表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/41

一章第一節・黎明 灰より目覚めし者2

朝の光が差し込み、卓上の鏡に反射して、ほんの少し眩しかった。

寝ぼけた目を覚ますには──ちょうどいい光だ。


窓を開けると、遠くの空に向かって湯煙が立ちのぼっている。

風が頬を撫で、鼻先には、いつもの硫黄の匂いがかすかに漂ってきた。


ヴェルディアの、変わらぬ朝。

この街の、変わらぬ日常。


昨日の温泉のおかげで、体の疲れはほとんど残っていなかった。


たまたまエララと出会い、一緒に食事もできた。

進出鬼没な彼女がふいに現れるなんて──

それだけで、ちょっとした奇跡みたいだった。


久しぶりに、“いい一日だった”と素直に思えた。

それくらいには、心も体も、ようやく落ち着いてきたのだ。


──今日からまた、いつもの政務に戻れる。

この小さな回復があるだけでも、ずいぶん違ってくる。


軽く身体を起こし、背筋を伸ばす。

寝台の縁に手をついて一息つくと、さらさらと布の擦れる音がした。


視線を落とすと、小さな黄色い尻尾の先が、ぱたぱたと揺れていた。


(……頭隠して、尻隠さず、ってやつね


モゾモゾと動きながら、布団の下に隠れているつもりの尻尾の主は──

女中見習いの、エリーナ。


狐族の獣人の少女で、かつて国境の紛争を逃れ、この屋敷で引き取った子だ。


最初の頃は、人の気配に耳を伏せ、尻尾を垂らしたまま、物陰からそっとこちらをうかがっていた。

けれど、わたしのそばでは、そういったそぶりを見せずにいて──


ほんの少しだけ、最初から安心してくれているように見えた。


今では、来客にもしっかりと挨拶ができるようになった。


寄宿舎に預けることも考えたけれど、

この子には、この屋敷で暮らしながら学んでいくほうが、きっと合っている。

そう思って、女中として引き取ったのだ。


それに、彼女のそばには──

何か不思議な、ゆっくりと空気が揺らぐような、居心地のいい気配があった。

だからだろうか、離れようと思ったことなど、一度もなかった。


そんなことを考えながら、その布団の塊を見つめていると──


布団の端が、ゆっくりと波打つ。

小さなふくらみが、じわり、じわりと前へ進んでいく。


……なんだか、気持ちが和む。

きっと妹がいたら、こんな気持ちになるのだろう。


「何か、いる気がするなあ」


わざとらしく声をかけると、ぴくりと耳が反応した。

そのまま布団がもぞもぞとせり上がり、

はみ出した尻尾が、ぱたぱたと揺れはじめる。


アグニス様ーっ!」


──声と同時に、勢いよく飛び込んできて、足にぴたりと抱きついてきた。


「おはよう、エリーナ」


頭を軽く撫でてやると、耳がぴくぴくと動き、満足そうに目を細める。


あの怯えていた頃の影は、もうほとんど見えない。

そのことが、何よりもうれしかった。


視線を横にやると、今日の仕立て服がきちんと整えられている。

きっとまた、朝早くから準備してくれていたのだろう。


尻尾をぶんぶんと振るエリーナの手を借りながら、

手早く着替えを終えた私は、書類をまとめるため執務室へと向かった。


寝室の扉を開けると、冷たい空気が頬をかすめた。

廊下の石床には、朝の光がやわらかく差し込んでいる。


まだ誰の足音も聞こえない。

屋敷は、深い静けさに包まれていた。


階段を下り、数歩進んで執務室の扉を開ける。

少しして、エリーナが茶器を抱えて入ってきた。


小柄な体で、大きな盆を懸命に運ぶ姿が──

なんともけなげで、愛らしい。


湯気とともに立ちのぼる香りが、思考をゆるやかにほどいていく。

添えられていた焼き菓子は、私には少し甘すぎた。


そっとエリーナに手渡すと、彼女は小さくお辞儀をして、

嬉しそうに部屋を出ていった。


雑務を一通りこなしたあと、

茶を一口含み、ふと傍らの時計に目をやる。


──会談の時間が、近づいていた。


湯呑を置き、書類をひとまとめにして立ち上がる。

背筋を正し、深く息を吸って──私は応接室へと足を向けた。


石造りの廊下に、コツ、コツ、と足音が響く。

その音も、もう何年も聞き慣れたものだ。


(……会談、か)


肩の内側で、小さく息を吐く。

今日の予定を思い浮かべながら、足を進める。


相手は、ヴィクトリア。

幼馴染であり、共に軍を担ってきた──信頼できる相棒でもある。


けれど今回は、正式な“記録に残る形式”を取ってきた。

ただの雑談で終わる話ではない。……それは、間違いない。


思考を巡らせながら歩いていると──


「おはようございます、ご当主様」


少し先から、聞き慣れた声が届いた。


顔を上げると、手を胸に当てて礼をとる男がひとり。


──が、次の瞬間。

下げていた頭が、ぐいと上がる。


目を寄せ、鼻をひくつかせ──明らかに、ふざけた表情。


「プッ……」


吹き出しかけた、その瞬間。


「コホン」


廊下の奥から、控えめだが鋭い咳払いが響いた。


見ると、柱の陰にロルフが静かに佇んでいた。

背筋は真っ直ぐ、手は背後に組んだまま。

表情は「私はここにいません」とでも言いたげだが、

その眼光だけが、鋭く、すべてを語っていた。


レオンには──「当主の前でその態度は?」

私には──「そろそろ真面目に」


そんな無言の圧。


(……完全に見られてた)


レオンは肩をすくめて踵を返し、

私は何事もなかったように歩き出した。


──先ほどの男、レオンは、ヴェルディア家に仕える名家の出。

今は、私の護衛騎士を務めてくれている。


昔からの幼馴染で、陽気なお調子者。

けれど、根は優しく、真面目なやつだ。

なんだかんだで──やっぱり頼りになる。


応接間へ向かおうと、廊下を歩いていると、

ふと開かれた窓から、中庭の光景が目に入った。


エリーナが、小さな翼竜の首元を優しく撫でていた。


翼竜は目を細め、くぐもった喉音を立てながら、気持ちよさそうに鳴いている。

朝露に濡れた草の上で、ふたつの小さな影が──寄り添っていた。


──あの翼竜は、ヴィクトリアの子だ。

彼女はもう、応接室に入ったのだろう。


渡り廊下の先、窓辺に立つヴィクトリアと、ふと目が合った。


彼女は、ふっと微笑んだ。

けれど、その笑みは──どこか、いつもと違っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
穏やかな朝の描写がとても丁寧で、アグニスの日常に自然と引き込まれました。エリーナの無邪気さや、レオンとのやりとりから感じる温かな関係性も魅力的です。対照的に、ヴィクトリアとの会談に向かう場面では緊張感…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ