一章第二節・影の門「日常から芽吹くもの」』1
揺らぐ影、芽吹く光
──エリオット・ヴェルディア──
帝国首都ルミナス。その郊外にある小高い丘の上に、帝国学院は静かに佇んでいた。
皇家の子息やその従者、また帝国各地からの才ある者たちが学ぶこの学院は、将来の帝国を担う若者たちを育てる場として知られている。
帝国成立以前の建築様式によって築かれた白亜の校舎は、長い歳月の中でほんのりと灰色を帯び、周囲の木々から伸びた蔦が壁を這い、歴史と自然が交錯する静かな威厳を湛えている。
午後の陽光が差し込む四階の教室。その窓辺に、一人の若者が立っていた。
赤みを帯びた黒髪、性別を感じさせぬ中性的な顔立ち。
彼は物思いに耽るように、遠く街並みを見下ろしていた。
──今日も変わらず、ルミナスの街並みは美しい。
でも……ここ最近、空気のどこかに微かな澱みを感じる。
あまり見かけない顔ぶれがちらほらと現れ、
街には、目に見えぬ不穏の気配が満ち始めている気がする。
光の粒が舞う午後、彼はぽつりと、誰にでもなく呟いた。
彼の名は、エリオット・ヴェルディア。
帝国貴族・ヴェルディア家の次男であり、この学院の五年生でもある。
爽やかさと中性的な柔らかさを併せ持った少年である。
まだ幼さの残る顔立ちと、ふとした仕草の品の良さが相まって、
学院内でもひときわ目を引く存在だった。
「“学院一の王子様”とひそかに呼ばれている──そんな噂も、あながち間違いではない。」
性格はつかみどころがなく、時折、何を考えているのかわからない。
だが、その距離感が逆に心地よく、誰とでも自然に親しくなれる。
交友関係も広く、笑顔を絶やすことはない。
「ねえエリオット君、今日、授業のあと空いてる?
角のお菓子屋さん、新作の焼き菓子が出たんだって。よかったら一緒にどう?」
少女が笑みを浮かべ、軽やかな口調で声をかけてくる。
街のあちこちにある店のなかでも、あの“角の店”はちょっと特別だ。
香ばしい甘さと、手頃な値段と、静かな居心地のよさ──生徒たちにも密かな人気がある。
「ごめん。今日は外せない用事があってね。また今度、誘ってくれると嬉しいな」
微笑を崩さずに答える。
まるで余裕のある貴族の子息のような口ぶりで。
──もちろん、“用事”というのは、ただの補習授業である。
学科は優秀だが、魔法も剣術もどこか熱が入らない。
興味がないわけじゃない。ただ、深入りするほどの価値を感じていない──そんな醒めた視線が、彼の奥にあった。
「そっか。じゃあまた今度ね」
そう言って、少女は小さく手を振り、階段のほうへと去っていく。
その背中をしばし見送ったあと、ほんの少しだけ胸の奥がちくりと疼いた。
窓の外に視線を移す。
午後の陽光のなか、二羽の鳥が連れだって飛んでいる。
教室には、人気の減ったあとの、澄んだ静けさが満ちていた。
そんな静けさの中、きぃ、と控えめな音が響いた。
教室の扉がわずかに開き、魔導学の教員が顔を覗かせる。
「エリオット君、そろそろ授業を始めますよ。素質はあるんですから……しっかり学べば、この学科でも首席が狙えるはずです」
教材を手早く机に並べながら、教員は淡々と告げた。
肩まで伸びた癖のある髪と、少し焦点のずれた眼差し。
普段はどこかぼんやりとした風情だが、講義に入れば、途端に熱を帯びる。
(……卒業のために、少しくらいは真面目にやっておかないと)
小さくため息をつき、本のページをペラペラとめくった。
(実技だの魔術だの、努力したところで──どうせ僕には才能なんてない。姉様のようにはなれないんだ。だったら、せめて理屈だけでも理解しておきたい。それが、僕なりの“抗い方”なのかもしれない)
さて、補習とはいえ、基礎からきちんと押さえておきましょう」
教壇に立つ教師はノートを広げ、早速講義を始めた。
「まず、“魔法”と“魔術”の違いについて。──これは、性質がまったく異なるというお話です」
“魔法”は、元素をその身に取り込める体質を活かし、魔族やエルフたちが本能的に操る力。
いわば、“感覚で使う力”です。
“魔術”は、元素を取り込めない人族が、知識と技術を駆使して再現したもの。
詠唱や陣式、触媒を用い、“理論によって構築する力”といえます。
「魔法は感覚、魔術は構造。」
にっこりと得意げに微笑む教師。
(……来たな、この調子)
エリオットは何かを察して、小さく息を吐きながら身構えた。
心なしか、教師の口調が少し早くなってきている。
「……では次に、精霊について少し触れておきましょう」
「精霊は、大きく二つに分類されるとされています。
馴染みのある“微精霊”──ピクシーやサラマンダーといった、炎や風などの“契約によって力を貸してくれる”協調的な小さな精霊たちですね」
そう言いながら、黒板に小さな図を描き加え、図式を用いて説明を始める。
「もうひとつが、“元素そのもの”と言われる精霊。
炎であれば炎そのものと同一視される存在で、純粋精霊と呼ばれています。
ただし、こちらは未確認で、伝承や古文書の中に語られるのみです」
「ある学者は“概念操作の極致”と評し、また別の学派では“精霊とは、人の願望が投影された存在だ”と主張する者もいます。
──つまり、純粋精霊とは、未知の存在ということですね」
「純粋精霊は未知の存在。でも、私は信じたい派です。ね? まるでそこにいるみたいな夢があるでしょう?」
(……夢、か)
(その手の話にはついていけないけれど、……こういう夢を語れる人が、この世界を変えていくのかもしれない)