一章第三節・静謐の雪 「氷の山荘にて、理を識る」 3
けれど、わたしの揺らぎなど、世界から見れば小さなさざ波にすぎない。
世界は広く、幾重もの理が折り重なる。
その中に、二つの鼓動が響いている。
ひとつは、法と信仰のもとに築かれた〈西の鼓動〉。
もうひとつは、本能と共鳴によって響く〈東の鼓動〉。
西には、秩序の律が響き、
巨大な国家、信仰が織りなす。
石の教義、人の姿を縛り、
海の祈り、多様性を抱く。
氷の眼差しに、その理が静かに映る。
東には、異なる律が脈打ち、
元素と共に生きる者たちの地が広がる。
雷鳴の谷、炎が揺らぎ、
嵐の調べ、野性が息づく。
氷の胸に、その響きが静かに溶ける。
そこに在る者たちは、
感情ひとつで元素を紡ぎ、
強大で、儚く、時に危うい力を操る。
風を走り、雷を纏い、
拳と血で語り合う民。
誇りを家系に刻み、
静かに絆を燃やして生きていた。
そこには、ノルヴァズの祈りと、精霊たちとの深い共生。
人の世界では見えなくなっていたものが、そこにはあった。
わたしも、かつてあの地を訪れたことがある。
けれど、そこに在るものは、わたしにはあまり馴染まなかった。
理の深さゆえか。
あるいは、その底にひそむ、かすかな気配ゆえか。
静かに、淡く、しかし決して目を逸らせないもの──
あれは、わたしの領分ではない。
……そんなことを思い返していたときだった。
ふいに、風が窓を叩いた。
雪は音もなく降り積もり、世界の色を奪っていく。
その白に包まれながら、わたしは炉の前に腰掛け、
開きかけた書物を、そっと閉じた。
「……ふふ、また少し話が逸れたかな」
小さく呟いた声は、自分に向けられた独り言。
知識の海に身を沈めていると、どうしても思考が過去から未来へ、あるいは東西の果てまで旅してしまう。
それは、精霊としての特性なのか、それともただの癖なのか。
──いや、もしかすると。
「アグニス」
ぽつりと、セレスがその名を呼ぶ。
その名を口にするだけで、胸の奥に、わずかな熱が灯る。
エララ・フロストウッドは、人のように生きている。けれど、人ではない。
氷の魔女とも呼ばれる彼女は、伝承に語られる“精霊”そのもの──
氷という元素に根ざした存在でありながら、形を持ち、言葉を持ち、この世界の片隅に在る者だった。
それでも。
特別な意味など、彼女は求めていない。
ただ雪と氷に囲まれたこの土地で、本を読み、静かに暮らし、ときおり誰かと語らう。
それだけで、充分だと思っていた。ずっと、そう思っていたのに。
「……アグニス」
暖炉の炎が、ぱちりと小さく弾ける。
光が、彼女の頬を淡く照らす。
ほんの数年前に出会った少女。
燃えるような眼差しで、自分とまっすぐに言葉を交わし、氷の壁を軽々と越えてきた存在。
“あの子は、もしかすると”──
いや、言葉にするには早すぎる。
けれど、確かに胸の内で、何かが揺れていた。
静けさの中にひとすじの熱が灯るように。
氷の中で、遠く微かに、春の気配が滲むように。
エララは、ゆっくりと立ち上がった。
手紙を一通、封筒に収め、外套を羽織る。
「……少し、歩こうか」
雪が舞っていた。風は穏やかで、空は澄んでいる。
この日、彼女は久しぶりに“旅支度”というものをした。
それは彼女にとって、小さな決意の証でもあった。




