一章第二節・影の門「日常から芽吹くもの」』2
続けざまに話したあと、そう問いかける教師の瞳は、どこかキラキラと輝いていた。
「君たちが使っている“簡易魔導具”も、魔術理論の応用でできているの」
声が熱を帯び始め、それに連れるように、口調も動きもどんどん速くなっていく。
「……術式の重ね掛けによる元素干渉については、古代魔術式と現代式で定義が異なります。
特に高次干渉領域では、感応現象が発生しやすいことが確認されていて──」
説明はどんどん専門的になっていく。一瞬聞き逃しただけで、もう次の話題に移っており、もはや何の説明をしているのかわからなくなってきた。
そんなこちらの様子などお構いなしに、教師は一気に温度が上がったような勢いで、さらに専門的な話題を繰り広げていく。
気がつけば、教壇を降りて教室の中央へと移動していた。
空中には術式図が浮かび上がり、それを回転させ、組み合わせ、また別の式へと展開していく。
──補習というより、研究発表会だ
「……この先生、優秀なんだろうけど、ちょっと変わってるよな」
エリオットは腕を組みながら、静かにその様子を見つめていた。
彼女は完全に“乗って”いた。
止める者は誰もいない。補習は、一対一なのだから。
呆れるというより、ひとつの“習性”として受け入れるしかない。
話している内容は難解だったが、その語り口には、ひたむきな熱があった。
目の前の理論と、美しさと、可能性に向き合っているだけ──
それは、ある意味、とても正しい姿なのかもしれない。
──やがて、語り尽くしたのか。
「……さて。今日はここまでにしましょう。次回、補習試験があります。それで結果を見せてください」
さきほどまでの熱はすっと引き、教員は元の穏やかな声でそうつぶやくと、資料をまとめて静かに教室を出ていった。
一時間足らずの講義だった。
けれど、残された空気は妙に濃密で、どこか熱がこもっていた。
「ふぅ……」
思わず小さく息を吐き、背もたれに身を預けた。
窓の外では夕焼けが始まり、茜色の光が教室の床に長く伸びている。
「……今日は、まっすぐ帰ろう」
鞄を手に取り、教室を後にする。
学院の門をくぐり、通りに出る。
ぐいっと背伸びをすると、空が少しずつ赤みを帯びていくのが見えた。
日も暮れ始め、今日も変わらぬ一日が終わろうとしている。
──そう思った、その矢先だった。
通りの向こうから、見慣れた軍服姿が現れる。
その姿を見てエリオットはわずかに眉をひそめた。
(……ああ、また何かが動き出す)
「エリオット様!」
鋭く通る声に呼び止められ、ゆっくりと振り返る。
学院の門を出て間もない石畳の道。
夕暮れが街並みを橙に染めるなか、そこに立っていたのは、整った軍服姿の二人だった。
一人は、年配の壮健な男。
白銀の髭と、鍛え抜かれた風格が目を引く。
もう一人は、凛とした面持ちの若い女性。
真新しい軍服に身を包み、背筋をまっすぐに伸ばしていた。
「……カロスさん。驚かせないでくださいよ」
エリオットは苦笑しながらも、その足取りにわずかな迷いを残していた。
男の名は、カロス・ジェラート。
ヴェルディア皇家軍の突撃隊長であり、かつて兄──リュカに仕えたこともあった、古参の将軍である。
(兄様と、戦場を並んで駆けた人だ。……その人が、今は僕の前にいる)
その隣に立つのは、真新しい軍服に身を包んだ若い女性士官だった。
まだあどけなさを残しつつも、眼差しはまっすぐで、気負いの中に確かな意志を宿している。
「軍務の帰り道でしてね。エリオット様をお見かけしたので、声を掛けさせていただきました。
ご紹介します。今度、アグニス様の副官となるエルマー・ロジック少尉。帝国学院を今春卒業したばかりの新任ですが、実力は折り紙付きです」
カロスが堂々と声を響かせる。
それとは対照的に、エルマーは一歩踏み出すと、どこか緊張した様子で口を開いた。
「エ、エルマー・ロジックと申します! 本日より、アグニス様の副官として正式に任命を受けました。よろしくお願いいたします!」
少し声が裏返りながらも、形式に沿った綺麗な敬礼で、しっかりと挨拶をしている。
「……ああ、学院で何度か見かけたことがあります。あなたの論文発表、読みやすかった。
整理の仕方が丁寧で、構造も明快だったから、印象に残ってたんです」
その言葉に、エルマーは驚いたように目を瞬かせる。
「……え、あの論文、読まれてたんですか?」
「学院生の論文なんて、ほとんどの人は流し読みするだけでしょうけど、僕はけっこう拾い読みするほうなんですよ。
記憶するのが、ちょっとした癖みたいなもので」
皇家に生まれると、習慣になるんです。
人の立ち居振る舞い、言葉の選び方、動機や背景……
気づけば、そういうのを頭に刻み込む癖がついてしまっていて」
自分の声に、わずかな苦笑がにじんだ。
「姉様は、そういうことを当たり前のようにやってのける人です。
誰よりも迷いなく動ける。……僕には、そこまでは無理でも──
せめて、記憶には留めておきたいんです」
空を、そっと仰ぐ。
ほんの少しだけ、笑みがこぼれた。
「……兄様も、そうだったな」
あのとき見送った笑顔が、ふいに浮かぶ。
屈託のない、まっすぐな笑顔を見せる人だった。
その面影を追いながら、口を開く。
「姉様、皇都に戻ってくるって聞いたけど……本当ですか?
……最近の、あの紛争の件ですか?」
カロスは静かに頷いた。
「ええ。今月末には帝都入りする予定です。
戦線会議への出席を命じられたとか──セイファルト公の強い後押しがあったらしいですね」
言葉の隙間に、わずかな重みが滲んでいた。
唇を軽く結び、ぽつりとこぼす。
「……戦が、近いんですね」
その一言に、エルマーの気配がわずかに揺れた。
目を伏せかけたように見えたが、すぐに真っ直ぐな視線が戻る。
若い士官らしい、動揺を隠そうとする一瞬の迷いだった。
─それはそうだ。誰だって、戦争は怖い。彼自身も、例外ではなかった。
だが、エリオットは言葉を返さず、つま先で地面をそっと撫でた。
そして、わずかに口元を緩める。
「じゃあ、その日までには……僕も、覚悟を決めておかないと」
冗談めいた口調には、どこか苦い響きが混じる。
いくら今は姉様が当主だとはいえ、
なんでも姉様に押し付けるのは、違うと思う。
今の姉様は、きっと……なんでも一人で抱え込んでしまうだろうから。
だったら、できることは──僕も、やらなきゃいけない。
……でも。
僕に、一体何ができる?
言葉にはしなかった。
ただ、心の中に、その問いだけが残った。
沈黙が数秒、続いた。
カロスが肩にかけた外套を整えながら、静かに口を開く。
「……帝都で、またお目にかかれることを願っております」
「ええ。こちらこそ」
そう応じると、エルマーも軽く頭を下げた。
「失礼いたします、エリオット様」
二人が石畳を歩き去っていくと、そこにようやく、静けさが戻った。
街を包む夕暮れの光は、ゆっくりと色を落としていく。
風が一すじ、頬を撫でていった。
通路の端に溜まった土を、つま先で何とはなしにいじる。
その感触が、ふと遠い日の記憶を呼び起こした。
「……姉様」
陽は傾き、街灯がひとつ、またひとつと灯り始める。
「……帰ろうかな」
自分にだけ聞こえる声でつぶやくと、制服の裾がかすかに揺れた。
その裾に、灯りのひとつが淡く光を落としていた。
学院の門を背に、ゆっくりと歩き出す。
足取りは、どこか遠い何かを踏みしめるように──いつもより少しだけ慎重だった。
兄も、この道を歩いたのだろうか。
姉も、ここに何度も立っていたのかもしれない。
そんな思いが胸をよぎるたび、心の奥に、小さな疼きが走る。
「……僕にできることなんて、たかが知れてる」
けれど。
だからこそ。
「……何もせず、背中だけを追いかけるのは、もう嫌だ」
つぶやいた声は、夕暮れの空に溶けていった。
石畳の上には、魔導灯の淡い光が静かに滲んでいる。
見上げれば、空の端に群青の気配がゆっくりと広がっていた。
学院から寮へと向かう帰り道、交差点の一角に小さな人だかりができていた。
先ほど話に出ていた、あの菓子店だ。どうやら本当に、新作の焼き菓子が出たらしい。
──ふと目を向けると、並ぶ列の中に、見知った顔があった。
先ほど、焼き菓子に誘ってくれた少女──ロッティ。
同級生で、ひまわりのような笑顔が印象的な子だ。
成績も優秀で、僕よりも首席を取った回数は多い。
ルミナス家の血筋を引く彼女は、僕と同じ皇家出身。
けれど、その出自に驕ることなく、誰にでも分け隔てなく接する。
──姉様や、ヴィクトリアさんのように。
それに引きかえ、僕ときたら──“王子様”なんて呼ばれてはいるけれど、中身はどうにも頼りない。
本当に姫にふさわしいのは、ああいう子のことを言うのだろう。
そんな自嘲めいた思いがよぎったとき、ふと、ロッティの手に一枚の紙切れが握られているのが目に入った。
店の看板を見上げると、どうやらこの焼き菓子は予約制らしい。
──まさか。あれを、僕に渡すつもりだったのだろうか。
胸に、申し訳なさがふと差した。
陽も傾き始めたころ合い。僕は、意を決して小さく手を挙げた。
「……ロッティ」
呼びかけに気づいた彼女が、ゆっくりとこちらを振り向き、柔らかく微笑んだ。
「さっきはごめん。補習があって……ちょっと恥ずかしくて、言えなかったんだ」
少しだけ苦笑を浮かべる。
「ううん、気にしないで」
ロッティは変わらず、朗らかな笑みを見せた。
「残った分は、寮のお友達にお裾分けするつもりだったし。そういうの、楽しいから」
──その言葉に、胸の奥に、ほんのりと温かいものが灯る。
「ありがとう」
小さく呟いたあと、僕はもう一度だけ、彼女の顔を見つめた。
すっと目が合い、僕は慌てて視線を逸らす。
気まずさをごまかすように、咄嗟に別の話題を口にした。
「……もうすぐ日も暮れるし、せっかくだから、一緒に帰らない?」
「いいよ」
にこっと笑って、彼女は優しく頷いた。
その頃ちょうど、店の引き渡し順が回ってきて、ロッティは予約していた焼き菓子を受け取った。
僕はその包みを、自然な流れで彼女から受け取る。
──こういうのはスマートにするのがかっこいい、って、レオンさんも言ってたから。
ロッティが、クスクスと笑う。
「エリオット君……もしかして、“女性エスコート特集”の実践中?」
「そういうのはね、もっとさりげなくスマートにやるものよ?」
「さっきからずっと、手元見てたでしょ。渡すタイミング、狙ってたでしょ?」
……あちゃー、見抜かれてたか。
なんて返せばいいのかわからず、僕は得意の苦笑いでごまかす。
すると彼女は、ぱっと僕の前に回り込み、くるりと振り返ってこちらを見た。
「でもね──ありがとう」
夕陽がまどろむように差し込むなかで、
ふわっと微笑んだその顔が、少し眩しく見えた。
その笑顔は、とても心地よくて、どこか懐かしい気がした。
「……エリオット君?」
一瞬ぼんやりしていた僕に気づいたロッティが、不思議そうに顔を覗き込む。
「ああ、ごめん。ちょっと、考え事してた」
「……うん、わかる気がする」
彼女は小さく頷き、少し間を置いてから口を開いた。
「お互い家柄があるから……特にエリオット君は、お姉さんが有名すぎるものね。
でも、それでも──エリオット君の人生なんだから。
あまり影響されすぎないで。自分のこと、大切にしてね」
その言葉は、夕暮れの静けさの中で、ふんわりとあたたかく響いた。
街の灯が増え始め、道行く人影もまばらになっていく。
ロッティと僕は、並んで歩いていた。
歩幅は少しぎこちないけれど、黙っていても、不思議と気まずさはなかった。
「──今日の補習、そんなに面白かったの?」
突然そう言われて、思わず吹き出しそうになる。
「……面白かったというか、疲れたというか」
「でも、悪くなかった。先生の話、ちょっと熱すぎるけど──ちゃんと届いてたよ」
「ふふ、それならよかった」
そんな他愛もない会話をぽつぽつと交わしながら、やがて寮の近くまで戻ってくる。
「じゃあ、私はこっちね」
分かれ道の手前でロッティが立ち止まり、焼き菓子の包みを受け取る。
「今日のお礼。……ちゃんと伝えられて、よかった」
そう言って笑う彼女の声に、沈みかけた陽の赤が重なるように滲んでいた。
「またね」
軽く手を振る彼女の背中が遠ざかっていくのを、僕はしばらく見送っていた。
季節は、静かに、ゆっくりと動いていた。
ほんの少しのやりとりが、心の奥に静かな波紋を残していく。