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第二章第一節 帝都ルミナス ―白き帝都、六百年の結晶



帝都ルミナスは、帝国の心臓部に位置し、

西大陸でも一、二を争う人口密度を誇る――

まさに、グランディス帝国六百年の結晶と呼ぶにふさわしい都市である。


この都には、城壁が存在しない。

それは防衛よりも、経済・行政・統治の中枢としての機能を優先して築かれたためだ。


帝都を囲むのは、六つの皇家の領地。

その存在こそが、**帝都を守る“生きた防壁”**であり、

唯一存在する「壁」とは、皇家領との境界を示す象徴にすぎない。


街並みには白亜の建築が整然と並び、

平野に点在する小高い丘が、都市に立体的な表情を与えている。


都市設計は、きわめて計画的に構築されている。

中央を貫く一本の大通りを軸に、碁盤の目のように交差する十字路と副道が、都市機能と景観美を両立させている。


市の中枢には、帝国の象徴とも言える施設群が並び立つ:

•帝国の威厳を体現する荘厳な皇帝の居所

•数百年の法と議政が脈打つ元老院議会

•全軍の中枢機関たる帝国軍本部

•諸機構を統括する行政省庁群


そのすべてが、「白き帝都」の名にふさわしい威容と洗練を備えている。


隅々まで整備の行き届いた白石の路面を踏みながら、

私はまず、ヴェルディア軍の帝都駐屯本部に向かうことにした。


この後には、帝国軍本部での会議、皇家としての執務――

皇帝との謁見、他の皇家との会談、元老院議会との調整が待ち構えている。

これでは、数週間は自由がききそうにない。


私はヴェルディア領の領主であり、皇家軍の司令官、さらには帝国軍の一翼を担う立場でもある。

日々の政務や調整の多くは、行政官や補佐官が代行してくれており、税務関連も承認のみで済んでいる。


帝国が六百年という時を生き延びてきたのは伊達ではない。

驚異的な規模を誇る官僚機構が、他国には真似のできぬ効率で、複雑な行政処理を日々こなしている。


もっとも――

どれほど精緻に構築された組織であろうと、永続すればいずれ根腐れを起こす。

利権が絡む領域では、すでに腐敗の兆しが見え隠れしており、それもまた“帝国”の現実の一側面なのだ。


帝都にはたびたび訪れているとはいえ、最近はエレンデル商会の系列店舗が目に見えて増えてきた気がする。


もともと、あの商会がセイフォルト家と密接な関係にあるのは周知の事実だが──

帝都はもちろん、ヴェルディアや他国にまで出店攻勢をかけており、その影響力は凄まじいと聞く。


品揃えもよく、品種の質も高いため、表向きに不便を感じることはない。

だが、あまりにも急速に広がる影響力というのは、時に良からぬ事態を招く。

いずれにせよ、いずれ一度、しかるべき調査は必要だろう。


そんなことを考えているうちに、ヴェルディア駐屯本部に到着した。

エルマーはひと足先に馬車を降り、事務手続きの前段取りのため政庁の方へ向かってくれている。


私はゆっくりと馬車を降り、本部の重厚な扉を見上げた。

歴史の重みを感じさせるその建物の前で、数人の部下たちが整列し、敬礼を送ってくる。

軽く頷いて応えた私は、そのまま彼らの視線を背に受けながら、本部の中へと足を踏み入れた。


現在、我が軍は――

・ここ帝都ルミナスに、後方支援師団の半数

・本国ヴェルディア領内に、防衛師団を常駐


これらを除く全師団が、すでに前線の国境地帯に展開している。


第一師団(カロス指揮)は帝国西部ザカール連邦方面へ。

第二師団は、帝国北方の衛星国サーヴァントに駐屯。

第三師団は、ノルンダールへの牽制のため、ノルヴィック街道周辺に展開中だ。


帝都内に残るのは、平時より削減された最低限の人員のみ。

主に、連絡・警備・輸送といった補助任務が中心となる。

他国からの侵攻の危険は薄いとはいえ、この布陣は決して油断できる状態ではない。


* 奥へと続く廊下を歩いていると、見慣れた士官が敬礼し、声をかけてきた。


「アグニス様。先ほど、お客人のエララ様がお尋ねになり、伝言をお預かりしております。“夕暮れ時の木漏れ日で待つ”とのことです」


私は軽く敬礼を返し、黙って頷いた。


──相変わらず、あの子は突然だ。


でも、そういうところも彼女らしい。

いつも不意に現れて、不思議と、ちょうどいいタイミングで姿を見せる。

気まぐれに見えて、その実、流れのままに調和しているような──

波長が合う、というのは、こういうことなのかもしれない。


おそらく彼女の言う「木漏れ日」は、学院近くのあの丘の公園のことだろう。


数年前、焼き菓子を持ち寄って二人で過ごした、静かな午後の記憶がある。

そのとき、普段は無表情な彼女が、ほんの少しだけ──


ほんのわずかに、目の端を緩めて笑った気がした。

あの一瞬だけが、なぜか妙に残っている。


……どうしてだろう。


最近、やけに昔のことばかり思い出す。

はっきりと覚えていたはずの情景が、ゆっくりと浮かんでは沈んでいくのを、まるで他人事のように眺めている気分になる。

忙しくて余裕がないせいか、それとも――


明日は政庁に出向かなければならない。

となれば、今日が唯一の自由な時間だ。





つい先日、温泉街で偶然、彼女と顔を合わせたばかりだった。

けれど、だからこそ。

またこうして現れるのが、あの子らしいと思えてしまう。


“木漏れ日で待つ”──

ただそれだけの言葉に、呼びかけのようなものを感じた。

言葉以上の気配が、そっと胸に触れてくる


胸の奥を、かすかな風が撫でていった気がした。

けれど今は、目の前の軍務に意識を戻すべきだ


司令室に入ると、奥の机でエルマーが手際よく書類をまとめていた。


私は常駐しているわけではないため専用の部屋もなく、空いていた椅子をひとつ借りて腰を下ろす。


「現在の帝都における帝国軍の配置状況と、各皇家軍の展開について昨今の情報をまとめた物です。」


エルマーから書類を受け取り、目を通す。

本国でも情報は入ってくるが、やはり現地の鮮度には敵わない。

こうした確認もまた、必要な務めだ。




──サーヴァント方面とノルヴィック方面への展開。

これは、従来の戦略の延長線上と見なせなくもない。


だが、カロス率いる第一師団を西方に回し、さらにヴィクトリアを“皇帝の勅命”として派遣する──

この動きの意図が、どうにも読みきれない。


西方はもともとセイフォルト家の管轄であり、問題があるとすれば軍事衝突というより貿易摩擦の類だ。

わざわざ軍を大規模に移動させる理由が見えない。


現在、帝国本軍に出向している部隊が移動すること自体は理解できる。

しかし、機動戦に長けた第一師団を、あえて地形の険しい西方に展開するのは腑に落ちない。


加えて、ノルンダール方面には第三師団がすでに駐屯しており、そもそも国境隣接地の警備は皇家が優先的に対処すべき事案のはずだ。


他の皇家軍や帝国本軍の配置は、平時と大きく変わっていない。

ルミナス軍はイシュマールに駐屯しているが、これは第三師団の後詰めを兼ねているのだろう。

イシュマールは帝国編入時に軍を解体されており、その事情を踏まえれば納得のいく措置だ。


たしかに、ノルンダール方面では小規模な緊張状態が散発している。

だが、それにしても──これだけの戦力を布陣する必要があるのだろうか。


……やや、大仰に過ぎる。


小さく息を吐き、椅子に背を預けた。

机の上には、既に目を通し終えた承諾書が整然と並んでいる。


そこへ、ノックの音と共にエルマーが現れた。

紅茶と、一通の封書を盆に載せている。


手にとってみると、イグニス商会からの請求書らしい。

何かを頼んだ気もするが……忙しさに紛れて思い出せない。

封を切らず、ポケットに滑り込ませた。


雑務を一通り片付けた後、近くにいた部下たちと他愛ない話を交わす。

窓の外では、日が静かに傾き始めていた。


「副官。私は友人との約束がある。馬を一頭、用意してくれ」


「はい!」とエルマーが軽快に返事をし、足早に部屋を出ていく。


まだ数日しか共にしていないが、彼女は賢く、よく気が利く。

エリザやヴィクトリア、レオンたちもそうだった。

私はいつも、彼らに助けられてばかりだ。


……不思議なものだ。

気づけば、こんなにも多くの人たちに支えられている。


──だからこそ、今度は私が守らなければならない


思考を切り替え、


外へ出て、馬にまたがろうとしたその時――


「アグニス様、護衛は本当に……よろしいのですか? せめて小隊規模でも……」


少し力なく、エルマーが声をかけてくる。


「大丈夫だよ、エルマー。揺らぎが……私に教えてくれるから」


そう言って微笑みながら、手綱を握る。


彼女の顔を見ていると、幼い頃のエリオットを思い出す。


公園は学院のすぐ近くだ。

もしかしたら、どこかですれ違うかもしれない。


そんな思いを胸に空を見ると

もう橙に染まり始めていた。


石畳の街道を、ゆっくりと進んでいく。

整備された道は美しいけれど、馬にとっては負担が大きく、全力では走れない。


緊急時のために隣に土の走行路が設けられているが、今は急ぐ理由もない。


──このまま、街の景色を眺めながら向かうとしよう。





街道沿いには、白亜の建築が陽光を浴びてその輪郭を際立たせ、整然たる威容をもって帝都の風格を示していた。


けれども、その通りには時折、この美しさとは対照的な身なりをした人影が、ちらほらと見受けられた。


いかに整備された都市であろうとも、貧富の差が消え去ることはない。

大通りから外れた一角には、この帝都にも貧民街が存在していた。


彼らはふだん、取り締まりの目を恐れて姿を見せることはないが、ごく稀に、何かの拍子でこちらへ迷い出る者もいる。


どうにかしてやりたいという思いは、確かにある。

だが、現実はあまりにも苛烈だ。

ヴェルディアの民の生活すら手に余る今の私に、他領の人々の運命まで背負う余力など、あるはずもなかった。


そんな彼らにとって、唯一の救いとなり得るのが──宗教であった。


帝都の中心部に荘厳な神殿を構える〈エデリア教〉は、格式と権威を重んじる保守的な教派である。


その教義にはどこか貴族めいた気配が漂い、排他的な空気を纏っていることから、貧しき者たちにとっては縁遠い存在となっている。


一方で、〈アルカデア教〉はこれと対照的であった。

市井の民や貧しき者たちへの施しを積極的に行い、慈愛と奉仕を根幹とする教義は、広く民衆の心をつかんでいる。


ふと、通りの奥に施しを受ける人々の列が目に入った。

頭を布で覆ったシスターが、子どもたち一人ひとりに丁寧にパンを手渡している。


洗いすぎたのか、布の色は少しだけ灰がかっており、他の修道女たちの装いとはわずかに印象が異なっていた。

あれも、おそらくは〈アルカデア教〉の者なのだろう。


──信仰。

私には縁遠いものだが、それによって支えられている者がいるのなら、否定する理由も見当たらない。


その時、不意にひとつの人影が視界を横切り、そのまま前のめりに崩れ落ちた。

見るからに、行き倒れた貧民のようだった。


さすがに素通りするわけにもいかず、私は馬を降りてその男に歩み寄った。


手を差し伸べようとしたその刹那、袖口の隙間からちらりと銀の腕飾りが覗いた。

太陽の光が金属に反射し、ぱっと一瞬、まばゆい閃きを放つ。


中央には、螺旋を描くような奇妙な文様が刻まれていたが、反射のせいで判然とはしなかった。


──まあ、おそらく地方の土着信仰の類だろう。


帝都には、各地からさまざまな宗派や風習が流れ込んできている。


格式を重んじるエデリア教も、福祉を掲げるアルカデア教も、いずれも帝都の人々に広く浸透してはいるが、異端とみなされた信仰にはおそろしく冷淡だ。


土着信仰とは、多くが文字を持たず、祭具と伝承だけで受け継がれてきたものだ。


それは神ではなく精霊や土地の因縁を崇めるものも多く、帝都の常識とはかけ離れている。


だが、追いやられた人々にとって、それだけが最後にすがれるものなのだろう。


この腕飾りに込められていたのも、きっとそうした切実さだ。

けれど、そんなものはこの都では誰にも理解されず、むしろ排斥の理由となる。


土着の民であるなら、それらの恩恵を受けることもできないはずだ。

都に留まっていても、いずれ路頭に迷うだろう。


「……ここでは生きられない。

 戻れる場所があるなら、戻りなさい。まだやり直せるはずよ」


そう静かに告げると、手元にあった銀貨をそっと彼の掌に握らせた。


男はしばらく戸惑ったような面持ちを浮かべていたが、やがて、ゆっくりと頭を下げた。


遠ざかっていくその背中が、何度もこちらを振り返っては深く礼をしている。


その様子を、道の端で施しを続けていたアルカデアのシスターが、優しげな笑みを浮かべながら見守っていた。


やがて彼女は何事もなかったように籠を持ち直し、再び列の子どもたちの方へと向き直った



「おやおや、これはこれは……! ヴェルディア公ではありませんか」


聞き覚えのある、甲高く芝居がかった声が背後から響いた。


「皇家の御当主ともあろうお方が、

 とも連れもなく、貧民にまで慈悲を施されるとは……

 まさに女神のごときご高徳! 帝国の誉れですなぁ!」


──振り向かずとも分かる。耳に障る不快な声、大仰な口調と芝居じみた身振り。


ロデリック・セイフォルト。

学院時代の二つ上にいた上級学生で、セイフォルト家の現当主。


軽薄な言動で知られ、巷では「ポンコツ跡取り」と揶揄されている男だ。

何より気に食わないのは、彼が私に対して――やたらと婚姻を持ちかけてくること。


この帝国一、煩わしく厚かましい求婚者。

貴族たちの面前で平然とそういったことを口にできる、その神経がもう耐え難い。


振り向くと、今日もやたらと華美な黒の上着に、銀糸を散りばめたマント。

斜めにかぶった大仰な帽子は、まるで仮面劇の悪役そのものだった。


私は深くため息をつく。


「……ロデリック公。あいかわらず芝居がかったご挨拶ね」


「これはご無礼を。思わず見惚れてしまいましてな。

 貴女のご慈悲に感動して、心が洗われる思いでしたぞ」


「貴公と鉢合わせた衝撃には、それも及ばないと思うけれど」


「ははっ、それは手厳しい。

 だが、そんな貴女にこそ──我がセイフォルト家の名を継いでいただければと!」


その瞬間、声のトーンがわずかに上ずった。


……はあ。耐え難い。


「せっかくの申し出ではあるけれど」


そう言い添えて、私は馬にまたがった。


「今の帝国の状況で、婚姻だの芝居だのと呑気に構えていられるその神経――

 いっそ尊敬すべきかしら。皇帝陛下がお聞きになったら、どれだけ落胆されることか……では」


ロデリックの口が「ま、待たれよ!」と動くより早く、私は軽く手綱を引いた。

馬を脇道に寄せ、緊急走行用の街道へ。そこから一気に駆け抜ける。


背後で何かを叫ぶ声がしたが、

風がすべてを攫い、彼の姿ごと視界から遠ざけていった。


──それでいい。今は、あの子との約束のほうが大事だ。







しばらく馬を走らせると、見慣れた街並みが視界に広がってきた。


学院の帰りによく立ち寄った食事処。

流行から少し外れた、けれど趣味に合った衣服屋。


薄暗い路地には、エリザが好んで通っていた怪しげな魔術店がある。

ヴィクトリアが夢中になっていた書籍店。

レオンが毎回のように買い食いしていた屋台。

そして──兄様が入学祝いだと言って買ってくれた短剣を売っていた、あの武具屋。


今もその短剣は、私の腰にしっかりと帯びられている。


懐かしい気持ちとともに、胸の奥に切なく苦しいものが込み上げてくる。

過ぎ去った日々の記憶が、夕暮れの風にやさしく揺れていた。


──もう陽が傾き始めている。

急がなければ、エララを待たせすぎてしまう。


馬に拍車を当て、ゆるやかな坂道を駆け上がる。


通りの焼き菓子屋に寄りたかったが、すでに閉まっていた。

……仕方ない。次に会うときは、あらかじめ買っておこう。

そのときは、こちらから招いて──あの子に、ゆっくりご馳走してあげたい。



ふっと、柔らかく少し冷たい風が全身を撫でて通り過ぎた。

この感覚──この先に、あの子がいる。


エララが近くにいると、揺らぎも不思議と落ち着いた波形を描く。


角を曲がった先、大きな木の下に一人の人影が見えた。

逆光の中、白銀の髪が夕日に透けるように輝き、景色と溶け合っている。


その所作のひとつひとつも、まるで風景の一部であるかのように、静かにそこに馴染んでいた。


いつもの灰と黒の外套をまとい、彼女はただそこに、佇んでいた。


彼女を見ると不思議に思うのだが──

エララは氷に由来を持ち、その血脈から「氷の魔女」と呼ばれているらしい。

寒冷地の出身であるにもかかわらず、季節を問わずいつも外套を身につけている。


氷の微精霊でも宿していて、常に涼しいのか。

それとも、外套そのものが魔術の媒介なのか。

あるいは……とても大切な何かを、そこに隠しているのかもしれない。


──けれど、そんな私的な興味を、本人にぶつけるわけにはいかない。


少し離れた場所に馬を繋ぎ、私はゆっくりとエララのもとへ歩み寄った。


彼女はすでに私の気配に気づいていたのか、涼しげで優しい眼差しをこちらに向け、そっと声をかけてくる。


「やあ、アグニス。悪いね、こんな場所まで来てもらって」


透き通るような、清涼感を帯びたその声は、

空気そのものを澄ませるかのように耳に届き、

まっすぐに心へと染み込んでくる。


──いつも感じるこの心地よさは、いったい何なのだろう。


「ちょうど、時間もあった事だし、  問題ないよ。軍務先からそのまま来てしまったので、この前の焼き菓子は残念ながらないけどね」


この子と話すと、私までゆっくりとした口調になる。不思議な子だ。


エララは、ほんの僅かに首を振った。

まるで、焼き菓子が目的ではなかったとでも言いたげに。

その所作には微かな驚きと、わずかに――照れのようなものが混じっていた気もする。


そして、空を見上げるながら言葉を静かに紡いだ。


「……君にまた会いたいと思っていた。それは、私としての理由。

もう一つ、ヴェルディアを担う者としての君にも、伝えておきたいことがあった。


その響きに、自然と背筋が伸びる。


「君は、“揺らぎ”を宿している。私と近い……けれど少し違う、熱を帯びたそれを。

ヴェルディアの地では、その力はとても強く響く。

強すぎる音は、他の旋律を覆い隠してしまうことがある」


彼女の瞳が、どこか遠くを見ていた。


「この帝都に来る前、私はインフェリアのもとを訪れた。

あの温泉街の空気に、ひとつ、異なる調べが混じっていた。

澄んだ水面に、見えない葉が沈んでいくような……そんな微かな違和がね」


それが何であるかまでは、言葉にされなかった。

けれど、それで十分だった。

彼女が感じた違和感は、たしかに私にも心当たりがあったから。


「君のところで、何か気になる動きは起きていない?」

少し間を置いて、言葉を探しながら答えた。


「……変わったことといえば、軍の移動や、帝都の空気。

それと――何と言えばいいか……説明しきれない違和感が、少しずつ増えてきた気がする」


その時、ふわりと一枚の落ち葉が風に乗って舞い降りた。

軽やかに肩へ触れ、ほんのわずかな冷たさを残す。


もう秋なのだと気づいたとき、エララがそっと近づいてくる気配がした。


彼女は黙ったまま、私の肩にかかった落ち葉を優しく払った。

その手が自然と私の首元に伸び、ネックレスの飾りにふと触れる。

わずかに揺れたそれを、エララは一瞬見つめ――


静かに、そっと指を離した。


何かに気づいたような、あるいは思い出したような、けれど何も言わず、ただそのまま目を伏せた。


そして、小さく息を吐きながら、いつもの落ち着いた声で続けた。


「君の感覚を、大切にして。

揺らぎが教えるものは、ときに言葉よりも確かだから。

それに……物事には、一度立ち止まって、

静かに見つめ直す時間も必要なんだ」


彼女の不思議な言葉は、決して何かを断定しているわけではない。

けれどその調子には、私へのさりげない気遣いと、どこか切実なものがにじんでいた。


――わざわざ、このためだけに来てくれたのだ。


「ありがとう、エララ。よく注意しておくよ」

微笑みながらそう返すと、ふと思い立って問いかけた。


「ところで……エララはこの後どうするの?

もし帝都に留まるつもりなら、宿舎に部屋を取らせるけど」


すると彼女は、ほんの少しだけ首を振った。


「もう伝えたいことは伝えたから、このまま戻ることにするよ。

帝都のお土産も持って帰らないといけないしね」


そう言って、どこか優しい笑みを浮かべる。


「……あの子たちも、アグニス。君に会いたがっていたよ」


懐かしい名前が、ぼんやりと胸をよぎる。


そのひとことに、ほんの少しだけ胸が熱くなった。


あの子たち――テオやリィナ。

かつて、エリーナを迎えたあの頃にいた戦災孤児たち。

親を亡くし、行き場をなくした彼らを、私はヴェルディアに連れ帰った。

子を喪った里親たちに託し、学校に通わせ、習い事のあとには手ほどきをしながら共に遊んだ。


……最近は、忙しさにかまけて顔を出せていないけれど。


「わかった。今度、私も会いに行くよ。

君が代わりに、あの場所にいてくれて嬉しい」


そう言って微笑むと、エララは一瞬、戸惑ったような表情を浮かべた。

そして、どこか恥ずかしげに目を逸らし、静かに背を向けた。


「……では、またね。アグニス」


それだけを残して、彼女は夕陽の沈むほうへと歩み去っていった。

その背中は、光に包まれながら、やがて景色の中に静かに溶けていった。


私たちは、いつも短い言葉しか交わせない。

けれど、その短さがなぜか心に残る。

いつもどこか満ち足りていて、けれどほんの少しだけ切ない。


──不思議な子だ。


沈みゆく陽の光が、ゆっくりと景色を茜色に染め、やがて静かに夜の帳が降りてくる。


胸の奥に、ほんのりと温かな熱が宿った気がした。


私はそれを抱いたまま、馬を引いて、宿舎へと戻ることにした。






通りすがりに、学院の寮がちらりと見えた。

壁には緑の蔦が絡み、古びた外観に時の流れを感じさせる。

その光景を目にするだけで、懐かしい思い出が胸に去来する。


エリオットも、いまはあの寮に暮らしているはずだ。

けれど、この年になって姉が突然訪ねていくのは、きっと迷惑だろう。

過保護すぎるとからかわれてしまうかもしれない。

それに、彼は今ヴェルディアに戻っている可能性もある。


……だから今日は、通りすがりに想いを馳せるだけにしておく。


振り返ることなく、来た道をゆっくり戻る。

坂道を下り、少しだけ足早に、宿舎へと向かう。


魔道灯がぽつぽつと灯り始め、通りには帰宅を急ぐ人々の姿が増えてきた。

帝都の夜が、ゆっくりと動き始めている。


やがて、宿舎の門前に辿り着く。

衛兵小屋の横にぽつんと置かれた椅子――

そこに、エルマーが俯いたまま眠っていた。

きっと、私の帰りを待っていてくれたのだろう。


わざわざ帰りを待たせておいて、何もないまま別れるのはさすがに気が引けた。

私は静かにエルマーに声をかけ、遅めの夕食を一緒に摂ることを提案する。


ちょうど目の前に、新しくできたばかりらしい食事処がある。

入ったことはなかったが、この際だから試してみようと思った。


エルマーは最初こそ恐縮して遠慮していたが、

「いいから」と軽く手を引くと、諦めたように苦笑しながらついてきた。


中へ入ると、店内は思いのほか賑わっていて、ほとんどの席が埋まっていた。

私たちの軍服に気づいたのか、店員が気を利かせてくれたのだろう。

空いていた個室に案内され、そこに落ち着くことにした。


帝都に来たのは久しぶりだ。

せっかくなので、ルミナスの名物が並ぶ定番のコースを頼むことにする。


セントリア風のローストポーク。

ほんのり甘い香草が香る、帝都のパンケーキ。

そして、スパイスの効いた清めのスープ。


ルミナスは、焼き菓子や甘味でも知られている。

特に甘さの“段階”が細かく分かれていて、私のように甘すぎるものが苦手な者でも、口にしやすい。


この帝都に来るたび、つい何かしら頼んでしまうのも、その繊細な味加減ゆえだった。


ふと気になって、問いかける。


「エルマー。君は“ロルフの姪”だって言ってたよね。

叔父の頼みで軍に入ったって話だったけど……学院の後、進路は別の道を考えてたのかい?」


馬車の中で交わした雑談の断片を思い出しながら、さりげなく尋ねる。


エルマーは一瞬だけ瞬きをし、目を伏せた。

そして、少し考えるように言葉を選びながら、静かに口を開く。


「……小さい頃のことなので、あまり詳しくは覚えていないんですが――

昔、ヴェルディアの軍の方に、とても優しくしていただいた記憶があるんです」


そう言って、そっとカップを両手で包み込むように持つ。


「私は争いごとが苦手で、学院の後は軍とは違う道に進むつもりでした。

でも……あの叔父が、あの人が、直接私に頼んでくるなんて、きっとよほどの理由があったんだと思います」


そこまで話してから、彼女は少しだけ頬を緩めた。


「……あの時の優しさを、今度は私の手で、違う形でも返したい。

たぶん、ずっと心のどこかでそう思ってたんだと思います。

ロルフおじさんの言葉は、その背中を押してくれたんです」


そして、少しだけ困ったように笑いながら、付け加える。


「まさかそれが、アグニス様の副官だなんて……当時は夢にも思いませんでしたけどね」


そうか。でも、君は期待以上に働いてくれているよ」


穏やかにそう伝えると、エルマーは少し恥ずかしそうに目を伏せた。


「けれど、あまり無理はしないでくれ。軍の上司としてだけではなく、私たちは同じヴェルディアの民であり、仲間であり、家族でもあるのだから」


そう言うと、彼女は驚いたように顔を上げ、小さく微笑んだ。


そのまま、料理が運ばれてきて、私たちは食事を楽しみながら、たわいもない会話を重ねていく。


ここ最近は忙しく、対面でゆっくりと食事をとる機会すらなかった。こんな時間は本当に久しぶりだ。


話題は自然と、好きなものや昔のこと、最近気になっている出来事などに移り、私たちはごく普通の若者同士のように語り合った。


きっと──さっき通りがかった学院のあたりで、懐かしい記憶が心の奥を少しだけ揺らしたのだろう。


学生時代の、何気ない日々。

仲間と笑い合った記憶。

あの頃の気持ちが、静かに胸の中で息を吹き返していた。


やがて食事を終え、夜風の中を歩いて宿舎へと戻る。


エルマーと別れ、手を軽く振ると、私は一人、自室へと足を運んだ。



部屋にはいり、ネックレスと帽子を置き、上着を傍にさの椅子の背にかけると──


ぱさっ


封書が床に落ちた。先ほど受け取った領収書だ。


しゃがんで拾い上げ、何気なく目を通す。



オリーブ一箱  5

人件費     24

保管費      5

輸送費     10

手数料      6

合計      50フィラル

イグニス商会


「果実は西 薬は北からくる」


……ん? どういう意味だ?


ただの備考か、あるいは──間違えて、別のメモを封入してしまったのかもしれない。


だが、気になるのは商会の名だ。

聞いたことがない。帝都のどの登録帳にも、似たような名はなかったはず。


文字を見つめていると、ふいに目の奥が重たくなった。


今日一日の緊張と移動の疲れが、今ごろになって襲いかかってくる。


ぼんやりと文字が滲み、意識がゆっくりと沈んでいく。


気がつけば、まぶたが静かに──降りていた。



西と北──ザカールとパルダミオン。


なるほど。軍の配置に不自然さが出るのも道理だ。

軍の戦力分断を図り、どちらかで何かしら起こす意図があるな。

どちらが陽動で、本命か?

問題は……誰が、これを仕組んでいるかだ。


セイフォルトが最も近いが、今日見たかぎり──あの男に“裏”があるとは思えない。

あの軽薄な態度は、おそらく仮面ではなく“素”そのもの。

あれで計算高い策士なら、むしろそのほうが驚きだ。


では──先代か?


いや、先代は隠居して久しいと聞く。

私の諜報網でも、彼の影は掴めていない。


グレイアント……それとも、ノルンダールか。あるいはイシュマール――。


動きがあまりにも早い。まだ時間が必要か。


……いや、目覚めた“私”にも、これを伝えておく必要がある。


急ぎ、手を打つべきだ。


静かに立ち上がり、窓辺に歩み寄る。

そっと窓を開き、指先に淡く炎を灯す。


すると──気配が、闇の中にふわりと浮かび上がる。


「各師団にこれを届けよ」


封書を窓から投げる。

それは夜風に乗って、ゆっくりと、音もなく闇の向こうへと消えていった。


パルダミオン方面には直接の圧力が必要だな。

私個人が行く必要があるが、グレイアントの船ではこの状態では危険すぎる。

レヴァンティンからの迎えを、私に要請させる必要がある。

この部分は共有して問題ないだろう。


ゆっくりと窓を閉じ、ベッドに腰を下ろす。

机の上にあるネックレスを手に取り、そっと握った。

揺らぎの力を、静かに流し込む。


赤い宝石が、室内の魔導灯の光を受けて、

淡く、ゆらゆらと静かに瞬いていた。


その揺らめきをただ見つめていると、

まぶたが次第に重くなり──


気づけば、意識はそっと深い闇へと沈んでいった。







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