出ない。 ただ、全身の毛穴から、行き場を失った魔力が熱気となって、陽炎のように立ち上っているだけだった。
「覚醒……失敗か」 「無属性ですらない。魔力を放出する回路そのものを持っていないのか、あの子は」 「これでは、村の守護者としては役に立たんな……」
期待が失望へ、そして憐れみへと変わっていく。 ライゼンが、勝ち誇ったように俺を指差して笑った。 「はっ! 結局、泥臭い筋トレがお似合いの無能かよ。無駄なんだよ、お前みたいなゴミが何をしたって!」
サリアが、泣きそうな顔で俺に駆け寄ろうとする。 俺はがっかりしていた。 期待していたのだ。この二度目の人生で、自分もまた特別な「誰か」になれるのだと。 結局、俺はまた、選ばれなかったのか? 前世の雨の夜と同じ、何者にもなれない灰色のまま終わるのか?
(……いや、まて。……何だ、これは)
落胆しかけた意識の隅で、俺は自分の内側にある「異変」に気づいた。 確かに、俺には魔法を撃ち出すための「回路」がない。 だが。 普通、回路を持たない者は、果実の魔力にやられ体が裂け外へ垂れ流して終わるはずだ。 なのに、俺の体内からは魔力が一滴も漏れ出していない。
回路を持たない俺の肉体は、今、なだれ込んできた果実の魔力のすべてを「吸収」し、細胞の隙間へと強引に定着させていたのだ。 魔力を「変換」して捨てるのではなく、魔力を「そのまま」肉体の構成成分として受け入れている。
全身の細胞が、かつてないほど濃密なエネルギーで満たされているのを感じた。 心臓の鼓動一つで、血液が猛烈な勢いで循環し、視界は極限まで冴え渡る。 放出できないのではない。 俺そのものが、魔力を蓄える巨大な「心臓」になったのだ。
確かに、俺は神に選ばれなかった。 魔法使いとして喝采を浴びる華やかな未来は、どこにも存在しない。 だが。 佐藤健一だった頃の俺なら、ここで肩を落として諦めていただろう。 今の俺は違う。 回路がないなら、肉体そのものを究極の魔法武器へと叩き上げるだけだ。
俺は、熱を帯びた震える拳を、白くなるほど強く握りしめた。 ライゼンの嘲笑も、長老の失望も、すべてを撥ね退けるように。 前世の自分を、ここで完全に殺し尽くすために。
(見ていろ。何にもなれなかった俺が、この「持たざる肉体」だけで、お前たちの魔法をすべて叩き伏せてやる)
それは、二度目の人生を歩み始めた男の、静かだが狂おしいほどの宣戦布告だった。




