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一章第七節・風の交差路 律を越えて踏み出すとき




ノルヴィク一帯の森林は、先日までの濁った空気がすっかり消え、どこにでもある自然の気配が戻っていた。

風が木々を揺らし、虫の声が微かに聞こえる。


──きっとこれは、アグニス様の任務が成功したということなのだろう。


砦の空気は静まり返っていた。兵たちの動きはあるものの、皆どこか気の抜けた表情をしている。


張り詰めていた弦がようやく緩んだ、そんな空気だ。

ここ数年頻発してる、国境侵犯者の増加に加え、ノルンダール王朝の斥候隊と見られる部隊への牽制、ただでさえ緊張してる最前線にさらに不穏な事象が加われば尚更だ。


ふっと砦の外を眺めていると、遠方に数匹の翼竜の影が見えた。


「あれは……ゲイルの翼竜か」


ゲイル・シュラトウス。ノルスティア翼竜軍の団長であり、私の同期にして腐れ縁の頑固者だ。


「カロスー! 出てこーい!」


着地するなり、ゲイルが大声で叫んでいる。

昔から声も態度もでかい。やれやれ──これ以上騒がれる前に、迎えに行くことにした。


「ここは重要警戒区域の特殊任務地だぞ。空軍指揮官が、何のために前線まで出張ってきたんだ?」


こいつは昔から思いつきで行動し、突拍子もない騒ぎばかり起こしてきた。


「愚問だな! それを言うなら、アグニス様と──

うちのヴィクトリア様。

この二人を危険任務に就かせてる、我らの方がどうかしてるだろうが!」


率直な言葉で、正論を返された。──確かに、どこの皇家が、主を危険地帯へ送り込むというのか。


また言い負かされたようで腹が立ったが、ゲイルはすぐさま通りかかった兵士を呼びつけた。


「貴様、ちょっと来い! 差し入れ品だ、十分な量を持ってきた。支度しろ!」


──要は、飯を作れということらしい。


その直後、空から複数の荷物が広場に投げ落とされた。

翼竜たちは軽く旋回すると、すぐに空へと飛び去っていく。


「空気が晴れたとなれば、うちの出番だ。」


ゲイルは、まっすぐな目でそう答える。


異常が感知されてからのノルヴィックは、

長く空気の澱みと異様な気配があり、翼竜が近づこうとしなかったため、

空からの哨戒もままならなかったのだ。


「そういうことを俺に言うお前はどうなんだ? この件に関して言えば、我が軍の全員が同じ立場じゃないか」


確かに、その通りだった。

特異体質を持つ当主たちだからこそ解決できる事態とはいえ、何も考えずに危地へ送り出すわけがない。


この案が出たときに、真っ先に統括を申し出たのは私だ。

他の連中もまた、軍務の中で最優先事項として処理していた。


「……飯でも食うか」


そう言って、ゲイルを食堂へと案内することにした。


昼時を過ぎていたため、食堂の中は、人影もまばらだった。

差し入れ品を調理班に渡し、空いていた席に腰を下ろす。


しばらくして料理が運ばれてくると、ゲイルはさっそく手をつけた。


「ヒヤヒヤしながら待っておったからな。飯も食うておらん。……無理を言って悪かったな」

ひと息ついてスープを飲み干しながら、ゲイルが言う。


「確かにな。近年の例では異例だ。最近、その周期も頻繁になりつつある。特に、今回は、周期が近かったな」


そう答えながら、私は思考を巡らせる。

元素災害というものは、近くても数十年、通常なら数百年に一度の発生が普通であるはずだ。

だが、ここ最近は明らかに頻度が増している。

まるで“何か”が、世界の構造をこっそりと揺るがしているかのように。


──あのとき。

先代様が巻き込まれた、あの元素災害。


その記憶はいまだ鮮烈に残っている。

地が裂け、空が軋み、理が一時的に“沈黙”したあの感覚。

あの時、元素の微細な変動を一時的にでも感知できる魔導具を、なんとか開発できたおかげで、

今回は前兆の段階で対処ができた。だからこそ、大事には至らなかった。


──だが、またあのような災害に遭うのは──二度とごめんだ。


ふと前を向くと、ゲイルは目に涙を溜め、今にも泣き出しそうな顔をしていた。



先代ヴェルディア当主ガイウス様、セナ様、ノルスティア先代カリス様──

中でもガイウス様は、ゲイルと同じく明朗快活な人物で、特に彼を可愛がっておられた。

ゲイルにとって、その日々は、決して色褪せることのない思い出なのだろう。


「……飯も食ったことだし、俺も行くか。では、また後でな」


軽い握手を交わし、ゲイルは翼竜に乗って飛び去っていった。

一刻も早く迎えに行きたいのだろう。強面な外見とは裏腹に心配症なあいつらしい事だ。


一人残された私は、残された料理を片付けながら、先ほどの話を静かに反芻する。

先代様のこと。あの災害のこと。

そして、今、私たちが直面している違和感のこと。


元素災害の不自然な周期もそうだが、この付近で囁かれている怪しげなカルトの噂──

国境付近の小競り合い──


いずれも単体では無関係に見えるが、奇妙な符号のように頭の中で引っかかる。


その時ふと、先の任務でネリアが一瞬見せた、僅かな動揺が脳裏をかすめた。

あれは、任務中の緊張ではなかった。明確な“気配”を隠そうとした痕跡だった。


言葉にはしなかったが──あの女、何かを隠している。

それも、尋常ではない“何か”を。


彼女ヴェルディア軍部に所属してはいるが、本所属は帝国本軍だ。この任務も、この地域に詳しいという触れ込みとヴィクトリア様との知己があること、それに加え本軍任務でのノルンダール方面の調査も兼ねて送り込まれてきた。


任務を共にするにあたって彼女の経歴も調査済みだが、

身辺調査を彼女の生まれた村で行った時に一様に皆、

同じ印象、同じ思い出を語りと整いすぎて不自然すぎる点が気になった。

昨今の帝国のごたつき具合もあり懸念される点もある。


調べてるにしても、本軍所属の者を詳しく調べるにはリスクが多すぎるし、何より現状のうちの状況では、人員もそうだが、範囲が広すぎる。


本軍諜報部にコンタクトを取るのも手だが、動き方次第では、

それが我が方に不利に働く可能性もある。

……となれば、民間の探索ギルドあたりに、先回りで依頼を出しておくか。

食事の後に依頼先を見繕っておくとしよう。


一通り思案も落ち着いたのと同時に

最後のひと口の料理を平らげ

自室に向かう。


喉の奥に感じる冷めたスープの余韻と、拭いきれぬ胸騒ぎだけが、静かに残っていた。



同刻沈黙の森 アグニス小隊



「……ここ、なんだか変じゃない?」


足を止め、周囲を見渡しながらヴィクトリアが呟いた。

木々の葉擦れの音は穏やかだが、森全体が微かに“息を潜めている”ような違和感がある。

深い森のせいか、もしくは磁場のせいか


私は、隣を歩いていたネリアに尋ねてみた。

「どう思う? 私達には普通の森と区別がつかないが?何が違和感や不自然なところがまだあるか?



いえ、おそらくただの地域特性なだけだと思います。この一帯に生えてる森林には、多少の元素や磁場が含まれていたりしますから、おそらくヴァリエンスからの胞子の類がたどりついている影響でしょう。

それにこの深さの森だと進路を判断するのは少し難しい場合があります。少し調べてみます。


ネリアはそう答えながら、鞄から一枚の地図を取り出し

太陽の位置を確認しつつ、周囲の空気を探るように尖った耳をピクリと動かし、視線を森の奥へ向けた。



「この位置……少しイシュマール領側に寄りすぎていますね。南西方向に進めば、日が暮れる前には砦に戻れるはずです」


その言葉に従い数メートルほど進んだとき──


ポトリ、と音を立てて、ネリアのポケットから何かが落ちた。

反射的に拾い上げようと身をかがめた私は、そのまま足元に視線を落とす。


それは、黒い糸のようなものが幾重にも編み込まれた、細長い組紐だった。

見たことのない材質──しかも、どこか不快な“重さ”のようなものがある。


「落としたぞ」


声をかけて差し出すと、ネリアは一瞬、わずかに視線を逸らした。

受け取る動作はいつも通りだが、指先に力がこもっていた。


異国の様式を思わせる工芸品。

ヴェルディアでも、ノルスティアでも見かけない意匠だった。


(──なぜ、そんな物を持ち歩いている?)


疑念が喉元までせり上がったが、今は深入りすべきではない。

そんなことを考えていた、その時──ふと、地面からわずかに突き出した岩のようなものが目に入った。


苔むしてはいたが、表面にはうっすらと文字のようなものが刻まれている。


──見たことのない書体だった。

曲線とも直線ともつかない、どこか“音”を孕むような、不思議な文字。


私はしゃがみ込み、手袋の指先でそっと表面をなぞった。

崩れかけているが、明らかに意図的に刻まれた痕跡だ。


(……エリザに見てもらったほうが早いな)


私は背負っていたエリザをそっと下ろし、岩を指さした。


「……この文体、古代文字の形式みたい。でも……かなり古い」


しゃがみ込んだエリザが、岩の表面をじっと見つめながら言葉を継ぐ。


「今までに発見されてるどの古代文字体系にも該当しないし、類似性も薄い。

こういうのがある場所って、だいたい古代文明の遺構だったりする」


周囲に目を走らせた彼女は、小さく息を吐いて続けた。


「……もともとこの辺りは、古代イシュマール王国の領土だったはず。

イシュマールが帝国に編入される、もっとずっと前の時代……

この記述がもし本物なら、歴史書に載ってない何かが、ここにあったってことになる」


目を細めながら、エリザは少し口角を上げる。


「ちょっと、アグニス。どいて?」


そう言うと、彼女は風の精霊──シルフを呼び出し、岩の根元に小さく風の刃を走らせた。


シュッ、と鋭くも静かな音を立てて、岩の一部が正確に切り取られる。

切り離された欠片は、するりとエリザの懐に収められた。


「帰ったら分析する。……文献庫、また通うことになりそう」


キラキラと目を輝かせながら、エリザは満足そうに呟いた。

無邪気なその表情に、胸の奥の緊張がふっと緩む。

気づけば、私の口元にも自然と笑みが浮かんでいた。


エリザは昔からこういうものが好きだ。

学生時代、ルミナスの学院の隅にある歴史的建造物の欠片を勝手に採取したり、

帝国史の授業で提示された遺物をこっそり持ち帰って調べたりして、大騒ぎになったこともある。


そんな昔の思い出を振り返りながら、

少し歩くと、視界の開けた場所に出た。

休憩を取ろうとしたその瞬間、太陽の光がふと陰り、森の上空に見慣れた影が浮かび上がった


「あら、ゲイルじゃない? 迎えに来てくれたの? ありがとう!」

ヴィクトリアが翼竜に向かって手を振る。


やがて数人の部下を従えたゲイルが地に降り立った。


「ヴィクトリア様、アグニス様──ご無事で何よりです。エリザ殿、レオン殿も、よく頑張ってくれました」

彼とその部下たちは片膝をつき、うやうやしく頭を垂れる。


「いやいや、軍務中はあなたのほうが上官でしょ? 閣下」

ヴィクトリアが笑いながらアグニスのほうを振り返ると──


アグニスは、そっとエリザの背後に隠れるようにして、こちらをうかがっていた。

おそらく、昔ゲイルに叱られたときのトラウマが残っているのだろう。明らかに警戒した表情で、その様子を観察している。


その不自然な反応に、その場の空気がやんわりと弛み始めた。


「アグニス様、あの時は大人として子どもを叱っただけのことですよ? いまだに避けられるのは、ちょっと……」

ゲイルが頭をかきながら苦笑する。

「このままだと、将来先代様に“娘をいじめるな”って本気で咎められそうで、怖いんですから……」


強面で体格のいい軍人が困った顔をし、皇家の若き当主が照れたように顔を伏せる。

──皇家軍、特に熾天軍では、ときおり見られる光景である。


ヴェルディアとノルスティア、両軍の統合で成り立つ皇家軍は、規律に厳しい精鋭部隊でありながら、

同時に、まるで仮初めの家族のような結束力を持っていた。

だからこそ、その一糸乱れぬ統制と信頼関係は、他の皇家から一目置かれ、ときに警戒すらされている。


そのやりとりを、少し離れた場所から見ていたネリアが、静かに歩み寄ってくる。


「ゲイル閣下、およびアグニス隊長」

背筋を正し、淡々と告げた。

「状況から察するに、お迎えと拝察しますが──私は本任務終了後、別任務を抱えております。つきましては、ここで離脱させていただきます」


「了解した。任務ご苦労


ゲイルが敬礼を返す。


私たちも同じく敬礼し、軽く握手を交わしてネリアを見送った。


「さて、それでは皆様をお送りいたします。翼竜の背にどうぞ」

隊員に促され、それぞれ翼竜に乗り込む。


エリザが疲れきっていたため、私は彼女を前に置き、隊員を挟むようにして座った。

レオンと小荷物を抱えた別の隊員、そしてヴィクトリアはゲイルの背に乗り、

勢いよく翼竜が羽ばたき、空を駆ける。


遠くにはヴェルディア火山が見え、はるか北東には天に向かってそびえる巨木の一端が垣間見えた。

──レーヴェンの先にある、ヴァリエンス大森林の入り口だろう。

なかなか行く機会はないが、一度は訪れてみたい場所である。


日差しと、心地よい風が肌をかすめていく。


そのまま私たちは、砦への帰路についた。


 


翼竜部隊が飛び去っていくのを、森の陰からじっと見送っていたネリアは、全員の姿が見えなくなったことを確認すると、無言のまま歩を南へと進めた。


「……仲良しごっこが好きなやつらだ」


吐き捨てるように呟き、拳をギュッと握りしめる。

──ヴィクトリア。あなたは変わらない。

その言葉は、懐かしさではなく、暗い憎悪に近い響きを伴っていた。


先ほどまでと打って変わって、ネリアの顔から表情が消えていた。瞳の奥には鋭い光が宿り、肩に纏う空気までもが沈み込むように変質している。


彼女は道を外れ、木々の奥へと足早に進む。人気のない林の中で、おもむろに鞄を開き、羊皮紙を一枚取り出した。


そこに魔術陣を素早く描き、黒い組紐をその中心に置く。そして、自らの左手にナイフを当て、静かに切りつける。

滴り落ちた血を、魔術陣の縁に沿って丁寧に垂らしていきながら、低い声で呪詛の文言を唱え始めた。


羊皮紙は血に染まり、紫の光が走る。

組紐がその輝きを吸収すると、宙に黒い塊のようなものが現れ、やがて人の二倍はある巨大な狼の姿を形作っていく。


──先程アグニスたちが戦った異形と比べれば幾分小さいが、漂う気配には確かな類似があった。


「この子には、余計な“調律”をさせないように仕込んである……アグニスたちも気づかないはず」


囁くように呟いたネリアは、その背にのり、狼に命じる。


「……レーヴェンに行け」


次の瞬間、獣は大地を蹴り、跳躍する。

黒い影が森を裂くようにして走り去り、やがてレーヴェンの方角へと姿を消していった。


 





──レーヴェン公国。


西大陸北東に位置する小さな公国。

南西には帝国領、北西にはノルンダール領があり、東方には広大な森林地帯──ヴァリエンス大森林が広がっている。この地は、その森への“玄関口”として知られ、奥深さと神秘性ゆえに、数多の冒険者と詩人たちの憧れとなってきた。


国の規模は小さいが、歴史は深く、帝国よりも古くから存在している。

この地が戦火に巻き込まれることがなかったのは、ひとえに“隣人”──ヴァリエンス大森林が持つ、特殊な“防衛装置”のおかげだった。

一定以上の軍事勢力が森の中へ入ると、森林そのものが侵入を拒む──それがこの地の不文律である。


その庇護のもと、レーヴェンは軍備を持たずして繁栄してきた。


北海から中海へと流れる清流が国を縦断し、鳥はさえずり、風は音を運ぶ。

音楽、絵画、詩──この国の文化は、芸術こそが力であることを証明するように発展してきた。


またこの地は、東西の文化が交差する地点でもある。

西方では忌避される魔族や完全なる獣人たちも、ごく自然に街の中に溶け込んでいる。

彼らの存在が、街の色彩と多様性を豊かにしているのだった。


治安もまた極めて良く、大陸でも屈指の安全な都市と称されるこの地は、新婚旅行や観光地としても名高い。


──だが、どんな美しい場所にも、“見えない裏側”というものは存在する。


表通りの華やかさを抜けた先、人通りもまばらな裏路地。

さらにその奥、森の縁にある木造の古びた建物群──その一角に、探索ギルドがひっそりと居を構えていた。


そして今、その部屋の一室では──

アグニスたちと接触した男──ハニバルが、慌ただしく事務作業に追われていた。



机の上には、依頼書と報告書が山のように積まれている。

雑然とした紙束の中には、一般市民が持ち込んだ迷い猫探しの依頼書もあれば、明らかに“公的でない”任務内容も混ざっている。


彼のペン先は滑らかに走っていたが、目は笑っていなかった。

ときおり視線が走るのは、文の端に刻まれた見慣れぬ文様──それは魔族由来の古い印。

それに気づく者は少ない。だが、彼は気づかれることを前提に、わざと残している節すらあった。


部屋の奥、壁には地図が並ぶ。

国境の変化。消えた村の記録。

その一角には、ノルンダールの象徴と、もう一つ名もなき印が重ねて描かれていた。


いくつかの紙束には、赤い封蝋の痕がついている。

それはセイフォルトが使う私印──いや、かつて帝国貴族が裏で使っていた、禁忌の連絡手段だ。


「……さて、そろそろ来る頃か」


椅子の背にもたれかかり、ハニバルは満足げに書類を揃える。

その口元には、奇妙な笑みが浮かんでいた。


その時。


ドンッ!


激しい音とともに扉が開き、エルフのような容姿の女が飛び込んできた。


「貴様、どういうつもりだ!」


女──ネリアは左手でハニバルの胸元をつかみ上げ、首元に鋭いナイフを突きつけた。


「いやいや、ちょっと……ネリアさん。やめてくださいよ」

困惑しながら、ハニバルが答える。


だが、激昂したネリアは構わず続ける。


「なぜ貴様が、あの場で姿を現した!? お前の仕事は退路の監視だろうが!」


「もしあの時、気づかれて後を追われていたら、我らの計画は破綻していた! 探検崩れのろくでなしがッ!」


彼女は近くの椅子を蹴飛ばし、怒声を響かせた。


「……いやいや、ネリアさん。私たちの関係なんて、最近知り合って金で雇われただけの間柄でしょう? あんな小娘たちに私の本意なんて分かるわけが──」


そう言って、ハニバルはネリアの手をそっと払いのけた。


「それに、私はできそこないの探索者ですよ。あなた方だけの依頼じゃ足りないので、他の任務も兼ねてるんです」


「……まあ、それにしても、あなた方のことはよく存じておりますから。なにせ、あなたたちは──」


その瞬間、ネリアのナイフが、ハニバルの太ももにグサリと突き立てられた。


「その“名”を出した瞬間、貴様とその関係者すべてに災いが訪れると知れ。……これが、最後の警告だ」


ナイフを躊躇なく突き立て、後方へ下がると、ネリアは黒い組紐を手に言葉を紡ごうとする。


「いやいや、冗談じゃない、それはやめてくださいって! 本当に勘弁してください!」


平謝りするハニバルを見て、ネリアはようやく気が済んだのか、椅子に腰を下ろし話し始めた。


「アグニスを甘く見るな。あいつは“空気の流れ”を読む。

ヴィクトリア……あの観察眼は、わずかな違和感すら見逃さない。

そして、あの大男のレオン。あの距離なら、お前は一刀で斬られていた。

帽子の魔術士──精霊使いのあれは、どんなに距離が離れようと、“シルフ”の力で一瞬にして追いつく術を持っている」


「……侮るな」


ネリアの足元では、彼女の片足が小刻みに揺れていた。

本音では、今回の任務が限界ギリギリだったのだろう。


ようやくハニバルも危機を察したのか、大人しくなり、黙ってナイフを抜き、回復魔術をかけた。


「いいか。貴様は帝国に感知されぬよう、国境付近の調査を怠るな。……どうやら、ノルンダールとも繋がっているようだな?」


「……“あのエルフの屑ども”より、我らの方が遥かに恐ろしいということを、肝に銘じておけ」


吐き捨てるように言い残し、ネリアは静かに部屋を後にした。


──静寂。


騒動の余韻が消えたところで、奥から黒猫が「にゃにゃっ」と現れ、室内をのそのそと歩き回る。


一方、ナイフを刺されたハニバルは、後片付けをしながら、どこか満足げな笑みを浮かべていた。

負傷した太ももを撫でながら、遠くを見つめている──その目は、どこか愉悦に満ちていた。


探索ギルドを出たあと、ネリアは足早にレーヴェンの郊外へ向かった。

──この街には人族だけでなく、あの忌まわしきエルフどもも多数暮らしている。


耳障りなアールヴ語の響き。

取り澄ました顔で、優雅に歩くその姿。


こちらはフードを深く被っているため、相手から認識されることはない。

それでも──同じ空気を吸っているだけで、吐き気がするほどの嫌悪感がこみ上げてくる。


挙げ句の果てには、やつらの主食である“香草パン”の匂いが、音楽とともに街中に拡散されている気がしてならない。


……くだらない。


一刻も早く状況を報告しなければならない。


ネリアは歩幅をさらに広げ、誰にも気づかれぬまま、南西の森へと姿を消した。

 


一方その頃、アグニスたちは砦へ無事に帰還し、任務報告を終えたことで、しばしの休暇を与えられていた。


その背後では、帝国の衛星国サーヴァント王国と、隣接するパルダミオンとの間で緊張が高まりつつあり、国境の小競り合いは本格衝突の様相を見せ始めていた。帝国は早急に現地調査を行う方針を固め、アグニスたちにも新たな辞令が下る。


調査部隊の一員として任命された彼らは、そのまま翼竜部隊と共に任務地へと向かい、現地での偵察と短期休養を兼ねた行動を開始するのだった。


砦での休養も束の間、私たちには新たな辞令が届いていた。


北方国境──サーヴァント王国とパルダミオンの接する紛争地帯。

今はまだ小競り合いの域に留まっているが、火種は静かに燃えている。

帝国は衛星国サーヴァントの安定を保つべく、先行調査部隊の派遣を決定した。


その任務に、アグニス小隊が選ばれた。


「ただの調査」と通達はあったが、その言葉を、誰も素直に受け取ってはいなかった。


──風が違う。

空の匂いが、ほんのわずかに変わっていた。


アグニスはそれを察していた。ヴィクトリアも、レオンも、エリザも。

言葉にはせずとも、全員が何かを感じ取っていた。


翼竜が北の空へと羽ばたく。


眼下に広がる森と平原の向こうに、乾いた風が吹いていた。

……その風の先に、何が待つのか。

それはまだ、誰にもわからない。


だが──確かに、何かが、始まろうとしている。



「──というのが、私の初陣のときの話だ」


馬車の中、揺れる灯火が静かに影を落とす。


エルマーはじっと前を見つめ、黙っていた。

その瞳の奥に、わずかだが、敬意と焦燥が入り混じっている。


「……やはり、閣下は特別な方ですね」


「特別ではないよ。ただ、背負わされただけだ」


アグニスは肩をすくめ、窓の外へと目をやる。


──その後の、あの任務の時だったか。

エリーナと出会ったのは。


あのとき、焼け落ちた街の片隅で、瓦礫の中の地下から手を伸ばしていた、

怯えて、それでも誰かを探しているようだった瞳。


……あれから、もう五年。


ふっと口元を緩める。

先ほど、屋敷で別れた彼女の姿が脳裏に浮かんでいた。


「今日もちゃんと、朝には起きて、支度を整えていたな」


誰に言うでもなく、アグニスは小さく呟いた。


エルマーが不思議そうにこちらを見るが、彼女は続けなかった。

ただ、手元のマントを直し、再び窓の外へと視線を投げた。

風が、遠い地から何かを運んでくる。


──あの子もまた、この先の運命と交わっていくのだろう。

それが、どんな形であれ。


そう、アグニスは確信していた。


──風が変わった。


乾いた山風から、どこか湿り気を帯びた空気へと変わりつつある。

雲の輪郭が和らぎ、遠くの稜線に霞がかかる。

森が深くなり、草の色も微かに濃くなる。


馬車の車輪がごとりと音を立て、路面がわずかに滑らかになる。


「……もう、ルミナスの領内か」


アグニスが呟くと、御者が前方から軽く手を挙げて答える。

視界の先には、街道を挟むように立つ白石の標柱と、穏やかな曲線を描く防壁の影が見えてきていた。


――境界を越えたのだ。


ルミナス。帝都の中心にして、知と律の交わる場所。

アグニスたちの次なる任務も、きっとここから動き出すことになるだろう。


静かに目を閉じ、深く息を吐いた。

それは、どこか懐かしい空気に触れたような感覚だった。


(……これもまた、一つの転機になるだろう)


そして、物語は静かに──次の幕へと向かっていく。




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