一章第一節・黎明 灰より目覚めし者2
朝の光が差し込み、卓上の鏡に反射して、ほんの少し眩しかった。
寝ぼけた目を覚ますには──ちょうどいい光だ。
窓を開けると、遠くの空に向かって湯煙が立ちのぼっている。
風が頬を撫で、鼻先には、いつもの硫黄の匂いがかすかに漂ってきた。
ヴェルディアの、変わらぬ朝。
この街の、変わらぬ日常。
昨日の温泉のおかげで、体の疲れはほとんど残っていなかった。
たまたまエララと出会い、一緒に食事もできた。
進出鬼没な彼女がふいに現れるなんて──
それだけで、ちょっとした奇跡みたいだった。
久しぶりに、“いい一日だった”と素直に思えた。
それくらいには、心も体も、ようやく落ち着いてきたのだ。
──今日からまた、いつもの政務に戻れる。
この小さな回復があるだけでも、ずいぶん違ってくる。
軽く身体を起こし、背筋を伸ばす。
寝台の縁に手をついて一息つくと、さらさらと布の擦れる音がした。
視線を落とすと、小さな黄色い尻尾の先が、ぱたぱたと揺れていた。
(……頭隠して、尻隠さず、ってやつね
モゾモゾと動きながら、布団の下に隠れているつもりの尻尾の主は──
女中見習いの、エリーナ。
狐族の獣人の少女で、かつて国境の紛争を逃れ、この屋敷で引き取った子だ。
最初の頃は、人の気配に耳を伏せ、尻尾を垂らしたまま、物陰からそっとこちらをうかがっていた。
けれど、わたしのそばでは、そういったそぶりを見せずにいて──
ほんの少しだけ、最初から安心してくれているように見えた。
今では、来客にもしっかりと挨拶ができるようになった。
寄宿舎に預けることも考えたけれど、
この子には、この屋敷で暮らしながら学んでいくほうが、きっと合っている。
そう思って、女中として引き取ったのだ。
それに、彼女のそばには──
何か不思議な、ゆっくりと空気が揺らぐような、居心地のいい気配があった。
だからだろうか、離れようと思ったことなど、一度もなかった。
そんなことを考えながら、その布団の塊を見つめていると──
布団の端が、ゆっくりと波打つ。
小さなふくらみが、じわり、じわりと前へ進んでいく。
……なんだか、気持ちが和む。
きっと妹がいたら、こんな気持ちになるのだろう。
「何か、いる気がするなあ」
わざとらしく声をかけると、ぴくりと耳が反応した。
そのまま布団がもぞもぞとせり上がり、
はみ出した尻尾が、ぱたぱたと揺れはじめる。
アグニス様ーっ!」
──声と同時に、勢いよく飛び込んできて、足にぴたりと抱きついてきた。
「おはよう、エリーナ」
頭を軽く撫でてやると、耳がぴくぴくと動き、満足そうに目を細める。
あの怯えていた頃の影は、もうほとんど見えない。
そのことが、何よりもうれしかった。
視線を横にやると、今日の仕立て服がきちんと整えられている。
きっとまた、朝早くから準備してくれていたのだろう。
尻尾をぶんぶんと振るエリーナの手を借りながら、
手早く着替えを終えた私は、書類をまとめるため執務室へと向かった。
寝室の扉を開けると、冷たい空気が頬をかすめた。
廊下の石床には、朝の光がやわらかく差し込んでいる。
まだ誰の足音も聞こえない。
屋敷は、深い静けさに包まれていた。
階段を下り、数歩進んで執務室の扉を開ける。
少しして、エリーナが茶器を抱えて入ってきた。
小柄な体で、大きな盆を懸命に運ぶ姿が──
なんともけなげで、愛らしい。
湯気とともに立ちのぼる香りが、思考をゆるやかにほどいていく。
添えられていた焼き菓子は、私には少し甘すぎた。
そっとエリーナに手渡すと、彼女は小さくお辞儀をして、
嬉しそうに部屋を出ていった。
雑務を一通りこなしたあと、
茶を一口含み、ふと傍らの時計に目をやる。
──会談の時間が、近づいていた。
湯呑を置き、書類をひとまとめにして立ち上がる。
背筋を正し、深く息を吸って──私は応接室へと足を向けた。
石造りの廊下に、コツ、コツ、と足音が響く。
その音も、もう何年も聞き慣れたものだ。
(……会談、か)
肩の内側で、小さく息を吐く。
今日の予定を思い浮かべながら、足を進める。
相手は、ヴィクトリア。
幼馴染であり、共に軍を担ってきた──信頼できる相棒でもある。
けれど今回は、正式な“記録に残る形式”を取ってきた。
ただの雑談で終わる話ではない。……それは、間違いない。
思考を巡らせながら歩いていると──
「おはようございます、ご当主様」
少し先から、聞き慣れた声が届いた。
顔を上げると、手を胸に当てて礼をとる男がひとり。
──が、次の瞬間。
下げていた頭が、ぐいと上がる。
目を寄せ、鼻をひくつかせ──明らかに、ふざけた表情。
「プッ……」
吹き出しかけた、その瞬間。
「コホン」
廊下の奥から、控えめだが鋭い咳払いが響いた。
見ると、柱の陰にロルフが静かに佇んでいた。
背筋は真っ直ぐ、手は背後に組んだまま。
表情は「私はここにいません」とでも言いたげだが、
その眼光だけが、鋭く、すべてを語っていた。
レオンには──「当主の前でその態度は?」
私には──「そろそろ真面目に」
そんな無言の圧。
(……完全に見られてた)
レオンは肩をすくめて踵を返し、
私は何事もなかったように歩き出した。
──先ほどの男、レオンは、ヴェルディア家に仕える名家の出。
今は、私の護衛騎士を務めてくれている。
昔からの幼馴染で、陽気なお調子者。
けれど、根は優しく、真面目なやつだ。
なんだかんだで──やっぱり頼りになる。
応接間へ向かおうと、廊下を歩いていると、
ふと開かれた窓から、中庭の光景が目に入った。
エリーナが、小さな翼竜の首元を優しく撫でていた。
翼竜は目を細め、くぐもった喉音を立てながら、気持ちよさそうに鳴いている。
朝露に濡れた草の上で、ふたつの小さな影が──寄り添っていた。
──あの翼竜は、ヴィクトリアの子だ。
彼女はもう、応接室に入ったのだろう。
渡り廊下の先、窓辺に立つヴィクトリアと、ふと目が合った。
彼女は、ふっと微笑んだ。
けれど、その笑みは──どこか、いつもと違っていた。