一章第一節・黎明 灰より目覚めし者4
「なら、私がついて行こうか?」
不意に、窓の下から黒い三角帽子がぴょこりと現れる。
帽子の縁には、小さな炎の精霊と、軽やかな風の精霊がしがみついていた。
「エリザ……聞いてたの?」
「ふふん、偶然通りかかっただけ。たまたまよ」
帽子のつばを軽く持ち上げると、金色の瞳が朝の光を跳ね返して輝いた。
サラマンダーとシルフがくるりと宙を舞い、エリザの肩と袖口へと戻っていく。
小柄な身体にふわりと揺れる魔術師のローブ。
その姿だけで、空気がどこか賑やかになる。
「ありがたいけど、それはダメよ、エリザ」
ヴィクトリアの声に、優しさと静かな厳しさが混じる。
「あなたには、アグニスを守る役目がある」
「……ふふ、気持ちはすごく嬉しいけどね」
「大丈夫。アグニスは強い。
それに、レオンもいるし」
視線の先。扉にもたれかかるレオンが、ふっと手を挙げた。
「レオンまで……!」
驚いた顔のアグニスに、三人はくすっと笑う。
「心配すんな、ヴィクトリア。姫は、この私が命に代えてもお守りいたしましょう」
深々と一礼するレオンに、自然と笑いが広がった。
「私なら大丈夫だよ。それに……」
もじもじと視線を逸らしながら、アグニスはぽつりと続ける。
「この中で、一番心配してるのは、私なんだから」
「──確かに!」
全員の声が揃い、室内に笑いが弾けた。
「エリザ、お願いね。あなたも、ヴィクトリアも──必ず戻ってきて。
……もし少しでも危険なら、私も行くから」
やれやれといった顔でレオンが頷き、エリザも真剣な面持ちでうなずいた。
ヴィクトリアは、どこか申し訳なさそうに、けれど誇らしげに微笑む。
「心配性だなあ、姫は」
「だって、放っておくと無茶しそうな人たちばっかりなんだもの」
「誰のことかな?」とヴィクトリアが意地悪く笑い、エリザが真顔でアグニスをじっと見つめる。
「いやいや、君ら全員のことだよ……ほんとに」
レオンが両手を上げて降参のポーズを取ると、またくすくすと笑いがこぼれた。
自然と、四人は輪になって立つ。
伸ばされた腕の真ん中で、拳と拳が静かに重なった。
「──グランディスに、誓って!」
静かに拳が離れる。
沈黙の中に、確かな信頼と、決意だけが残った。
創星詩篇《セレナの律動》第五節 炎の継承
炎はただ燃えるにあらず、
闇を裂き、夜に灯をともす。
風が運びし希望を暖め、
大地に小さき誓いを刻む者。
紅蓮にして慈しみ、
剣を執り、心を抱く者。
世界を焦がさぬために、
己の火を、ひとしずくずつ灯す者。
在るべき場所に、在る者たち──
アグニス・ヴェルディア
夜の帳が世界を包み、言葉も熱も、すべてを沈めていく。
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──深い夜。
セイフォルト市の一角。
「グレン君、例の薬はまだかね?
あれがないと、どうにも調子が悪い……持病持ちは苦労するよ」
豪奢な椅子に身を沈めた男が、葉巻に火を点ける。
ぱち、と小さな音とともに、甘く苦い煙がゆるやかに空中を漂い始めた。
「先代様……特殊な品ゆえ、仕上げにはもう少し……しかし、予算の都合もあり……」
エレンデル商会の当主にして、セイフォルトの実務を担う男。
その声には、隠しきれない怯えが滲んでいた。
「……グレン」
先代の声音が、わずかに低くなる。
葉巻の火先を指で弾くと、灰が細かく舞い、床に落ちる。
「私が──誰に、何を与えたか。忘れてはおるまい?」
その一言で、部屋の空気が凍りついた。
「帝国の市場。セイフォルト領の独占。……その意味を、思い出せ」
「……はい……」
「実を結ばぬ木は、どうなる?」
応えきれず、彼は息を詰めた。
先代は、ふっと笑みを浮かべる。
その笑みに重なるように──
煙に塗れた部屋の奥、何者かがゆっくりと彼を見据えていた。
夜の深さだけが、それを包んでいる。
窓の外、夜がしんしんと降りてくる。
どこかで、鐘がひとつ鳴った。
葉巻の香りだけが、なおも部屋の空気に残っていた。
──帝国の夜は、静かに、深く沈んでいった。