第一章 影がついてくる街
私は蛾羅巣という名の不気味な街に引っ越してきた高校生。最初はただの古びた地方都市だと思ったが、夜になると街の影が動くことに気づく、この街が生きた記憶の巣だと知る。死者の未練がカタチになり、街全体がゆっくりと私を食らおうとしている。100日間、私は記憶と戦い、自分自身の過去を掘り起こしながら蛾羅巣から抜け出す鍵を見つける。
電車を降りた瞬間、変なにおいがした。
雨が降ったあとの鉄みたいなにおいと、古い木が湿ったにおいが混ざっている。
ホームには人がほとんどいなかった。夕方なのに静かすぎる。駅員もいない。改札の横に置かれた時計だけが、カチ、カチ、とやけに大きな音を立てていた。
駅の名前は「蛾羅巣駅」。
黒ずんだ看板に、白い文字でそう書かれている。
「変な名前……」
思わず口に出た。
母さんは先に歩いている。引っ越し業者のトラックが駅前に停まっていて、父さんは運転手と話していた。
「早く来なさい、悠真」
母さんに呼ばれて、俺は重いバッグを持ち直した。
この街に来た理由は単純だ。
父さんの仕事。
それだけ。
高校二年の夏休み直前、急に決まった引っ越しだった。友達ともろくに別れられなかった。俺自身もまだ実感がない。
ただ、駅を出た瞬間から、ずっと変な感じがしていた。
誰かに見られている気がする。
でも振り返っても誰もいない。
街は古かった。
商店街のシャッターは半分くらい閉まっていて、看板の色も薄れている。道の端には黒い水たまりが残っていて、空は曇っていた。
なのに、変だった。
静かすぎる。
車の音も、人の話し声も、ほとんど聞こえない。
「この街、夜は出歩かないほうがいいらしいよ」
トラックの運転手が笑いながら言った。
「え?」
「いやあ、昔から変なウワサが多くてね。夜に影が動くとかなんとか」
父さんが苦笑する。
「オカルト好きの若者が喜びそうだ」
「はは、違いない」
二人はそのまま笑っていた。
でも俺は笑えなかった。
さっきから、駅前の電柱の影が気になっていた。
風なんて吹いていないのに。
その影だけが、ゆっくり揺れている。
まるで呼吸しているみたいに。
◆
新しい家は、街のはずれにあった。
二階建ての古い家だ。庭には枯れた木が一本立っている。
「思ったより広いじゃない」
母さんは少しうれしそうだった。
でも玄関を開けた瞬間、俺は背筋が寒くなった。
家の奥から。
誰かの足音が聞こえた気がした。
ミシ……
二階。
確かに今、床が鳴った。
「……誰かいる?」
返事はない。
父さんは荷物を運んでいて気づいていない。
俺はゆっくり階段を見上げた。
二階の廊下は暗い。
カーテンが閉まっているせいで、光がほとんど入ってこない。
その奥。
一瞬だけ。
誰かが立っていた気がした。
白い服。
長い髪。
けれど次の瞬間には消えていた。
「おい、悠真。ぼーっとするな」
父さんの声で我に返る。
「荷物、自分の部屋に持ってけ」
「あ……うん」
気のせいだ。
疲れてるだけ。
そう思い込むことにした。
◆
夜。
新しい部屋で、俺はなかなか眠れなかった。
窓の外では雨が降り始めている。
スマホを見る。
圏外。
「は?」
昼はつながっていたのに。
何度やっても電波が入らない。
その時だった。
コン。
窓を叩く音。
俺は顔を上げた。
カーテンの向こうに、人影がある。
心臓が止まりそうになった。
二階だぞ、ここ。
ありえない。
ゆっくりカーテンが揺れる。
コン。
また音。
息を止めながら、俺はカーテンを少しだけ開いた。
誰もいない。
でも窓ガラスに、べったりと手形がついていた。
水で濡れた、小さな手。
子どもの手だった。
「っ……!」
思わず後ろへ下がる。
その瞬間。
窓ガラスに、自分の顔が映った。
いや。
違う。
俺の後ろに、誰か立っている。
青白い顔。
目だけが真っ黒だった。
振り返る。
誰もいない。
だが耳元で、確かに声がした。
『まだ、帰ってきちゃだめ』
女の声だった。
低く、かすれている。
次の瞬間、部屋の電気が消えた。
暗闇の中で。
廊下を歩く音だけが、ゆっくり近づいてきた。




