表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/24

一章第5節・幕間《焼き菓子の記憶》」 《静かなる返礼、名もなき歩み》】



「エルマー、起きなさい。朝よ? いつまで寝てるの?」


開いた窓から、涼しげな風とともに──

階下から、いつもの声が、いつもの調子で響いてくる。


わたし――エルマー・ロジックは、帝国学院を卒業してからというもの、軍に志願することもなく、実家に戻って「家事手伝い」と称した気ままな生活を謳歌していた。


……とはいえ、さすがに三年も実家に居座っていれば、両親の目もだんだんと厳しくなってくる。


つい先日も、「商会の後継者として、そろそろ婿を迎えてはどうか」などという話を、わたしは偶然立ち聞きしてしまった。


これはまずい。そろそろ、自分のこれからの進路をはっきり決めなければならない。


帝国学院の卒業生のうち、およそ八割はそのまま帝国軍、あるいは皇家軍へと進む。将来を約束された士官課程もある。


けれど、わたしはというと──勉強が嫌いなわけではないが、暴力や争いがどうにも苦手だ。正直に言って、怖い。


コン、コン……。

ノックの音とともに、扉がそっと開く。


母が、何かを手にして入ってきた。


「ロルフ兄さん……いえ、ロルフおじさんから、あなたに託けがあるそうよ。ゆっくり読んで、あとで下に降りてきなさいね」


そう言って、便箋を手渡してくると、母は部屋を出ていった。


わたしはその便箋を手に取り、内容を確認する。


そこには、たった一行だけの言葉が書かれていた。


『アグニス様の副官になってくれ。よろしく頼む』


──それだけ。


でも、それを書いたのは、あのロルフおじさんだ。


ヴェルディア家の先代当主の親友にして、家の後見人。しかも本人もヴェルディア軍の幕僚として、アグニス様が正式に当主に就任されるまでの間、軍の司令官を務めていた人。


穏やかで無口で、でも何でもできる。

わたしの尊敬する叔父が、こんなにも率直なお願いをしてくるなんて。


しかも、その相手は──アグニス・ヴェルディア様。


現ヴェルディア家の当主にして、若くして皇家軍の司令官となった、みんなの憧れの先輩。数々の任務で実績を積み、帝国でも指折りの指導者として名高いお方。


……そんな人の副官に、わたしなんかが、本当に務まるのだろうか?


立ち上がって部屋の中を歩きながら、思案してみる。

けれど、まったく良い答えは浮かばなかった。


ヴェルディア家。

昔、叔父に会いにヴェルディア市を訪れたとき、たまたま街中で叔父と、そしてリュカ様に出会ったことがある。


緊張して、目も合わせられなかったわたしに、リュカ様はそっと焼き菓子を渡してくれて──


「君がエルマーか。ロルフから聞いてるよ。ぼくにも君と同じくらいの妹と弟がいるんだ。もし将来、学校で一緒になったら、友達になってあげて」


そう、優しく、屈託のない笑顔で微笑んでくれた。


アグニス様は学院の先輩だったけれど、いつも仲間に囲まれていて、みんなに慕われていた。だから、話しかける勇気なんて、わたしにはなかった。


弟のエリオット様も見かけたことはあるけれど、初対面で話しかけるなんて、できるはずもなく──結局、何の接点も持てなかった。


そしてリュカ様は、あの事故で──もう、お亡くなりになってしまった。


……あのときもらった焼き菓子のお返しを、まだしていなかったかもしれない。


胸の奥で、小さな“ピース”が──カチッと音を立てて、はまる感覚があった。


もしかしたら、婿を取らされるのが嫌で逃げているのかもしれない。


あるいは、叔父の頼みを断れなかっただけかもしれない。


アグニス様と、少しだけでも話してみたかったのかもしれない。


それとも、リュカ様への“返礼”をしたかったのかもしれない。


──理由は、よくわからない。


けれど、たしかに今、「この提案を受けよう」と決心したわたしがいる。


わたしに何ができるかなんて、わからない。


でも、一歩だけ。前に進んでみよう。


手紙を握りしめ、階段をぱたぱたと駆け下りていく。


奥のロビーでは、父と母が卓を囲んで、わたしの返事を待っていた。


凡人のわたしに、どこまでできるかわからない。

それでも、いつか──

リュカ様やアグニス様、ロルフおじさんのように、自信と優しさを持つ人になりたい。

なや

そう、心の中で静かに誓いながら──


わたしは、両親のもとへと歩いていった。

たな

卒業してから停滞していたわたしの人生が、ようやく、新たに動き出した朝の出来事だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ