白紙の答案用紙
机の上には、無数の過去問、赤ペン、黄色いマーカー、そして無表情の女がひとり。名前は佐伯夏帆。19歳。浪人一年目。
「もうすぐ模試だよ」と母親は言った。だが夏帆には、その「模試」とやらが何なのか、もうわからなかった。
ただそれが、彼女を追い詰め、締めつけ、胃液のような不安を吐き出させるものだということだけが、鋭利な針のように脳の奥に残っていた。
総合偏差値は52から46へと落ちた。
英語は読めば読むほど意味が霧散した。
国語は文字が暴れ回って読むことができない。
社会は、答えを覚えることがまるで拷問のように感じられた。
「努力不足だ」と予備校の講師は言った。「根本的な読解力が足りないのでは」と。
彼の目は、まるで医師のように冷たく、あらかじめ死を告げるためだけに存在しているかのようだった。
夜、彼女は寝ない。いや、寝ることを赦されない気がしていた。
「私はまだ何もしていない。合格ラインには立っていない。ここで休むことは罪だ」
そう信じていた。そうでなければ、今にも瓦礫の中へ落ちていくような感覚に支配されてしまうから。
勉強机の前には、自分で書いた格言が貼られていた。
「人間、死ぬ気でやれば何でもできる」
「合格すれば全て報われる」
だが、文字は徐々に滲み、朽ち、恐怖のような色に変わっていった。
ある日、朝五時。彼女は突然笑い出した。声が漏れないよう口を抑えながら、肩を震わせて笑った。
「死ぬ気でやる、か……じゃあ、私はもう死んでいるのかもしれない」
そう言って、ふらりと立ち上がった。トイレに行くふりをして鏡の前に立った。
そこには、瞳に光のない、女の形をした何かがいた。髪はべったりと皮膚に張りつき、肌は粉を吹き、唇は裂けていた。目を逸らしたいのに、それができなかった。
まるでその女に見張られているようだった。
「お前は、どこに行くつもりだ?」
「勉強しに戻るんだよ」
「なぜ?」
「合格するために決まってるじゃん」
「本当に?」
「……私は……そう……」
最初のうちは怒りで言葉を返していたが、その問いで言葉は、喉の奥で固まった。
違う。ちがう。違う。
彼女は気づいていた。自分はもう、合格など願っていない。
ただ、落ちることへの恐怖を和らげるために、ただ毎日を埋めるために、勉強という名の鎖に自ら首を通しているだけだった。
その夜、夢を見た。
白い部屋。白い机。白い答案用紙。ペンは置かれていない。問題は書かれているのに、何も書けない。書こうとすればするほど、紙が自ら破れ、崩れ、灰になる。監督官が立っている。彼の顔は、亡くなった祖父の顔をしていた。静かにこう言った。
「時間です。提出してください」
目が覚めると、枕が濡れていた。声にならない声を漏らしていた。
その日、彼女は鉛筆を持てなかった。震える指先。ノートに触れるだけで吐き気。部屋の壁が押し寄せてくる。酸素が薄い。目の奥で火花が散る。ふと、机の上のカッターに視線が行った。
「ここから逃げるには、それしかないのかもしれない」
だがそのとき、ポンと音がして、スマホにLINEの通知が入った。中学時代の友人からだった。
「久しぶり!元気?私、看護学校受かったよ!」
その文面を見た瞬間、胸に熱が走った。妬み?違う。悲しみ?それとも、
「生きている……あの子は、ちゃんと生きているんだ」
彼女はスマホを手放し、じっと壁を見つめた。
人は、なぜ試されるのか?なぜ人は、自分の価値を点数で測られるのか?
その答えは、彼女にはわからない。だが今、彼女が理解したのは、自分が崩れかけているということ。そして、それに気づかないふりをして生き続けていたということ。
夏帆は机に向かった。答案用紙を広げた。そして一字も書かずに、ただ見つめ続けた。
それは、戦いではなく、対話だった。己の破れた心と、静かに向き合うということ。
そして彼女は、ようやく鉛筆を置いた。
それは敗北ではなかった。
それは、息をするための一歩だった。
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