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一章第五節・燃ゆる盾「ノルビック防衛戦と若き軍の矜持」 



揺らぎの始まり


季節外れの雨が上がった朝。

濡れた赤土の匂いが、春のあたたかな空気と混ざり合い、静かに立ちのぼっていた。


会談という名の再会を終え、私は皇都ルミナスへ向けて馬車に乗り込む。

急な招集のため、馬車を乗り継ぎながらの強行軍となる。荷物も人も、必要最小限でいい。


見送りに並んだ人々が、視界の端で少しずつ遠ざかっていく。

軽く手を振ると、ロルフは深々と頭を下げ、エリーナは両手をめいっぱいに振っていた。

その姿が小さくなっていくたび、胸の奥にほんのりと寂しさが灯る。


いつからだろう。

こうした別れのたびに、ほんの少し胸が締めつけられるようになったのは。


思わず視線を落とし、両手を膝の上に重ねる。

馬車が揺れながら門を越え、濡れた林の道に入っていった。

雨上がりの木々が静かに揺れ、遠くの丘が陽に照らされて、緑の輪郭を柔らかく浮かび上がらせていた。


(どうか、この穏やかさが続いてくれればいいのだけれど)


ふとそんな願いが浮かぶ。それが“願い”である時点で、どこかで不安を感じている証なのだと気づく。

先ほどの話にあったような、近頃の騒ぎが――大きな流れにならないことを祈るばかりだ。


カーテンをそっとめくり、差し込む光に目を細めた。

南西の方角へ、翼竜の影がゆるやかに飛び去っていく。

ヴィクトリアとエリザは、あのあとセイファルト方面へと旅立ったのだ。


空路なら、私よりも早く目的地へ着くだろう。

──こんなとき、アスランがいてくれたなら、私も空を駆けられたのに。


アスラン。大型個体のヴェルディアの鷹。幼い頃に出会った、私の友だ。

かつて何度も彼の背にしがみつき、風を裂いて空を駆けた。

翼の鼓動が、今でも時おり、胸の奥で蘇る。


けれど今は、繁殖期。きっと巣で、雛たちの世話に追われているのだろう。

わかってはいるけれど、それでもやはり、あの背が恋しくなる。


少しだけ名残惜しく空を見上げたあと、意識を現実に戻す。

足元に置いた鞄に手を伸ばし、荷物の確認を始めた。

ふと、その奥に小さな袋が紛れ込んでいるのに気づく。


開いてみると、赤い石のネックレスと、短いメモが添えられていた。


「アグニス姉様 はやく帰ってきてね」


その文字を目にした瞬間、自然と笑みがこぼれた。


エリーナ。あの子は、私のことを姉のように慕ってくれている。

このネックレスも、かつて誕生日に贈ってくれたものだ。

私がいつもこれを身につけているのが嬉しいらしく、外すたびに、手間ひま惜しまず磨いてくれる。


そっとネックレスを手のひらに包み込む。

熱でも想いでもない、けれど確かに――あたたかな何かが、そっと胸に灯った。


小さく息をついて、袋に戻し、そっと鞄の奥へとしまい直す。



ちょうど、そのとき

空気の奥で、何かがわずかにずれる。


風の通り道が変わった。

熱が、ほんの一拍、皮膚を離れて――また戻ってくる。


こちらへ向かっている」

はっきりそうと断じられるほど、確かな揺らぎだった。


(……感じ慣れない。けれど、どこか、人の気配にも似ている)


風が揺れた、次の瞬間――


「アグニス様――お待ちください!」


声が届いたときには、もう距離はごく近かった。

私は窓を半ば開け、指揮棒を軽く突き出す。



「要件は? 所属を名乗れ」


馬車の進行を妨げぬよう、後方に並ぶよう促しつつ、冷静に動向を観察する。

隣に並ばれると、咄嗟の対処が難しくなる。


確かに、揺らいだのだ。

風、空気、熱――元素の層が、ほんのわずかに、けれど確かに乱れていた。


人には知覚しきれない、けれど私には分かる。

魔族のように元素そのものを操ることはできなくとも、ヴェルディア家に生まれた私は、“揺らぎ”を感じ取ることができる。


微細な風の変化、空気の密度、熱の偏り――

そのすべてが、まるで語りかけるように、変化の前触れを伝えてくる。


私はこの力で、幾度も奇襲を未然に防いできた。

今回も、その例外ではない。


わざわざ止まる必要もない。このまま進みながら、彼女の返答を待つ。



「はい、閣下。馬上より失礼いたします!」


騎乗のまま、彼女は背筋を伸ばし、軍規に従った礼儀で名乗る。


「このたび、閣下の副官に任じられました、エルマー・ロジックであります。

閣下のお噂は、帝国学校時代よりかねがね耳にしておりました! 出身はメナーフ! ロジック商会という商会の家系です!」



ロジック……?

過去に聞いたことがあるフレーズだった。


すぐには思い浮かばないので、その記憶を掘り起こすことにした。


以前、ロルフが「良いお茶を仕入れた」と振る舞ってくれた時、その流れで──

妹の嫁ぎ先が商会で、「メナーフの摘みたて一番茶」を送ってくれると話していた。

たしか、商会の名前は「ロジック」だったはず──となると……。


「貴君はロルフの姪か?」


「はい! 閣下! ロルフは私の叔父に当たります。叔父からも、アグニス様のお噂はたくさん伺っております! 私、頑張れます!」


歯切れの良い、勢いのある返答が馬車の窓越しに飛んできた。

その姿勢には不思議と嫌味がなく、むしろ真っ直ぐな気迫を感じさせる。


本来、副官は必要なかった。


事務はエリザが取りまとめ、私は要点を判断するだけ。雑務や指示はレオンが察して動いてくれる。

自然と役割が循環し、十分に機能していた。──


だが、それを承知のうえで、あえて姪を副官に任じた。

……つまり、これは“備え”。私ひとりでは立ち行かなくなる局面を見越しての判断なのだろう。


司令官ともなれば、本来は複数の副官を置くのが常である。

直属部隊に加え、三万に及ぶ皇家軍全体の指揮を担うには、それ相応の補佐体制がなければ到底務まらない。


それでも、私がこれまで一人で指揮できていたのには理由がある。


ひとつは、我らヴェルディアの民の特性。

代々《炎》に親しみ、共鳴性が高い。言葉にせずとも、熱の揺らぎで意志が伝わる。

──私たちには、それができる。


ノルスティアの空軍はヴィクトリアの管轄であり、何ら問題はない。

ヴェルディアが陸を、ノルスティアが空を担い、互いを補完し合う体制は、建国の祖たる兄弟から六百年にわたり受け継がれてきたものだ。


不自然な様子は見られなかったため、一度馬車を止めて迎えることにした。

コンコンと前方の壁を叩くと、御者はゆっくりと馬車を止めた。


エルマーは、先ほどの私の指示を察したのだろう。少し後方で馬を降り、こちらに向かって敬礼している。

御者を呼び寄せ、馬は馬車に繋がせた。エルマーには、馬車に乗り込むよう告げる。


「アグニス・ヴェルディアだ。よろしく頼む」


そう言って手を差し出し、軽く握手を交わす。


「何か、質問はあるか?」


エルマーが、ぴくりと肩を揺らした。

しばらく口を開けずにいたが、やがて小さく息を呑み、緊張を押し隠すようにして口を開いた。


「……正直、驚きました。帝国の、しかも皇家の御当主たるあなたが、護衛も連れずに単独で――それに、私のような新人を馬車にまで招き入れてくださるなんて……」


言葉は丁寧だったが、どこか肩に力が入っている。緊張しているのが見て取れた。


「私のそばには、普段はエリザとレオンがいる。だから、“単独”という印象を持つのも無理はないな」


私はふと視線を上げ、指先で前方の空を指し示す。

澄み渡る雨上がりの空に、翼竜が一頭、旋回しながらこちらの進行方向をなぞっていた。


「見ろ。あの翼竜は、ノルスティアからの哨戒隊の一騎だ。空から、常に私の進路を確認している」


続けて、左前方の林道――木の根元を指さす。

商人風の男が一人、馬を止めてこちらをじっと見つめている。


「あの男は、我が領内で許可を得た交易商だ。だが、同時に諜報部隊の一員でもある。その動きも、防衛隊にはすでに伝えてある」


「この土地は、“我が家”だ。空にも、陸にも、見ている目と耳がある。こうして馬車に揺られていられるのも、周囲の索敵と、何より――この地に生きる人々と、防衛隊を信頼しているからだ」


「……すごいです。本当に、“守られている”んですね。……誰もが」


エルマーは、言葉の重さを噛みしめるように、静かにうなずいた。


「守るべきものがあれば、当然のことだ。君も、いずれ“守る側”になる。――期待しているよ、副官殿」



私……こんなことを言うのは情けないのですが、実戦となると、あまり自信がなくて……」


視線を伏せ、言葉を選ぶようにエルマーは続けた。

「拝命できたことは本当に光栄です。でも、戦場でちゃんと務まるか、少し不安なんです」


物怖じせず、率直に思ったことを言える性格――さすがはロルフの姪。芯の通った印象を受ける。

だが、心なしか声が震えていた。無理もない事だ。


「……そう気負わなくていい」

私はゆっくりと首を横に振る。


「私も、戦うことが好きなわけじゃない。確かに“抗う力”は持っているが、初めて実戦に出たときは、私も仲間も皆、足が震えていたよ」


記憶の片隅に、あの時の光景がぼんやりとよみがえる。

「命を奪い合う場に立ち、自分の判断一つで誰かの生死が決まる……その恐ろしさは、誰でも一度は感じるものだ」


それでも、彼女の顔にはまだどこか不安の色が残っていた。


「ならば、私が軍に本格配属された時の話でもしようか」

そう言って、帽子を取り、喉元のボタンをひとつ外す。少しだけ服を緩めて、過去の記憶を引き寄せる準備をする。


「「閣下の初陣……もしかして、ノルビック防衛戦、ですか?」

先ほどまでの不安げな様子とは打って変わり、エルマーの瞳が好奇心に輝いた。


「――よく知っているな。そうだ」

私は頷く。

「あれは、国境沿いの砦で発生した魔獣の襲撃を防いだだけの、どこにでも起こり得る防衛戦さ。特別な武勲などではないよ」


その言葉が口をついて出た瞬間、無意識に目を閉じ、あの日の光景が脳裏に浮かんだ。






ノルビック地方は、ノルスティアとイシュマールの境界に位置している。

その地に築かれた砦は、ノルスティア側に設けられた巡回警備と領土検閲を兼ねた、小規模な前哨砦だ。


北東にはレーヴェン公国、北西にはノルンダール王朝の領域が広がっている。

ノルンダールのエルフが攻めてくることはないが、魔獣は自然と湧き上がる。

この境界地帯には、帝国のみならず他国でも、小規模な警戒所や砦が点在しているのが常だ。


薄く霧のかかったノルビック砦に足を踏み入れたのは、私たちが十八の時だった。

学院を卒業し、士官課程を修了した直後のことだ。


――私、エリザ、レオン、ヴィクトリアにとって、それが初の正式任務だった。


魔獣退治や小規模な迷宮探索の経験はあったが、

命令を受けて砦の防衛線に立つのは、これが初めてだった。


だからこそ、その朝。私たちは皆、息を潜めるようにして、同じ緊張の色を帯びていた。



私は、いつもより早めに目が覚めてしまったし、

エリザもどこか落ち着きがない。

ヴィクトリアは、珍しく髪が少し跳ねていて、きっと鏡の前で手間取ったのだろう。

そしてレオンは――うん、いつも通りだな。


護衛騎士の家柄で厳しく育てられているせいか、こういうときでも妙に度胸がある。

この状況で普段通りのやつなんて、こいつぐらいかもしれない。

……それが、逆に頼もしくもあるのだけれど。


レオンの父親は、私にとっても剣の師匠だった。

その指導は厳しかったが、今ではそれがありがたく思える。


私の両親は、私が物心つく前に事故で亡くなっている。

それ以来、ロルフと兄が私とエリオットの親代わりとして世話をしてくれた。


──何故か、昔のことがふいに思い出された。

この嫌な元素の感触が、そうさせたのだろう。


砦の長い廊下を歩く音が、やけに硬く響いていた。

その緊張を和らげようとしてか、レオンがいつもの軽口を投げてくる。


「……お嬢、ちょっとひびってる?」

「エリザ、帽子ずれてるぞ。震えてるって」

「ヴィクトリアもさ、喋ってないってことは緊張してんでしょ?」


いつもの調子――に見えるが、それは彼なりの空気の読み方でもあった。勿論ここにいる皆は承知済みの事でもある。


「うるさい、レオン。黙って」


エリザの切り返しは鋭い。

レオンは苦笑しながら、彼女の魔術帽のとんがり部分を指先でひねった。

トントントン……エリザの右足が細かく床を打つ。


――怒っている。

だが、レオンはすぐには止めない。


彼もまた、必死なのだろう。


いつもの“遊び”で緊張をほぐそうとしているのだ。

だが、当の本人にはその配慮は通じない。


「――熱っ!!」


突如、レオンが飛び上がる。

頭に熱湯を浴びせられたようなリアクションだ。


視線を上げれば、そこに浮かんでいたのは、小さな火の精――《サラマンデル》。

エリザが使役する、珍しい炎の小精霊だった。


どうやら、帽子のとんがりをひねられた報復に、頭上から“熱意”を注いでくれたらしい。


「あなたたち、そろそろお遊びは終わり。隊長室に入るわよ」

ヴィクトリアが、二人をなだめるように言った。


ふたりのやりとりに、思わず笑みがこぼれた。


──さて。


「行こう」


私は一歩、先に出た。

目の前の黒い扉を拳で、軽く叩いた。




「アグニス・ヴェルディア小隊、以下四名。ただいま着任いたしました。入室の許可を願います」


声が震えないよう、腹の底から吐き出す。

無駄に張り上げすぎないよう、慎重に。


――私は、芯の通った声でそう告げた。



「……入れ」

低く、野太い声が扉の奥から返ってくる。


その男は、漆黒を基調としたヴェルディア皇家の軍服に身を包んでいた。

静かな威厳を湛えるその装いには、胸元と袖口に深紅のラインが走り、

戦を司る者としての誇りと統率の印が刻まれている。


男は椅子から立ち上がり、ゆっくりとこちらに向き直った。


男は一歩前に進み、深く一礼した。


「アグニス様、ヴィクトリア様。お久しぶりでございます。レオン殿、エリザ殿も、いつもご苦労さまです」


階級が下の者に対しても丁寧に挨拶をするこの男――

彼の名はカロス。代々ヴェルディアに仕えてきた軍人一家・ジェラード家の出である。


その家系は、常に前線に立つことを誇りとする将軍の家柄。

よく戦い、よく食べ、よく休み、そして――よく眠る。

ヴェルディア軍人の鑑とも言える存在だ。


カロスはくるりと踵を返し、砦の小さな窓の外に視線を移す。


「――たとえ皇家の御当主であろうと、将来の大将であろうと、今この場において、軍での階級が私より下であるならば――部下として扱う。それがこの砦の規律です。例外はありません」


歴戦の勇士を思わせる、芯の通った声だった。

決して高圧的ではない。だが、静かに染み込むような威厳があった。


場の空気が静まり、緊張感がじわりと広がっていく。

アグニスたちもカロスとは旧知の間柄ではあるが、弁えた態度のまま黙して耳を傾けていた。


「本来、この砦は私の管轄ではない。だが、近隣一帯に元素の異常が感知され、

植物などの生態にも変化が現れ始めている。加えて、魔獣の脅威も通常より強まっているとの報告が届いた。


前任の隊長も優秀な男ではあるが――危機対応においては、私のほうが適任と判断された。

事態の収拾を命じられ、ここへ派遣されたというわけだ」


カロスの声は、静かに、だが明確に場を引き締める。


「君たちの隊長の特異体質――

その“揺らぎ”を読む感応力には、軍も高く注目している。

この任務において最も必要なのは、未然の察知と的確な判断力だ。

だからこそ、君ら小隊をここに派遣してもらった。

軍での初実戦となるだろうが、君たちには十分にその任に応えられる力があると、私は信じている。

……よろしく頼む」


カロスはそこで一度、目を細めて私たちの顔を見渡し、静かに言葉を続けた。


今回の任務には、もう一つ重要な存在がいる。彼女は、偵察部隊の精鋭であり、アグニス小隊のサポートを担当することになる」

卓の上にある小さなベルを鳴らすと、扉が開き、小柄な現地風の服を着た女性が入ってきた。


……そのとき、隣にいたヴィクトリアの視線が、ほんのわずかに揺れた。

すぐに何事もなかったかのように表情を戻したが、あの一瞬の間に、何かを思い出したようにも見えた。


「彼女の名はネリア・フレイン。君たちが必要とする情報を、迅速にそして正確に提供してくれるだろう」


「――以上だ」


静かにそう告げると、カロスは執務机へと視線を戻し、何事もなかったように書類に目を通し始めた。


必要最低限の言葉で滞りなく任務を受け渡すその姿には、余計な情がない。

だが、それは冷淡というのではなく、軍人としての熟達ゆえだと理解できた。有能な男である。


私たちは上官に敬礼を返し、隊長室をあとにした。



扉を出たところで、ネリアが静かに一礼し、簡潔に自己紹介を述べた。

その声は控えめながら、よく通る落ち着いた音色だった。硬質な砦の空気に馴染むようでいて、どこか異国の風をまとっているようにも感じられる。


歩きながら現地の状況についておおよその説明を受け、

私たちはまず荷物を兵舎へと運び入れた後、砦の食堂にて作戦会議を開くことにした。



食堂といっても、ここはあくまで軍事拠点。

それも国境警備を兼ねた、前線に近い要塞の内部施設だ。

雨風を凌げる最低限の造りに過ぎず、外壁や屋根は遠距離からの矢や魔術による奇襲を想定した配置になっている。


要塞内の各所には、簡易ながら防護結界用の魔術道具が設置されており、いざという時にはそれらが防壁として機能する仕組みだ。



ジャガイモを蒸した素朴な香りと、小麦の焼けた香ばしさが入り混じる食堂へ足を踏み入れる。

五人分の配給を受け取り、私たちはひとつのテーブルを囲んで腰を下ろした。


蒸した芋に、家畜の腸詰。

漬け込んだ野菜と、小麦を練ったパン。

いかにも質素な献立だが、味は悪くない。



軍における食事は、重要な息抜きのひとつだ。

補給の遅れは士気を削ぐ。それを防ぐために、私は代替わりした際、真っ先に兵站と補給の見直しをロルフに指示した。

それまでも大きな不満はなかったが、かつて配属前に口にした冷えた汁物は、どうにも気が滅入った。

どれほど優れた兵であっても、空腹と寒さでは力は出せない。


確かに、火を起こす手間は実戦下では難しいこともある。

だが、それでも――

見えないところで兵を支えること。それが指揮官の務めでもある。

きつい時ほど、美味い飯ひとつで、少しは気が紛れるものだから。


私は湯気の立つ芋を一口かじり、向かいに座るヴィクトリアへと視線を向けた。


「どう思う? ヴィクトリア。皇家筋から見た、この動き」


軍人ではなく、外交や内政の場を多く経験してきた彼女の見立てが、今は欲しかった。

ヴィクトリアは少しだけ考えるように目を伏せ、それから地図に指を置いて言った。


「うちは国境に隣接してるけど、表立った衝突はないわ。……でも、妙な噂はあるの」


「妙な?」


「領内の小さな村のいくつかで、聞いたことのない信仰が根付いてるって話。

エデリアやアルカデアでも土地神でもない、名前すら不明のもの。……出所もよくわかってないわ」


「悪霊とか?」


「悪霊? それは大変だ!」


エリザが身を乗り出してきた。

任務の危険を案じているわけではない。こういう話に彼女は目がないのだ。

……というわけで、ここは軽く受け流すに限る。


そのとき、不意にヴィクトリアの声が和らいだ。


「久しぶりね、ネリア。元気だったかしら?」


「はい。ヴィクトリア様もお変わりなく、嬉しいです」


二人は旧知の間柄らしい。

ネリアの髪の間から覗く耳は人族よりわずかに尖っており、翡翠色の瞳と、もう片方には藍が混ざる。

混血──エルフと人族の間に生まれたということか。


森や風との親和性に優れるエルフの血を引く彼女は、探索任務にはうってつけだろう。


その横で、いつもなら茶化してくるレオンが、やけに静かだった。

他人の目を気にする彼は、新顔が加わる場では黙りこくってしまう癖がある。

知らない人が見れば、物静かな騎士にでも見えるかもしれないが、私からすれば──あれは完全に“よそ行き”の顔だ。



「お前の見立てはどうなんだ、アグニス?」


真面目な目つきでレオンが問いかける。

皆の視線が集まるなか、私は静かに答えた。


「……状況だけを見れば、異常気象と、曖昧な噂、断片的な報告。全体としては、まだ“靄”の中にあるように思う。

だけど──どうにも、ひとつずつの違和感が、整理されすぎている気がするんだ」


テーブルの端を指先で軽く叩きながら、言葉を探す。


「たとえば、“揺らぎ”の質。自然界にあるはずの微細なズレやノイズ──そういうものが、どこか均されている。

あえて例えるなら、“人の手でならされた地面”みたいに、妙に整ってるんだ。……触れた跡とまでは言わないけど、“自然のまま”ではない」


少し間を置いて、壁の方へ視線を向ける。


「それと……もうひとつ。

元素の揺らぎとは別に、“魔獣的な気配”が、あまりに薄い。

本来なら、こういう場所には濁った魔素や獣臭のような残滓が少しは感じられるはずなのに、それすらもほとんどない」


再び皆に視線を戻す。


「もちろん、地域差で魔素の性質が変わることはある。でも、これはそういう自然な違いとは少し違う。

誰かが“何かを消した”のか、あるいは……“何かが潜んでいる”。

そんな、意図のようなものが感じられるんだ」



誰ともなく表情が強ばり、

場の空気が、ひとつの思考で満たされた気がした。


言葉になりかけた感覚が、

場に、静かな沈黙をもたらした。


──不確かなものを考え続けても、答えは出ない。

今できるのは、情報を共有し、現地で事実を拾い上げていくことだけだ。


任務に関する確認と打ち合わせが一通り済むと、私たちは自然と、いつものような緩やかな会話に移っていった。

初任地の砦という緊張感の中でも、それは変わらぬ日常のひとときだった。


食事を終える頃には、エリザが椅子に寄りかかりながら目を閉じていた。

私はそっと肩を貸し、寝所へと連れていく。


道すがら、彼女はすでに眠りについていた。

軽く揺れる体と、かすかに伝わる鼓動の温もりが、私の胸の奥にも静かな落ち着きを運んでくれる。


食堂へ戻ると、ヴィクトリアとネリアは並んで席を立ち、ゆっくりと廊下を歩いていた。

言葉は交わしていない。

だが、互いの歩幅は自然と揃い、その静かな並びには、旧知ゆえの距離感と、今の“立場”を弁えた慎ましさが感じられた。


レオンはというと、まだ少し食べ足りないのか、厨房から戻ってきた追加の皿を前に、のんびりと口を動かしていた。

すっかり緊張も抜けて、騎士らしからぬ無防備な雰囲気を纏っている。

──だが、彼なりに気を張っていたのだろう。こうして平常に戻る時間は、大切なものだ。


一日が終わろうとしていた。



夜が更け、要塞の外は深い闇に包まれていた。

篝火の明かりが、かすかに石壁を照らしている。だが、その先に人の気配はない。

聞こえてくるのは、草むらから虫の鳴く声だけだ。


自然は――時に、人よりも静かで、恐ろしい。


初赴任の緊張と長旅の疲れもあり、皆、口数が少なくなり、そのまま寝所へと散っていった。


ふと、一瞬だけ、元素の揺らぎが生じた。

空気の奥底で、わずかに脈打つような歪みが広がり──そして、静かに収束していく。

その原因は定かでない。だが、確かに“何か”がある。


夜は深まり、砦の外には、濡れた土と森の気配が静かに満ちていく。

風は止み、葉も動かない。

ただ、土の匂いと、遠くで揺れる虫の声が、静寂に溶けていた。


──それは、ほんのかすかな違和感だった。


それでも私は、寝所の小窓を閉じる前に、もう一度だけ外を見やる。

星は出ていない。空は、雲に覆われていた。


静けさが深まり、何かが始まる前の、あまりに整いすぎた夜の気配に、背筋がひやりとする。


そのまま、窓を閉じる。



誰の視線にも触れない静けさの中。

廊下の奥、まだ灯りの落ちぬ一角に、ネリア・フレインの姿があった。


窓辺に佇むその横顔は、いつかの記憶を探すように、黒い森の先を静かに見つめている。

感情の読めない双眸は、長く伏せられ、やがてそっと瞬く。

だが、微細な呼吸の合間に、風の流れに逆らうような、不思議な“静止”があった。

あたかも、彼女だけがこの夜のリズムから逸れているかのように。


しばらくして、何事もなかったかのように、彼女は踵を返し、寝所へと姿を消した。


夜は深まり、空はますます厚く雲に覆われていた。



《創星詩篇 セレナの律動》第五節より

「揺るる灯、眠りの境にて」


沈黙の地に、灯ひとつ

葉を濡らす露はまだ温かく

眠るものらの息吹は、微かに揺れ

名もなき声が、土を撫でる


それは兆しか、それとも余韻か

誰ぞ知らず、何者も語らず

ただ、ことわりのほとりに

ほの暗き音が、ひとつ、またひとつ


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