一章第一節・黎明 灰より目覚めし者 1
金属がぶつかる音。
魔術が爆ぜ、焦げた元素の香りが漂う。
悲鳴と怒号──それらが、断続的に頭の奥で響く。
赤黒い岩肌に囲まれたその空間は、
まるで世界の裏側のように静かで、そして、狂っていた。
揺れる携帯魔導灯の光と、壁に張りついた蛍光虫の、かすかな輝き。
それ以外に、この場所を照らすものはなかった。
天井から滴る水音と、踏み抜いた水たまりの音──
そのすべてが、どこか遠く、歪んで響く。
その歪みは、空間全体にじわりと、濃く満ちていく。
おかしい。
光の届き方、空気の流れ、肌の感覚……
すべてが、ほんの少し“ずれて”いる。
自分だけが、この空間で“浮いて”いるような──そんな違和を、はっきりと感じていた。
「アグニス! お前たちは、今のうちに行け!」
兄の怒鳴り声が、わたしを現実へ引き戻す。
目の前には、黒い靄をまとった、輪郭の定まらない“何か”。
首元には、巨大な鎖のようなものが絡みつき、
その周囲には、黒い外套をまとった魔術士らしき影が、いくつも揺れていた。
その“何か”と対峙する兄の背が、次の瞬間、炎に包まれて見えた。
「兄様、……!」
その先の言葉を紡ぐ前に、
兄の怒声が、かぶせるように響いた。
「いいから行け! レオン、連れて帰れ! 絶対に──無事に帰せ!」
怒号とともに、肩が強く後ろに引かれる。
あちこちに、同級生たちが倒れていた。
護衛の騎士や魔術士も、誰もが動けずにいる。
咄嗟の出来事に、足が震え、硬直していた。
「くそっ……動けよ……!」
心の奥から湧き上がる恐怖と、自分自身への怒りが絡みつき、
身体が──足が、どうしても動かなかった。
そのとき、兄とのあいだにひとつの人影が割り込む。
突風が巻き起こり、私たちは一気に後方へと押し出された。
後ろを振り返った兄の横顔が、一瞬だけ、安堵に染まる。
──それが、最後に見た兄の表情だった。
突風を起こした人物──エリザは、その場に崩れ落ちていた。
おそらく、力を使い果たしたのだろう。
微精霊たちが、ふらふらと彼女の周囲を漂っている。
「……ぐずぐずしてる暇はない」
隣にいたヴィクトリアが、すぐにエリザへ回復魔法を施す。
そして、彼女を背負い、出口へと駆け出していった。
──そのとき、炎の揺らぎが大きくなり、洞窟の闇を赤く染めた。
そして、それは静かに、消えていった。
おそらく、兄が放った焔の術だろう。
世界が、ほんの一瞬だけ熱を帯びる。
空気が震え、視界が紅に染まる。
……そこから先のことは、覚えていない。
最初から、胸の奥に──微かな違和感があった。
けれど、それが破滅の兆しだったとは。
……私には、知る由もなかった。
兄も、仲間たちも、最善を尽くしていた。
私は、何もできなかった。──ただ、守られただけだった。
──ほんの少しでも、自分の感覚をもっと信じていたなら。
胸の奥が、きしむように痛んだ。
遠くから、ゆっくりと光が触れてくる。
じんわりと、その闇が──後退していく。
私は、かすかに瞬きをして、ゆっくりと目を開けた。
見慣れた天井が、ぼやけた視界の奥に浮かぶ。
寝室。朝の光。
けれど、心臓は妙に速く打ち、息が浅い。
何かを──見ていた気がする。
けれど、思い出せない。
ただ、胸の奥に重たいものだけが、確かに残っていた。
ふと、炎のあとに残るような──
懐かしくも曖昧な灰の匂いが、鼻をかすめる。
私は、無意識に、そっと拳を握った。
深く息を吸い、呼吸を整える。
「トントン」
扉越しに──乾いた木の音が、静かに響いた。
「おはようございます、アグニス様」
ロルフの声だ。
私たち兄妹にとって、彼は親代わりのような存在だった。
物心つく前から、ずっと、そばにいてくれた。
「本日は、ノルスティア家との会談がございます。
旧知の仲とはいえ、アグニス様は──当家の当主でいらっしゃいますから」
少し間を置いて、続ける。
「くれぐれも、二度寝などなさいませんように。
会談ですので、いつもの格好ではなく、正装でお臨みくださいませ」
それだけを告げ、足音も静かに──廊下の奥へと消えていった。
(……まったく。いつまで子ども扱いしてるつもりなんだか)
思わず、笑みがこぼれる。
その“いつも通り”が、なぜか心地よく、安心をくれた。