一章第5節・幕間《焼き菓子の記憶》」 《静かなる返礼、名もなき歩み》】
「エルマー、起きなさい。朝よ? いつまで寝てるの?」
開いた窓から、涼しげな風とともに──
階下から、いつもの声が、いつもの調子で響いてくる。
わたし――エルマー・ロジックは、帝国学院を卒業してからというもの、軍に志願することもなく、実家に戻って「家事手伝い」と称した気ままな生活を謳歌していた。
……とはいえ、さすがに三年も実家に居座っていれば、両親の目もだんだんと厳しくなってくる。
つい先日も、「商会の後継者として、そろそろ婿を迎えてはどうか」などという話を、わたしは偶然立ち聞きしてしまった。
これはまずい。そろそろ、自分のこれからの進路をはっきり決めなければならない。
帝国学院の卒業生のうち、およそ八割はそのまま帝国軍、あるいは皇家軍へと進む。将来を約束された士官課程もある。
けれど、わたしはというと──勉強が嫌いなわけではないが、暴力や争いがどうにも苦手だ。正直に言って、怖い。
コン、コン……。
ノックの音とともに、扉がそっと開く。
母が、何かを手にして入ってきた。
「ロルフ兄さん……いえ、ロルフおじさんから、あなたに託けがあるそうよ。ゆっくり読んで、あとで下に降りてきなさいね」
そう言って、便箋を手渡してくると、母は部屋を出ていった。
わたしはその便箋を手に取り、内容を確認する。
そこには、たった一行だけの言葉が書かれていた。
『アグニス様の副官になってくれ。よろしく頼む』
──それだけ。
でも、それを書いたのは、あのロルフおじさんだ。
ヴェルディア家の先代当主の親友にして、家の後見人。しかも本人もヴェルディア軍の幕僚として、アグニス様が正式に当主に就任されるまでの間、軍の司令官を務めていた人。
穏やかで無口で、でも何でもできる。
わたしの尊敬する叔父が、こんなにも率直なお願いをしてくるなんて。
しかも、その相手は──アグニス・ヴェルディア様。
現ヴェルディア家の当主にして、若くして皇家軍の司令官となった、みんなの憧れの先輩。数々の任務で実績を積み、帝国でも指折りの指導者として名高いお方。
……そんな人の副官に、わたしなんかが、本当に務まるのだろうか?
立ち上がって部屋の中を歩きながら、思案してみる。
けれど、まったく良い答えは浮かばなかった。
ヴェルディア家。
昔、叔父に会いにヴェルディア市を訪れたとき、たまたま街中で叔父と、そしてリュカ様に出会ったことがある。
緊張して、目も合わせられなかったわたしに、リュカ様はそっと焼き菓子を渡してくれて──
「君がエルマーか。ロルフから聞いてるよ。ぼくにも君と同じくらいの妹と弟がいるんだ。もし将来、学校で一緒になったら、友達になってあげて」
そう、優しく、屈託のない笑顔で微笑んでくれた。
アグニス様は学院の先輩だったけれど、いつも仲間に囲まれていて、みんなに慕われていた。だから、話しかける勇気なんて、わたしにはなかった。
弟のエリオット様も見かけたことはあるけれど、初対面で話しかけるなんて、できるはずもなく──結局、何の接点も持てなかった。
そしてリュカ様は、あの事故で──もう、お亡くなりになってしまった。
……あのときもらった焼き菓子のお返しを、まだしていなかったかもしれない。
胸の奥で、小さな“ピース”が──カチッと音を立てて、はまる感覚があった。
もしかしたら、婿を取らされるのが嫌で逃げているのかもしれない。
あるいは、叔父の頼みを断れなかっただけかもしれない。
アグニス様と、少しだけでも話してみたかったのかもしれない。
それとも、リュカ様への“返礼”をしたかったのかもしれない。
──理由は、よくわからない。
けれど、たしかに今、「この提案を受けよう」と決心したわたしがいる。
わたしに何ができるかなんて、わからない。
でも、一歩だけ。前に進んでみよう。
手紙を握りしめ、階段をぱたぱたと駆け下りていく。
奥のロビーでは、父と母が卓を囲んで、わたしの返事を待っていた。
凡人のわたしに、どこまでできるかわからない。
それでも、いつか──
リュカ様やアグニス様、ロルフおじさんのように、自信と優しさを持つ人になりたい。
なや
そう、心の中で静かに誓いながら──
わたしは、両親のもとへと歩いていった。
たな
卒業してから停滞していたわたしの人生が、ようやく、新たに動き出した朝の出来事だった。




