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一章第四節・陽だまりの宿 「揺れる湯けむり、煌火の街にて」 




創星詩篇《セレナの律動》第五節補──


「揺れる陽だまり、煌火の街にて」


湯けむりは、記憶をやさしく曇らせる。

声なき想いは、炎よりもあたたかく、

言葉よりも深く、心を撫でてゆく。


ここは、火の裔が守る街。

静かな山の呼吸とともに、

人は眠り、笑い、祈り、忘れていく。


宿に灯された一つの火が、

未来を焦がす因果のはじまりとなる。


湯煙にゆらぐ、ことわりの街で

インフェリア



西大陸の中央から南東部にかけて広がる、広大な領土を誇る超大国──グランディス帝国。

その北西部、ヴェルディア家が治める火山地帯には、地熱を利用した複数の温泉が湧き出している。


山の麓には、いくつもの宿が軒を連ねる温泉街が存在する。

その一角に、ひときわ異彩を放つ一軒の宿がある。


観光地のような賑わいもなければ、神殿のような威圧感もない。

けれど、そこには確かに“何か”がある。


火山帯の地熱を活かしたこの宿場町は、人ならぬ者たちの間でこう呼ばれている。

ことわりの境界に揺らぐ場所」──と。


人ではない者たち。けれど人の姿を取り、ときに人と交わる彼らが、ふらりと訪れては湯けむりに身を沈めていく。


この地には、世界の“秩序”がほんのわずかに緩む気配があり、

外の空気が静かに混ざりこむ、余白があるのだ。


宿は、なだらかな坂の先、丘陵の上に構えている。

赤を基調としたその佇まいは、静かで厳かで、ただそこにあるだけで宿命めいた気配を漂わせていた。


宿の名は、「煌火の宿きらびのやど」。


規模は小さくとも、他では味わえぬ“何か”が、そこには確かにある。


そしてその中心に立つのが、若き女将・インフェリア。


小柄な体に静けさと微かな熱をまとい、

まるでこの宿の“律”そのものが、人の姿を借りて現れたかのような存在──

彼女の背には、この宿の灯が、そっと重ねられている。


客人も、従業員も、そしてときに“外なる者”さえも、

この宿は分け隔てなく、あたたかく包み込む。


それは、ここがただの温泉地ではないからだ。

この場所には、世界の“内”と“外”のあわいに揺らぐ、名もなき余白がある。


従業員は数えるほど。

だがその一人ひとりが、この宿に流れる“特別な時間”を支えている。


湯の管理を担う無口な男は、湯けむりと語らい、律の流れを測る。

しっぽを揺らしながらお茶を淹れる給仕の少女は、語尾に癖のあるひと言を添え、子どもたちに人気だ。

寡黙な料理人の皿には、静けさと熱が同居したような味わいが宿る。

そして副女将見習いはというと──女将を「推し」と呼び、彼女の働きぶりに密かに(あるいは公然と)ときめいているという、奇妙な情熱の持ち主である。


この宿には、癒しを求める者もいれば、理の観察に訪れる者、あるいは誰かを静かに待つ者もいるという。


ほんのひととき、世界の輪郭がほどけるような──

煌火の宿に流れるのは、そんな“ゆらぎ”の時間。


女将・インフェリアは、その時間の中で、ただ静かに灯を守っている。


誰よりも早く朝に火をともし、誰よりも遅くその火を見送る。

その足取りに急かされることはなく、けれど確かに、宿を支える柱としてそこにある。


それは“仕事”ではない。

それは彼女にとっての“在り方”そのものだ。


ときに鋭く、ときに茶目っ気たっぷりに、

ふらりと客の懐に入り込むその気配には、

ひそやかな炎が宿っている──

人の姿をした、小さな灯火が歩いているようだと、誰かが囁いた。


まるで揺らぐ陽だまりのように。

あたたかく、けれどどこか儚くて、触れれば消えてしまいそうな光。


それはこの宿に宿る、ひとつの“律”のかたちでもある。


この宿に湧く湯にも、また特別な“気配”があるといわれている。


癒し、再生、あるいは目覚め──

その湯に何があるのか、正確に語れる者はいない。

けれど、湯を目当てに遠方から訪れる客はあとを絶たず、

中には、他国の重鎮や魔族と噂される者たちの姿も混ざっているという。


誰も理由を語ろうとはしない。

だが一説には──

この宿の女将こそが、火山の理に触れし者。

あるいは“理そのもの”の名残なのだと、そう噂されている


敷地内には、離れがいくつか備えられている。

人目を気にせず、ただ静かに、深く養生するための空間。

その離れのひとつひとつにも、ささやかなこだわりと“気配”が宿っており、


訪れる者の気質に応じて、まるで自然と引き寄せられるように部屋が割り当てられるという。


もちろん、客の情報が外に洩れることはない。

宿に関わる者すべてが、それを当然のこととして振る舞う。


その徹底ぶりゆえに、

この宿は──ヴェルディア家本家の者たちにも、

代々、愛されてきた場所なのである。


煌火の宿から少し離れた場所に、従業員や女将が暮らす屋敷がある。

宿の裏手、細い石畳の小道を抜けた先に、ひっそりと構えられた建物だ。


表立って案内されることはないが、働く者たちにとっては、日々の“息継ぎ”の場所でもある。

その屋敷の一室から、突如として小さな悲鳴のような声が上がった。


叫び、というには抑えられており、かといって落ち着いた響きでもない。

奇妙な高揚と、何かが込み上げたような……そんな、不可思議な声だった。


ふと気になって、私はそっと障子の隙間から中を覗く。


そこには、湯用のはちまきを頭に巻いたままの女が、

館の主人であるインフェリアの肖像画に向かって、まるで念仏のように言葉を捧げていた。


目を潤ませ、頬を紅潮させ、身振り手振りも交えながら、時折うなずき、時に微笑み──

どうやら、彼女にとって何か“たいそう嬉しいこと”があったらしい。


こちらの気配に気づいたのか、彼女はぱっと顔を上げ、

「……あら?」と、まるで再会を喜ぶかのように声をかけてきた。



「エララ様? またお会いしましたね。前回は数ヶ月前に来られていたのに、最近よく来ていただけて嬉しいです。

インフェリア様も、きっと喜んでおられますよ?」


「…………そうかな。たしかに、ここ最近は星が動く前にいや、季節が巡る前に来ていた気がするけど……」


そこまで言いかけたところで、彼女が何かを言いたげにそわそわとし始めた。

嬉しさが言葉に変わる寸前の、あの妙な熱の気配が漂う。

これはもう、先に要件だけ済ませた方がいい。



「インフェリアは、今どこに?」



その問いに、彼女──カリナ リースは、まるで待ってましたと言わんばかりに、

息を吸い込み、視線を再び絵に戻す。


今日のインフェリア様のかわいらしさ。

寝起きの瞬間の神々しさ。

ほんのわずかに跳ねた髪、湯にほどける声、整えかけて乱れた寝具の神聖さ。

それらがどれほど尊く、永遠に記憶に残る光景だったか──


彼女の語りは、決して大きな声ではない。

静かに、しかし異様なほどの熱を帯びて、ぽつりぽつりと続いていく。


それは叫びでも演説でもなく、

ただ、誰にも届かなくていい“祈り”のようだった。


何の前触れもなくその温度が立ち上がり、

“そこにいる誰か”に向けてだけ、確かに燃えている。

その熱は、外から触れようとすればするほどに、どこか拒まれているようにも思える。


──この女の中では、もう世界がひとつ完結しているのだろう。


静かで、丁寧で、狂っている。

そう形容するしかない、“密かに煮詰まった愛”が、

この屋敷の片隅には息づいていた。


……そこまでの想いではないにしても、

自分のなかにも、似たような何かが、微かに息づいている気がした。


うまくカリナを交わしつつ話を引き出したところ、

当の本人──インフェリアは、買い出しに出ているという。

ならば、と私も商店通りへ向かうことにした。




ゆるやかな丘を降り、少し進んだ先に橋がある。

川面には湯けむりが立ちのぼり、提灯の灯が水面にゆらめいていた。

そこを渡れば、いくつもの宿や茶屋が軒を連ねる、温泉街の大通りに出る。


空には残暑の名残が淡く漂い、夕陽に照らされた石畳はほのかにぬくもりを帯びている。

通りには旅人や地元の人々が行き交い、湯上がりの笑顔とともに、静かな賑わいを形づくっていた。


そして何より──

湯の蒸気に混じって漂う、かすかな硫黄の匂い。

木の桶に染み込んだ湯の香、炙られた湯葉のほの甘い香り、

それらがふと風に乗って鼻先をかすめ、心をゆるやかにほぐしていく。


吊された赤い提灯に火が灯り、やわらかな光が通りを照らす。

風鈴が、どこか遠くで小さく鳴った。


湯けむりの向こうで、誰かの声が笑いに溶けていく──

この街には、ただ在るだけで心の輪郭をあたためるような、静かな熱が宿っている。


そんな人混みの中。

周囲よりもわずかに熱を帯びた空気を纏いながら、

赤い外套を羽織った少女が、向こうから歩いてきた。


金の髪が夕陽にきらめき、青い瞳がまっすぐ前を向いている。

背格好は子どものようだが、そんな年頃の子が一人で出歩くはずもない。


──すぐに分かった。あれは、インフェリアだ。



「……インフェリア」



私が小さく呼びかけると、少女はぴたりと立ち止まり、

少しだけ間を空けて、こちらへと歩いてくる。


「何よ。最近はよく来るのね」

「前は、滅多なことじゃ足を運んでこなかったのに……あの子の影響ね」


見透かすような口ぶりだった。

その声音には、どこか呆れと、ほんの少しの優しさが混じっている。


「君は目立つから、すぐわかるよ。人の中に紛れてもね」


「それは──お互い様でしょ、エララ」


彼女の唇が、わずかに笑みのかたちを描いた。


湯けむりの向こうで、提灯の灯が揺れている。

かすかな硫黄の香が風にまぎれ、通りを包んでいた。


「この街は……風がやわらかい」


ぽつりと告げた言葉に、インフェリアがふっと笑う。


「ほんと、あなたってそういうとこ変わらないわよね」


「……君は、変わった?」


「どうかしら。でも……あなた 今のほうが、好きよ」


「それなら、よかった」


静かな呼吸のように、短いやりとりが交わされる。

湯けむりの間に、音のない温度がほんのわずか揺れていた。



彼女と、私たち。

その在りようは、似て非なるもの。

けれど同じく、“人”とは違う側にいる。

この世界に生まれながら、その外と接している、

ことわりの傍に立つ者たち。


彼女──インフェリアは、人のかたちをしている。

けれどその実、炎の龍であり、炎そのもの。

始祖龍セレナより産まれた“概念”のひとつにして、

世界に在り続ける象徴。


火の名を持つ彼女のほかにも、理を担う龍たちは存在する。

•光龍:ミラ(知識・導き)

•闇龍:アーシャ(芸術・感性)

•氷龍:セレス(秩序・静寂)

•大地龍:フィオラ(自然・共存)

•風龍:ライア(自由・冒険)

•雷龍:雷花(変化・衝動)


それぞれが、ひとつのことわりを宿し、

世界の均衡を、言葉なく保ち続けている。


彼女たちは、世界の観察者であり、干渉者ではない。

ただ、そこに在るだけ。


特別な力を誇ることもなければ、

自らを顕すことすら、望まない。

けれど、“在る”という事実だけで、

世界が、かすかに揺らぐ。


理に属する者の傍では、

現実がほんの少し、静かに、滑らかに歪む。


ときに人の姿をとり、

ときに人と血を分かち、“器”を生み、

ときに、ただ祈るように傍に在る。


同じ時間、同じ空間に、

まったく同じ存在が“複数”で在ることすらある。

それを奇異と感じないのは、彼女たちが“概念”であり、

世界そのものが、それを当然と受け入れているから。


誰かが“視ている”その姿は、誰にとっても異なる。

違っていて当然であり、それでいて──すべて同じ。


そこに違和感は、生まれない。

なぜなら、違和感そのものを生むことわりすら、

彼女たちが司っているのだから。


私たちは、同じ場所にいて、違う空間を生きている。

共に在りながら、同じ世界を見てはいない。


その隔たりが、悲しみではなく、ただ静けさとして存在する。

言葉にならぬものが、距離を織りなしている。


たわいもない会話を交わしながら、宿への帰路を歩く。

こうして無為に時を過ごし、誰かと語らうこと自体──

私にとっては、実に珍しいことだった。


けれど。

彼女と並んで歩くこの時間が、

どこか遠くで、微かに──あたたかく感じられたのも、また事実だった。



インフェリアとは、お互いの属性が真反対であるせいか、却って相性は良い。

適度な距離感を保ちつつ、互いを自然に感じ取ることができる。


変化が訪れたのは──アグニスという少女と出会ってからだ。


あの時から──

永く存在してきた私の中に、「他者という存在」がほんの少しずつ揺らぎを与え始めた。


そして、こうして知己の友がいるこの温泉街に、足を運ぶ頻度も自然と増えていったというわけだ。


──世界の端で揺れるもの。


私たちは“外”の者であり、人ではない。

けれど人のかたちをとって顕現している以上、

人と同じように食事を楽しむこともあれば、好き嫌いも生まれる。


私の場合、元素の特性からなのか──冷たい食べ物や凍った菓子に強い関心を抱く。

凍てついた果実の蜜や、雪精の吐息で編まれた氷菓子、

透き通る甘露を幾重にも重ねた結晶の層──


そうした甘味に心が惹かれるのは、もはや嗜好というより“本能”に近いのかもしれない。

口にするたび、ひと息ごとに、内奥の律が澄んでゆく気がする。


一方のインフェリアは、炎の概念そのものであるにもかかわらず、熱を伴う料理──

たとえば煮込みや炙り料理──を好むわけではなく、

香辛料や刺激の強い料理、“別種の熱”に力を宿す食事を好むという。


本人曰く、「熱い料理は苦手」らしい。


──炎そのものである存在が、熱いものを苦手とする。


ふとしたことだが、不思議な話ではある。


この世界にはことわりがあり、私たちはその外縁に属している存在だ。


だが、私たちにとっても「生命」や「未来」「過去」といった概念は常に明確ではない。


超常の存在とはいえ、あらゆる事象を見通せるわけではない。

過去や未来を知覚できる場合もあれば、まったく手が届かないまま、

ただその時を眺めるだけのこともある。



曖昧で、揺らぎに満ちたこの世界。

だからこそ、私たちは飽きずに、この世界に顕現し、自我を保っているのかもしれない。


「そうそう」

ふっと振り返り、じっと私の顔を見つめる。


そして、ほんの少し意地悪そうな顔で、こう言った。


「──あの子、アグニス。

あの子は生まれる前から、そして生まれた後も、ずっと“炎の子”よ。

私は彼女をずっと見守ってきた。……だから、あなたにはあげないわ」


冗談めかした声だったが、どこかに熱を含んでいた。


その熱が、あえて表面に出されているようで、けれど奥底に沈んだ何かも見え隠れしていた。


「……私たちの“興味”は、人のそれとは、少し違うだけさ。

きみも、わかってるだろう?」


咄嗟にそう返したが、言葉の底に微かなざわめきが残った。

それは、眉の端に滲んでいたかもしれない。


そんな私を見て、彼女はくすっと笑い、いたずらっぽく言った。


「そりゃもちろん、知ってるわよ。

でもね、あなた──やっぱり、まだまだね」


「……何が?」


「こうやって人は会話を楽しむの。“引っ掛け”とか、“探り”って言うのよ。わかる?」


どこか得意げに、そして満足そうにインフェリアは語った。

その瞳の奥には、楽しげな色と、闇の中にじんわりと灯るような──

ほんの少しの嫉妬のような、赤い熱が揺れていた気がする。


そうして、言葉の余韻が肌に残るような静けさの中、

とりとめもない話を交わしながら歩くうちに──

ふと気づけば、宿の灯が、霧の向こうに淡く浮かんでいた



灯りがともり始めた中庭には、湯煙がほのかに漂っている。

どうやら今日も、客室は静かに埋まっているようだった。


「私は仕事があるから、戻るわ」

「せっかくだし、部屋を用意させる。ゆっくりしていきなさい」


そう言い残し、彼女は玄関へと戻っていった。

赤い外套に包まれた小さな熱はゆっくりと湯煙と共に溶け、やがて静かに消えていく。

ただ、手のひらにふれた温もりのような熱だけが、そっと残っていた。



ゆったりとした余韻を胸に、正面から宿の戸をくぐる。


「いらっしゃいませ、エララ様」


迎えてくれたのは──つい先ほど、屋敷で奇妙な“儀式”を捧げていた、あのカリナだった。


丁寧に頭を下げたその姿は、あまりにも整っていて、まるでさっきの彼女が幻だったかのようだ。


あのときの、燃えさかるような“熱”は、どこにもなかった。


代わりにそこにいたのは、礼節に満ちたひとりの女性。

静かに気品をまとい、どこか人間離れした美しさで、完璧に微笑んでいる。


その容姿をひと目見れば──

世の多くの男たちが、足繁くこの宿に通ってしまうであろうことも、想像に難くない。


けれど──彼女もまた、“こちら側”の存在だ。


あの熱心すぎるインフェリアへの想いも、決して一方的なものではない。


彼女たち──“眷属”と呼ばれる存在たちは、

概念そのものから直接派生した、龍たちの“分身”であり、“部下”であり、

“仲間”でもあり、あるいは──“家族”である。


彼らは龍の一部でありながら、

それぞれが別の個として“意思”と“在り方”を持って顕現する。


おそらくこのような仕組みは、

悠久を生きる存在たちへの、世界側からの“配慮”なのだろう。


何もなく、誰もいない、知り得ない孤独というものは──


私たちのような“人にあらざる存在”でさえ、刹那的すぎて、胸に滲むものがある。


……そんな思いを抱きながら、私は静かに歩き出した。

案内されたのは、私のためにあつらえられたような離れの一室だった。


離れの中でも中規模程度の造りで、質は十分。

近くには林が広がり、窓を開ければときおり肌寒い風が通り抜ける。


それはいつしか“定位置”となった空間であり、私の好みを正確に踏まえた設えだった。


おそらく、最初にこの配置を考えたのはインフェリアだろう。


外套を脱ぎ、宿に備え付けられている浴衣を羽織る。

一枚の布から仕立てられた、衣のような装い

着脱がしやすく、絹製の生地は肌にやわらかく馴染む。


腰を帯で締める形になっているが、不思議なことに、窮屈さは一切なく、むしろ安心感を覚えるほどだった。


ひと息ついて、用意されていた茶を口に運ぶ。

淡い香りと共に、温かな液体が体に染み渡っていく。


このお茶も、浴衣も、どちらも大陸東部の海に浮かぶ葵島という島国の文化に由来する品らしい。

あの島には、独自の暮らしと美意識が息づいているという。


そうして落ち着いた頃、襖が軽く開いた。


給仕係のひとりであり、宿の“看板娘”でもあるマーニが、いつもの調子で現れた。

「今日のメインは、鮎の塩焼きと、南瓜の煮物……あと、黒豆と松の実の氷菓子にゃ」

そう言いながら、手際よく器を並べていく。

「冷めないように、ゆっくり食べるのにゃ」


慣れた手つきで給仕を進めながらも、

彼女の尾の先だけが、どこか嬉しそうに揺れていた。



塩をひとつまみかけて味わう、ここならではの料理は、どれも穏やかな滋味に満ちていた。

食後、少しだけ敷地内を歩いてみる。

宿の周りを囲む木々の隙間から、涼やかな風が吹き抜けてくる。

空には星が滲みはじめ、夜の静けさがゆっくりと広がっていく。


この場所は、規模こそ控えめながら、いつも数組の予約客が訪れ、穏やかな時間が流れている。

喧騒に満ちた大きな宿よりも──私には、こうした場所の方が、ずっと心地よい。


──風に混じって、ふと、ある“気配”を感じ取った。

輪郭を持たないまま、意識の隅にふっと入り込んでくるような……そんな存在の兆し。


まるで何かが、遠くからこちらを見ていたかのような──そんな、揺らぎ。



肌を撫でた風の向こうで、曖昧だった気配が、ゆっくりと形を帯びていく。


──そこに見える、あの影も──


湯けむりの立ちこめる温泉宿の離れ。

その木造の縁側に据えられた一脚の椅子に、異国の夜を纏ったような銀髪の姫君が、静かに腰かけている。


艶やかな黒と深紅のドレスは、この素朴な空間には、あまりにも豪奢すぎた。

だが、彼女はそれを気にする素振りひとつ見せない。

むしろ──この空間のほうこそ、彼女にとっては異質なのだとでも言うように、

その佇まいは、静かに場の空気ごと染め上げていた。


……気配が、わずかに違う。


脈の鼓動、血の温度、呼吸の揺らぎ──

どれも完璧に模されているはずなのに、“生”の輪郭だけが、不自然なまでに静まり返っている。

生きているのではなく、ただ、“存在している”。


その違和感は、人ならぬ私たちにとって、説明のいらない直感として迫ってくる。


──あれは、吸血族。


ただの推測ではない。

この宿の空気に溶け込む彼女の在りようこそが、その答えだった。


その目は紅く輝いていたが、いまは血に飢えるような鋭さではなく、

湯に溶けるような、やわらかな光を湛えている。


「……悪くないわね。ここ」


ぽつりと漏らしたその言葉は、混じり気のない、素直な声色だった。

そう言って、ススッと指先で縁側の欄干をなぞりながら、

遠くで響く湯桶の音や、給仕たちの笑い声にそっと耳を傾けているようだった。



彼女は、吸血姫でありながら、

いまこの瞬間は血よりも熱を、夜よりも灯りを選び取っているのかもしれない。


椅子に深く身を預けたまま、紅の瞳を空へ向ける。

夕闇がゆっくりと空を染めてゆく頃──

その眼差しとともに、彼女の中の何かもまた、ほんの少しだけ、ほどけていくようだった。


暗闇に包まれていくなか、ふわりと光が視界をかすめた。

その光の通り過ぎた先──

湯けむりの向こうで、土産棚の前に佇み、何かを思案しているエルフのような姿が見えた。


背丈にはまだあどけなさが残り、棚へ向ける眼差しにも、どこか迷いが見える。

けれど、その所作は落ち着いていて、繊細で品のある装飾具を身に着けているあたり──

ただの旅の者には見えない。


おそらくは、皇族か、それに近しい家系の生まれだろう。

とはいえ、あの雰囲気からして、まだ公の務めには就いていないのだろう。



西大陸にもエルフはわずかに点在しているが、その多くは北方──ノルンダール地域に暮らしている。

帝国領内においては、各地に小規模な集落を転々と築いているにすぎない。


彼らは大地や風のことわりを深く信奉しており、火山のような“熱”に縁ある土地は、あまり好まれない。


だからこそ──こうしてこの街に足を運んでいることに、わずかな違和感と、それ以上の好奇心を覚える。


……もっとも。

私のように“氷”を宿しながら湯に入る、変わり種も存在はするのだが。


そんなことを考えているうちに、視界の端にわずかな動きが映った。

廊下の反対側──湯けむりの奥に、また別の人影が現れる。


その男は、ひと目で“何かが違う”とわかる存在だった。

湯けむりに包まれた宿の空気に、ただ一人、染まらない。


異国風の装いにも見えるが、細部にどこか歪んだ印象を受ける。

銀縁の眼鏡をかけ、腕には黒猫を抱えている。


その身に纏うものすべては、丁寧に“人間”を模しているかのようだった。

それなのに、彼のまわりだけ──空気がふっと距離を取るように、そっと揺れて見える。


私には、それが何なのかはわからなかった。


けれど──

“理”の皮膚の裏側に、ふいに触れてしまったような、

言葉にも、記憶にも残らないはずの違和感だけが、かすかに染みついてくる。


すれ違った誰もが、彼に気づくことなく、

視線を向けた記憶さえ、静かに霧へと溶けていく。


まるで、最初からそこに“いなかった”かのように──

彼は、廊下の奥へと静かに歩み去っていった。


ほんの刹那。

私と交わった視線だけが、この世界の“理”を、外側から見据えていた。


……その気配が完全に消えた直後、

廊下の奥から、また別の声が届いた。


「今日の献立、なんでしたっけ? マーニャさん。甘いものが一品でもあれば最高なんですが」


「あら、ハニバル様。鱒の塩焼きと、南瓜の煮物……あと、栗羊羹がついておりますにゃ」


「お、それは良い日だ」


男は口元だけで笑い、軽く鞄の位置を直すと、

そのまま湯けむりの奥へと歩いていった。


足取りは柔らかいが、よく見れば歩幅に迷いがない。

道を知っている者の、確かな歩き方だった。


この宿は、世間にはあまり知られていない場所だが──

それでもこうして、複数の文化圏に属する者たちが、同じ時間を静かに過ごしている様子を見ていると、

どこか、レヴァンティンの水神祭を思い出す。


……ただ眺めているだけでも、飽きないものだ。


それでも、歩き疲れてきたこともあり、私はそろそろ寝床へと戻ることにした。


湯けむりの向こう、遠くないどこかに、あの気配があるような気がした。

声もなく、名も呼ばず、ただ胸の奥に、小さな熱が灯る。


それは、思考のかたちを取らない想い。

けれど確かに、そこに在る。


──インフェリアと向き合うたびに、思う。


あの小さな身体の奥に揺れているのは、ただの炎ではない。

誰かを照らすために燃える、優しくて、触れたら少しだけ痛い、あの熱。


それが、なぜだか……彼女を思い出させる。


私は静かに目を伏せ、深く息をついた。

窓の外では、夜風が林をわずかに揺らしていた。


──かつて交わした、あの言葉を思い出しながら。

私はふと、遠い明日にも、この灯のもとで彼女と出会える気がした。

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