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一章第六節・《沈黙の森にて ― 揺らぎの胎動と、断罪の気配》






夜明けとともに、世界はまだ深い静寂に包まれていた。

その静けさのなか、わたしたちは、そっと歩みを始める。


寝床の扉を開けると、澄んだ朝の肌寒い気配が肌を撫でた。

昨夜、温かな食事を摂れたこと。早く眠れたこと。

そんな小さな恵みが、胸の中の小さな灯となり、今日のわたしたちを支えてくれている。


気力が満ちているせいか身体は軽く、心は研ぎ澄まされていた。


レオン、エリザ、ヴィクトリア。

そして、先日出会ったネリアも──

大切な仲間たちの誰ひとり、欠けることなく帰れるように。


無意識に、拳を握り掲げていた。

ほかの三人も静かに応え、ネリアも一瞬の戸惑いの後、それに倣った。


言葉はなくとも、通じ合っていた。

わたしたちだけの、小さな誓いのかたち。


そっと、音を立てずに拳を合わせる。


後方のざわめきが気になり──ふと、砦の奥に目をやると。


カロスが、こちらに静かに敬礼を捧げていた。

その背後には、整然と並ぶ兵たちが、黙して見送っている。

無言の敬意に、わたしたちもまた、一礼をもって応えた。


誰ひとり声を発さず、ただ想いだけが交差していく。


砦の分厚い扉をくぐり、一歩前に出る。

──この先に待つ、まだ見ぬ試練へ向かって。


分厚い扉が背後で静かに閉じられた。

ガチャンと鳴る施錠のその音が、ひとつの区切りのように響く。


砦を出ると、外は一面の朝霧に包まれていた。

歩を進めるにつれ、霧は少しずつ薄れ、やがて見晴らしのきく尾根道へと出る。


その先、森のふもとには小さな集落が広がっていた。

屋根は瓦でも板でもなく、薄い石を幾重にも重ねた平たい造り。

地を這うように低く構えた家々は、森の息づかいに合わせるように並んでいる。

壁には温かな赤土が塗られ、どの家も落ち着いた色合いで統一されていた。

飾り気はないが、どこか磨かれたような均整を保っている


風景に溶け込むその集落からは、不思議と“古さ”が感じられた。

時代に流されず、ゆっくりと積み重ねられてきた何か──

そういうものが、空気の底に澱のように漂っている。


「……砦に向かう途中で寄った村も、こんな感じだったな」

誰ともなく漏れたひと言に、数人が頷いた。


確かに、あの村でも祭壇の形や挨拶の所作に、見慣れぬ作法が混じっていた。

それは決して粗野ではなく、むしろ洗練された何かだった。

けれど──ほんの少しだけ、“馴染まない”感覚が残っている。


眼下の村には人の姿はなく、炊煙も上がっていない。

すでに避難が済んでいるのだろう。

だがその静けさは、どこか“最初から人がいなかった”かのような、奇妙な整い方をしていた。


それから数刻ほど歩き、森がいよいよ深くなってきた頃、

レオンが、ぼそっと口を開いた。


「虫が多くてさ、せっかくのいい男が台無しだな」


手で袖を払いながら、軽くぼやく。

それでも足取りは迷いなく、しっかりと先頭を進んでいた。

誰よりも前に立ち、皆を守ろうとする覚悟が、その背中ににじんでいる。


「黙ってさえいれば、ね」

ヴィクトリアがさらりと返し、肩をすくめるように微笑んだ。

いつものように、レオンの冗談を軽くいなす、穏やかなやり取りだった。


その後ろでは、エリザが静かに歩いていた。

体力が少ない彼女には、長距離の移動はこたえる。

本来なら精霊シルフの力で補助できるが、今は無駄な消耗は避けたい。


私はそっと彼女の手を取り、歩調を合わせた。

冷えた指先に、かすかに力が戻るのを感じる。


ふと耳を澄ませば、背後でヴィクトリアがネリアと何か言葉を交わしているのが聞こえた。

声は低く穏やかで──けれど、どこか微かな警戒がにじんでいた。


さらに数刻ほど進むと、道がふいに開けた。

頭上の枝葉が途切れ、ひらけた空がのぞく。


「小休止を提案します。ここから先は道がさらに険しくなります。……この場所は安全です。偵察済みですから」


ネリアが控えめながらも、自信を帯びた声音で告げた。


ヴィクトリアが、ちらりと彼女に視線を向ける。

その表情には、僅かな懐かしさと、確かめるような気配が混じっていた。


「……昔より、少し逞しくなったわね」


ネリアは微笑み、胸に手を当てて礼を示す。

「ありがとうございます。……ご安心ください。」


「そう、信じてるわ」

ヴィクトリアは小さく頷き、静かに背を向けた。

その動きには、厳しさの奥に潜む確かな信頼が感じられた。


皆、訓練で鍛えた体力があるとはいえ、自然の中を進む旅路は想像以上に消耗する。

根の張る道、苔むした段差、傾いた斜面──足元は常に不安定で、気を抜けば転びかねない。


ふと隣を見ると、エリザが黙り込んでいた。

まぶたが重く揺れ、夢の中を彷徨っているような表情。限界が近いのだろう。


私たちは木陰に腰を下ろし、それぞれの方法で静かに息を整えはじめた。


そのとき──草むらの奥で、ガサ、と音がした。

風か小動物か。それでも空気がわずかに張り詰める。


──ガサ、と草むらが揺れた。


瞬間、ネリアの呼吸が変わった。

音よりも先に気配を捉えたかのように、彼女の手が迷いなく小弓へ伸びる。

その動きはあまりにも滑らかで、まるで何度も繰り返された訓練のようだった。


私はひとつ手を上げ、視線だけで制止の意を示す。



ネリアの瞳がこちらに向く。

ほんの刹那の静寂──そして、小弓が静かに下ろされた。


「……申し訳ありません、アグニス様。少し、緊張しすぎてしまいました」


いつもより硬い声音。

その背筋の張り方に、“森に敏い”というだけでは片づけられない何かが滲んでいた。


そう言って、小さく息を吐きながら語った

その声音には、自らを戒めるような硬さがあった。


「私にはエルフの血が流れています。森の気配には敏感なはずなのですが……この場所では、逆に過敏になりすぎてしまって」


そっと頬を撫でる風が枝葉を揺らし、そのざわめきの中にネリアの声も静かに紛れていった。

その瞳の奥には、言葉にならぬ想いが宿っている。

私はただ、その揺らぎを受け止めるように静かに頷いた


──ネリアは、エルフと人族の混血だ。

その立場のせいか、純血のエルフが多く住む集落では、能力についても偏見を向けられるという。


私たちの領地ではそうした差別は少ないが、それでも彼女が自身の感覚に不安を抱くのは、無理のないことだろう。


「……そういうことも、あるもんだぜ。なあ、アグニス?」


レオンの声が、不意に空気を和らげた。

冗談めいた口調のなかに、ネリアへのさりげない気遣いがにじんでいる。

場の空気が少し和み、


その言葉に、私はまた笑って応えた。

ヴィクトリアも、もまた、静かに目を細めていた。


──無理もない。


 ネリアの反応が過敏に見えたとしても、彼女だけが特別なわけではない。

 当の私たちもまた、戦闘経験はあれど、本格的な危険地帯での任務は初めてだ。

 張り詰めた緊張は、誰の中にもある。


 彼女が感じ取った“気配”が本物である可能性もある。

 けれど、だからこそ──私たちは互いに、こうして補い合う必要があるのだ。


 ちらりと視線を横にやれば、エリザはヴィクトリアの膝にもたれ、静かに眠りかけていた。

 ヴィクトリアがそっと回復術式を施しながら、彼女の呼吸を整えている。


 ──今は、少しでも力を温存すべきだ。


 私は小声で「もう少し休もう」と提案し、携帯鞄から行動食を取り出す。


 塩漬け肉の簡素な味が、疲れた体にじんわりと熱を戻してくれた。行動食の味気ない食事でも少しでも満たされていると気持ちの持ちようも大分違うからだ。


 

空は、まだ静かに青く澄んでいる。


 だが、足元の大地には、微かな“ゆらぎ”が、確かに滲み始めていた。


「そろそろ、出発しようか」

 私は腰を上げ、周囲に声をかける。


 エリザは本調子とは言えないが──

 いざとなれば、私かレオンが背負えばいい。彼女ひとり分の体重なら、訓練時の軍需物資と大差はない。


 レオンは騎士ゆえ、純粋な筋力と体力に優れている。

 そして、私もまた、少しだけ特別な身体を持っている。


 ──元素の揺らぎを感知する体質。

 その影響から、微量の元素を取り込み、肉体を“内側から”強化することができる。

 成人男性の標準的な筋力や反応速度を、大きく上回る身体能力を一時的に引き出すことができるが、その分、消耗も激しい。

 それでも、戦場においては大きな力となる。


 最も能力を発揮できるのは、ヴェルディア山脈が見える地域だ。


この森では、今のところ目立った異常もない。

 草を踏み分け、獣道をひたすら進む。

 ときおり、小動物の気配が茂みを横切るだけで、平穏そのものだった。


しばらく、誰も言葉を発さなかった。

獣道を進む足音だけが、土と草を踏みしめていく。


そのとき──隣を歩いていたネリアの足が、わずかに緩んだ。

森を見渡し、耳を澄ませる彼女の横顔に、微かな緊張が浮かぶ。


「……皆様、お気づきですか?」


彼女の静かな声に、私たちは足を止めた。

風が抜ける音だけが、やけに大きく響く。


「どうしたの、ネリア?」


ヴィクトリアが問い返す。


「……虫の羽音が、しません。獣の匂いも……気配が、薄い。まるで、森の命が沈黙しているようで……」


私は眉を寄せ、耳を澄ます。

──確かに、森の音が、ない。


「静かすぎる……」

誰ともなくつぶやいた言葉に、空気がさらに冷える。


ヴィクトリアが周囲に目を配りながら、小さく頷いた。


「生態系全体の沈黙……これは自然な状態ではないわね。何かが、この森を“押さえつけている”」


その言葉に、私たちは自然と足を止め、耳を澄ませる。

──確かに。生命の“声”が、ない。


ここに「いるはず」の音が、まるで抜け落ちている。


なぜ今まで気づかなかったのか。

無意識に、それを“異常”と認めることを避けていたのかもしれない。


「……虫がうるさいって、レオンが言ってたのに」


エリザがぼそりと呟き、レオンも怪訝な顔をして、自分の袖を払いながら腕を見る。


「うわ」


その声と共に、私たちの視線が彼の腕に集まった。


黒い靄のようなものが、皮膚の表面をかすめるように漂っている。

それは煙のように揺らぎながらも、確かな存在感を放ち、何かを“残している”ようだった。


だが、それだけではない。


その周囲──腕の周りの空間が、わずかに揺れていた。

熱でも風でもない、目には見えない“何か”が、そこに波紋のような歪みを生んでいる。


──空気がずれている。


靄の中心から、元素が微かに脈動し、まるで透明な水面が打たれたように周囲へと広がっていく。

異常な“ゆらぎ”が、空間そのものを揺らしていた。


私はすぐに察する。これは自然ではない。

存在の名残──あるいは、狩人の印。

昔、資料室で見かけた、イシュマール家の者たちが用いていたとされている探知術式に、よく似た魔術的気配を感じさせる。


その痕跡が、私たちに“発見された”という印でもあるのなら──


「散開! 警戒態勢!」


即座に命じると、仲間たちは訓練通りに流れるように陣形を整えた。


レオンが前衛。そのすぐ後ろに私。

ヴィクトリアとエリザは中央に寄せ、ネリアは後方へ下がり、小弓を構えて周囲に目を配る。

視線の先で、風が凪ぐように空気が止まり、何かの“視線”が、こちらを注いでいる気配があった。


「……何かが、来る」


ネリアの声が、かすかに震える。


──揺らぎが、変わった。


拡散していた不穏な気配が、今は一定のリズムを持って、こちらへ押し寄せてくる。

まるで、目標を定めたかのように。


剣を抜き、レオンは大斧を握り締める。

ヴィクトリアは静かに補助魔法を紡ぎ、エリザは微精霊を呼び寄せて、周囲に淡い光を灯す。


風が、葉を揺らす。

その向こう、茂みの陰に──


「……いる」


誰が言ったわけでもない。

けれど全員が、確かにそれを感じ取っていた。


──異形の“何か”が、こちらを見据えている。


足音を殺し、私たちはそこに踏み込んだ。



高く生い茂る林の先──

それは、赤みがかった空を背に、まるで炎を纏っているかのように佇んでいた。


私の目に、はっきりと映る。


身の丈は十五尺ほど。

黒い靄がその身を覆い、輪郭すら曖昧な影。

だが、頭部に宿る鋭い双眸だけは、確かにこちらを睨み据えていた。

首元には、鎖のようなものが垂れ下がっている。


元素の揺らぎも、そいつの周囲だけが妙な律動を描いていた。

魔獣にも幻獣にも似た風貌──けれど、それらとは異なる“意図”が、確かにあった。


その瞬間、背筋を氷の刃でなぞられたような寒気が走る。

胸の奥にざらりとした嫌悪感が渦巻き、喉の奥にかすかな吐き気がこみあげる。

──この気配、どこかで……


─その時だった。


左手側から、空気を押し潰すような圧が走る。


咄嗟にレオンが踏み出し、大斧で直撃を受け止めた。

重い衝撃が全身を打ち、彼の体躯が大きく揺れる。片膝をつきながらも、姿勢は崩さない。


即座に、私がレオンの前へと飛び出す。

剣を構え、全身で次の一撃に備える。


その間隙を縫うように、ヴィクトリアがレオンに駆け寄り、回復術式を紡いだ。


ネリアは素早く弓を引き絞り、矢を雨のように放って陽動を仕掛ける。

後方ではエリザが微精霊を召喚し、シルフの風で全員に防御の加護を張る。


相手との距離は、わずか五メートル。

私は右足で地を蹴り、そのまま一気に切り込んだ。


エリザがそれを見越して、背後からシルフの風圧を送る。

加速する勢いをそのままに、私は体を捻って敵の攻撃を躱し──

その刹那、柄を握り締め、元素を手繰り寄せた。


「宿れ、焔」


柄に編み込まれた制御式が薄く光り、

周囲の炎の元素が一気に刀身へと流れ込む。

鍔を通じて、刃が真っ赤な炎を纏い、唸りを上げる。


炎を纏わせた剣で、私は下から敵の腕を一閃した。


振り上げた剣は、ただの斬撃ではない。

炎の意志を伴って、敵の身を深く抉る。


敵の身体が大きくうねり、咆哮が森を震わせた。


──だが。


炎は、一瞬燃え上がったかと思うと、すぐに掻き消えた。


(……あり得ない)


私の剣は、元素そのものを纏わせている。

払ったものがすぐに消えるなど、本来あり得ない。

それなのに──まるで何かに沿うように、炎は打ち消された。


その瞬間、胸の奥にひどく冷たい感覚が走る。

──私の力が、何かに“引き寄せられ”、

無理やり呑み込まれていくような、圧倒的な感覚。


これは、ただの魔獣や幻獣ではない。

まるで、私という“存在そのもの”を狙われているような、

言葉にできない不安が、全身を支配していく。


ヴィクトリアが、回復したレオンの背後へと移動し、

全員に継続回復の術式を展開する。

陣形を立て直しながら、落ち着いた動きで魔力の流れを整える。


ネリアは矢を連射しながら風の魔術を併用し、

高い枝へロープを飛ばして錯乱射撃に転じる。


後方、敵の視界の外で、エリザが杖を握りしめる。

口元から静かに紡がれる詠唱とともに、

周囲の元素がじわじわと紅に染まっていく。


杖の先端が、赤く、脈打つように光り始めた──その瞬間。


敵が、エリザの魔力に反応した。


猛烈な速さでこちらへと突進してくる。

黒い霧を纏った左腕が、唸りを上げながら振り下ろされた。


──速い……!


だが、レオンが飛び出し、大斧で真正面からそれを受け止めた。

私は、敵の側面を抜け、背後に回り込む。


ネリアの矢が、再び敵の注意を引きつけ──

私は剣に再び炎を纏わせ、敵の後脚を一閃する。


大きなうねりとともに、黒い靄が空気中に散らばった。


──その瞬間だった。


エリザの詠唱が、静かに、そして確かに終わる。


敵の上空──

赤く染まった空から、無数の炎のかたまりが降り注ぐ。

赤い尾を引きながら、流星のように──“それ”を焼き刻んだ。


刹那、化け物の背後──

黒い影が揺らめき、そして、掻き消えるように消えた。


……何かが、違う。


肌にひりつくような違和感が、さらに強く広がっていく。


その瞬間、敵の動きが、ぴたりと止まった。

一瞬、世界から音が消える。

私たちの乱れた呼吸だけが、静寂に溶けて響いていた。


私たちはゆっくりと陣形を戻し、体勢を立て直す。


化け物は、こちらを観察するような鋭い眼差しを向けたまま──

やがて、わずかに後退し、静かに踵を返す。


その動きはまるで機械的で、無駄のない、冷徹なものだった。

森の奥へ、炎のような残光をまといながら、闇へと溶けていく。


それに合わせるように、周囲の元素の流れも、

徐々に、かすかな律動を取り戻していった。


草木を覆っていた歪んだ揺らぎが、

ゆっくりと、本来の穏やかな鼓動へと還っていく。


私は、深く息をついた。


──撤退、か。


こちらの力量を見極めたのか。

あるいは、何か別の条件が満たされなかったのか。


その動きには、感情や焦りが一切感じられない。

まるで、私たちを認識することさえもなく、ただ静かに消えていった。


いずれにせよ、今は深入りすべきではない。

対処法すら定かでない以上、追うには危険すぎる。


私は視線を逸らさず、

その背が完全に暗闇へと消えるまで──ただ静かに見送った。

その残像が、胸の奥に、鈍く沈んでいくのを感じながら。


緊張の糸が、ふっと切れる。


その瞬間、膝から力が抜け、私は静かにその場にしゃがみこんだ。




「──アグニス!」


仲間たちの声が重なり、駆け寄る足音が草を踏む。


だが、私は片手を上げ、静かに応えた。

大丈夫。これはただ、力を使いすぎただけ。


──すぐに、立てる。


深く息を整えながら、少し震える指先を握りしめる。


「……いつも無理し過ぎよ」


ヴィクトリアがそう呟き、そっと手を差し伸べた。

その手の温もりを感じながら、私は心の中でそっと呟く。


──無理なんかじゃない。

──私は、二度と、大切なものを失わない。


揺れる視界の隅で、森の梢が静かに風に揺れていた。


先程まで満ちていた不穏な空気も、今はもう──ない。


けれど、消えた影の動き。

イシュマールに似た異質な魔術の痕跡。

自然の摂理とは異なる、歪な律動。


──これは、軍の任務では収まらない。

皇家として、きちんと調査すべき事案だ。


胸の奥に沈殿した嫌な予感は、静かに、しかし確実に広がっていく。


その異質さが、この先私たちにどんな影響を与えるのか。

それが何であれ──もう決して、無視してはいけない。




ふと視線を横にやると、エリザが草の上に静かに腰を下ろしていた。

杖を両手で抱えるように持ちながら、炎の名残が漂う空を、じっと見上げている。


さっきまで精霊を操り、あれほど強力な術式を放っていたとは思えないほど、

その横顔は、ただ静かで、どこか夢の中のような淡さを湛えていた。


──戦闘のたびに思う。

エリザには、驚かされるばかりだ。


異なる属性の微精霊を二体も契約し、

風の補助魔術と、炎の中級魔術の二系統を自在に使いこなす。

しかも、状況に応じた最適な援護を即座に挟める。

──まさに、天才としか言いようがない。


レオンもまた、巨躯に似合わぬ柔軟さで、

状況に応じた誘導と制圧を絶妙にこなしてくれた。


ヴィクトリアは、指揮官として彼らを配置し、

回復魔術で部隊全体を支える。


そしてネリアは、初の実戦にもかかわらず、

彼女自身の特性を活かし、空気を読み、瞬時に最適な行動を選んだ。


──この組み合わせでなければ、

きっと、今回もまた、誰かが倒れていたかもしれない。


静かに、そう確信する。

でも、その確信の裏にあるのは、少しの恐れだ。


これほど強い仲間たちがいるからこそ、私は戦いに臨む覚悟を持てる。

でも、もし彼らが倒れたら――その時、私はどうなるだろうか。

その不安が、胸の奥にわずかにひりついている。


私は、仲間たちに小さく笑みを向けた。


周囲の空気が、ようやく静けさを取り戻していた。

激しい戦闘の名残はすでに遠く、残るのは──深い森の中に吹き抜ける、ひやりとした風の音だけだ。


枝葉の間から差し込む光が、葉をゆっくりと揺らし、

木々の影が地面に揺れるたび、空気はまた少しずつ、平穏へと還っていく。


疲れきった体を休めるため、私たちは足を止めた。


エリザは少し体を横たえ、ヴィクトリアがそっとその肩に手を添える。

レオンは背を木に預け、手にした大斧を黙って見つめていた。

ネリアも、いまだ視線は鋭いままだったが、その表情には、わずかに緊張のほぐれが見える。


風は、再び森の奥へと流れていく。

言葉は少なかったが、その沈黙こそが──私たちの安堵と疲労を物語っていた。


けれど、ふとした瞬間。

その沈黙の中に、どこか違和感が混じっているのを感じた。

静けさの奥に、何かが欠けているような……説明のつかない、不自然な空白。

それはまるで、“ここにいてはいけない”という無言の警告のようだった。


気のせいか、胸の内に冷たい何かがじわじわと広がっていく。

それが疲労によるものなのか、それとも──

名残のように、何かがまだ、この場に残っているのか。


私たちは、それぞれに体を休めながら、

深く静かに、次の言葉を探していた。


休憩を挟み、装備を点検し、出立の準備を整えていた──その時だった。


「……待って。誰かいるよ」


エリザが小さく呟き、視線の先を指し示す。


──そこには、確かに、人影があった。


「何者だ。こちらに出てこい!」


レオンがはっきりとした声で叫ぶ。

その声に応えるように、相手は両手を挙げながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。


敵意のない意思表示。──だが、油断はできない。


その動きは妙に滑らかで、計算されているような冷静さを感じさせた。

私は剣に手をかけ、警戒を解かないまま、その男を見据える。


現れたのは、身なりの乱れた中年の男。

装備は粗末で、旅人のような印象を与える──だが、その目は鋭かった。

ただの通りすがりとは思えない。


「……何者だ?」


ヴィクトリアが冷静に問いかける。

その目は相手の表情と周囲の気配を鋭く観察していた。


男は立ち止まり、頭をかいて苦笑を浮かべる。


「すみません、驚かせてしまって。私は……」


その瞬間、風がふいに強まり、男の周囲の草木がざわめいた。


──何か、違う。


ほんの一瞬。

空気の“膜”のようなものが揺らぎ、私の本能が反応する。

全身の感覚が、あの黒い異形と同じような“どこかの歪み”を思い出させていた。


私は剣から手を離さず、わずかに息を止める。


──この男には、隠された意図がある。

ただの迷い人ではない。

どこかの勢力か、それとも、あの“黒い気配”の別の派生か。


男は再び笑いながら、今度はやや調子を戻して口を開いた。


「……ちょっと待ってくださいよ」


話し方の端々に、レーヴェン訛りの強いグランディス語が混ざる。

おそらく、レーヴェン周辺の出身だろう。


「今、エレンデル商会とノルンダール商会の間で取り合いが起きてましてね。

この地域の流通がぱったり止まっちまったんです。

仕入れ先も原因がわからないと、どうにもならないってことで……」


彼は肩をすくめ、少し大げさに手を広げて見せる。


「──で、探索ギルドから依頼を受けて、調査に来ただけの……ただのしがない探索者ですよ、私は」


気軽な調子で笑ってみせるその姿には、妙な余裕があった。


──だが。


その態度には、作り物めいた“何か”があった。

たとえるなら、芝居じみた動き──

肩の力を抜きすぎたような歩幅と、妙に間の空いた瞬き。

表情は過剰に抑えられ、言葉とは裏腹に、何かを隠している気配があった。


なにより、帝国の警戒地域。

ここまで踏み込んでくること自体が、尋常ではない。


「この周辺は軍の命令により、立ち入り禁止区域となっている。

規定により、進入者には身分証の提示が求められる」


私は一歩、静かに前へ出ながら問いかける。


「──証明できるものを持っているか?」


誰一人、隙は見せない。

相手に明確な敵意は感じられない。

それでも、警戒は崩さない。


静かに、しかし確かに、周囲の空気は張り詰めていた。


男は、やれやれといった様子で腰袋から小さな銀板を取り出した。


「レーヴェンにある探索ギルド所属──ハニバル、と申します」


探索ギルド。聞き慣れない単語に、私は思わず眉をひそめる。


──レーヴェンは芸術と自由の街。

そこに“探索ギルド”などという組織があるとは、正直、聞いたことがない。


私が疑問を口にしかけたその時、ネリアがわずかに視線を逸らしながら口を開いた。


「ありますよ。たしか迷宮探索系とは別系統で、地域調査に特化したギルドが。……帝国内ではその多くを軍が担っているため、あまり知られていないのかもしれません」


一拍の間と、その口調。

答えるまでの“間”が、どこか……予習した知識をなぞっているように聞こえた。


「そうか……ありがとう、ネリア」


視線を男から外さず、私は静かに問いを重ねる。


「──調査部の目から見て。この男は、どう映る?」


ネリアは一度、まっすぐ男を見つめたあと、呼吸を整え、淡々と告げた。


「提示された身分証は本物です。……偽造の鑑定まではできませんが、少なくとも、偽りを語っているようには見えません」


「受け答えに不自然な点はありません。現時点では、拘束の必要はないかと」


その声は平静そのものだった。

けれど、ごくわずかに、目の奥が揺れていた。


──私は、その微細な動きを、見逃さなかった。

まるで彼女の中で、何かがせめぎ合っているような──そんな気配を。

そのとき、隣で沈黙を守っていたヴィクトリアが、わずかに目を細めた。

ふだんの柔らかな眼差しとは異なる、それは──

状況を冷静に切り分け、観察し、記憶に焼き付けるときの“分析官”の目だった。


彼女は何も言わない。

けれど、何かを測っている。

まるで、後に“事後報告書”を書くつもりで、目の前の会話と沈黙を記録しているような──

そんな目だった。

疑わしい男ではあるが、確証もない以上、無駄に時を費やすよりも──

先ほどの戦闘による消耗も激しい。ここは速やかに処理するべきと判断した。


私は静かに頷き、口調をやや和らげて、男に告げる。


「──時間を取らせて、すまなかったな」


「この地域一帯は、帝国の警戒区域だ。

しばらくは同様の体制が続くだろう。……次はない。理解してもらえるな?」


ハニバルは、苦笑いを浮かべ、肩をすくめて見せた。


「ええ、もちろん。……貴族様にこれ以上迷惑をかける趣味はありませんので」


そう言って、軽く頭を下げると、背を向け──森の奥へと、ゆっくりと去っていった。


その背を見送りながら、私はふと、気配を探る。


──完全に背を見せていながら、隙を与えない。


単なる探索者にしては、やはり違和感がある。

だが今この場で拘束しても、得られるものは少ないだろう。


風が、ざわりと草葉を揺らす。


「……なんだか、不思議な人だったね」


ぽつりと、エリザが呟く。


「あのおっさん、強いぜ」

レオンが、森の奥を見ながら言葉を続けた。


「脅かすつもりで斧を構えたら──こっちの気配に、一瞬で気づきやがった」


「……あんなふうに、無防備なふりをしながら、

いつでも対応できる間合いを取ってる人。そう多くはないわ」


ヴィクトリアも、低く呟く。


私も、言葉にはしなかったが、同じ印象を抱いていた。


どこか、掴みどころがない。

まるで靄に包まれたような、実体の曖昧な存在感。


警戒すべきか、関わるべきか。

答えは、まだ出ない。


ただ──


「……油断は、できないね」


小さく呟いて、私は仲間たちに目配せを送る。


休息は十分だ。

これ以上、この森に留まるのも、得策ではない。


「出発しよう」


かすかな風に吹かれながら、私たちは再び、砦への帰路についた。


──夜明けの静寂は、まだどこかに、尾を引いていた。


その静けさの向こう、誰にも気づかれぬ森の奥で──

ひとつの足音が、葉を踏む音だけを残して、静かに遠ざかっていた。


「……危ない、危ない」


ハニバルは肩をすくめ、軽くつぶやいた。


あれがアグニス小隊か。

全員、なかなかの手練れだった。

あの隊長は特に……うん、できればもう関わりたくないタイプだ。


そして──


「あのエルフの姉さん、めっちゃ怒ってたな……怖いったらないよ」


苦笑を漏らしながら、彼は木立の影へと消えていく。


風が、彼の後ろ姿をなでるように吹き抜ける。


──森は再び、静寂の中へと沈んでいった。


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