一章第2節・幕間 「湯の香と、名もなき記憶」
ガタガタと揺れる馬車の中から外を眺める。
灰混じりの風にさらされながらも、逞しく茂る森を抜けた先に、警備兵を両脇に配した領土検問所が見えてきた。
遠くにはヴェルディア山脈の煙が揺らいでいる。
帰ってきた実感が、胸の奥に静かに湧き上がってくる。
「おかえりなさいませ、エリオット様」
姿勢を正し、敬礼と共に見慣れた故郷が、変わらぬ温かさで迎えてくれる。
学院が夏季休養期間に入ったので、久しぶりに屋敷へ戻ることにした。
姉様はノルヴィック地方への軍務で屋敷を留守にしている。
──別に、それを避けているわけではない。
あれ以来、多少の距離を感じるのは事実だけど、姉様のことは尊敬している。
学院でも、肩書きより「アグニス先輩の弟さん」と認識されることのほうが多い。
姉の存在の大きさを、肌で感じる日々だ。
少しうたた寝をしているうちに、馬車の揺れがおさまった。
どうやら屋敷に到着したらしい。
玄関の前には、ロルフと女中たちが整列して出迎えていた。
「お帰りなさいませ、エリオット様。湯のご用意ができております」
「ありがとう」
軽く笑顔を作り、感謝の言葉を返す。
ロルフは昔から、先回りして色々と計らってくれる。
湯を用意してくれていたのも、馬車旅で疲れた僕を労ってのことだろう。
「お帰りなさいませ、エリオット様」
一様に挨拶をくれる使用人たちの列のなかで、女中の影に少し隠れるようにして、恥ずかしそうにエリーナが頭を下げていた。
彼女は姉様にはとても懐いているが、僕にはなかなか距離を詰めてこない。
嫌われているわけではないと思うけど……。
(少し、背が伸びたかな。獣族の子の成長は早い)
馬車から持ち出した白い布で包まれた小包を、女中頭に手渡す。
「これ、学院の近くの菓子店の新作の焼き菓子です。皆さんで召し上がってください」
ヴェルディア皇家の一員として、配下の者に気を配るのは当然のことだ。
屋敷に入る前に、ちらっと後ろを振り返る。
少し気になって、みんなの反応を見てみたくなった。
──エリーナが落ち着きなくそわそわと動いていた。どうやら気に入ってもらえたようで、少し安心する。
中庭を通る時、奥に据えられた星的が目に入った。
幼い頃に兄様に教えられながら、姉様と一緒に矢を射た場所だ。
姉様は筋が良く、すぐに的を射抜いたけれど、僕は何度やってもうまく出来なかった。
視線を戻すと、今日もヴェルディア山脈から噴煙が溢れ出ている。
温泉街でなくとも領地のあちこちから湯が湧き出している。
火山灰の恩恵で土地も肥沃だから、帝国内でも鮮やかな農作物でルミナスでの食事よりは好みだし、温泉も落ち着く。
温泉街といえば──
幼い頃に友人と訪れたとき、不思議な少女とすれ違った。
湯けむりの中、白銀の髪がふと揺れて、冷たい風が頬をなでた気がした。
空気が、そこだけ静かに澄んでいたのを覚えている。
名前も姿も曖昧なのに、なぜか強く印象に残っている。
この世界は広い。
種族も文化も違う世界が、まだまだ広がっている。
同じ帝国内でも、ルミナスのような外地は、こことは文化の空気がまるで違っていて──
それがまた、新鮮で面白かった。
用意された湯屋に行く前に、自室で少しだけくつろぐことにした。
久しぶりに戻った自分の部屋には、懐かしい匂いが残っている。
窓を開けると、遠くの空を翼竜がゆったりと舞っていた。
生まれたときから変わらない景色。
そしてこれからも、きっと変わらないであってほしいと願う、穏やかな光景。
手荷物を棚に置き、軽く伸びをひとつ。
箪笥から家着を取り出し、旅装を脱いで着替える。
肌に馴染んだ布の感触が、ようやく家に戻ってきた実感を強めてくれた。
準備を整え、そっとドアの取っ手に手をかける。
きぃ、と音を立てて開かれた扉の先には、まだ静けさの残る廊下。
その空気に身を預けるように、ゆっくりと足を運ぶ。
屋敷の奥、湯屋へと向かう道──
その一歩ごとに、心も少しずつほぐれていくのを感じながら。
ふと、窓の外に目をやる。
──淡い光とともに、冷たい風が、まだ名もなき冬の兆しを運んでいた。