第一章:白い結婚
雨が窓ガラスを叩く音が、エリーゼの心臓の鼓動と同じリズムを刻んでいた。今日、彼女はノースヘイブン公爵家のレイモンド・ヴァレンタインと結婚する。父が決めた政略結婚。彼女の意見など誰も聞いてはくれなかった。
「お嬢様、準備はよろしいですか?」侍女のマーガレットが小声で尋ねた。
「ええ、大丈夫よ」エリーゼは鏡に映る自分の姿を見つめた。白いウェディングドレスが彼女の細い体を包み込み、ヴェールが顔を隠している。誰も気づかないだろう、彼女の目に宿る不安と恐れを。
結婚式は冷たく厳かに執り行われた。神殿の中は静寂に包まれ、エリーゼとレイモンドの誓いの言葉だけが響いていた。二人の間には温かみも愛情もなく、ただ義務感だけが漂っていた。
「これで終わりです」神官が宣言し、エリーゼはノースヘイブン公爵夫人となった。
reception後、新しい夫は彼女を公爵邸の書斎に呼び出した。冷たい視線でエリーゼを見つめるレイモンドの表情には、何の感情も浮かんでいなかった。
「私たちの結婚について理解しておいてもらいたいことがある」彼は窓際に立ったまま言った。「これは政略結婚だ。愛情などない。私には愛する人がいるが、政治的理由でお前と結婚した」
エリーゼは黙って頷いた。期待などしていなかった。だが、彼の次の言葉に彼女の心は凍りついた。
「我々の結婚は名目上のものだ。『白い結婚』と呼ぶらしい。夫婦の義務も果たさない。子供も持たない。お前はノースヘイブン家の名を背負うだけでいい」
「わかりました、公爵様」エリーゼは小さな声で答えた。
「そして、近々お前を北方の領地に送る。ノースヘイブン家には相応しくない噂を立てられるのは避けたい。そこで静かに暮らせ」
彼の冷たい言葉は、エリーゼの胸に突き刺さった。彼女は深呼吸をして感情を抑え込んだ。嘆いても何も変わらない。この運命を受け入れるしかないのだ。
「お望み通りに、公爵様」
レイモンドは無表情のまま頷き、「明日から別々の部屋で寝る。夕食は一緒に取るが、それ以外の時間は自由だ。私の邪魔をしないでほしい」
その夜、エリーゼは新しい部屋で一人涙を流した。彼女は今日から公爵夫人だが、それは単なる称号に過ぎない。彼女の存在価値は家と家をつなぐ橋だけ。姉妹の中で最も美しくもなく、才能もない彼女だからこそ、このような結婚に差し出されたのだ。
窓の外に広がる星空を見上げながら、エリーゼは自分の運命を呪った。しかし、未知の力が彼女の中で眠っていることも、北の地が彼女の人生を一変させることになるとも、この時のエリーゼには知る由もなかった。
彼女はただ、明日から始まる新しい人生に向けて、静かに心の準備をしていた。
朝日が窓から差し込み、エリーゼの目を覚ました。一瞬、見知らぬ部屋に戸惑ったが、すぐに昨日の出来事が脳裏に蘇った。そう、彼女は今やノースヘイブン公爵夫人なのだ。
「お嬢様、起きてらっしゃいますか?」マーガレットがドアをノックした。
「ええ、入って」
マーガレットは朝食の盆を持って入ってきた。「公爵様は既に執務室にいらっしゃいます。朝食は別々にと仰っていました」
エリーゼは小さく溜息をついた。「ありがとう、マーガレット。それから、もう『お嬢様』ではなく『公爵夫人』と呼ぶのが適切よ」
「申し訳ありません、公爵夫人様」マーガレットは戸惑いながらも頭を下げた。
朝食を終えたエリーゼは、公爵邸を探索することにした。広大な邸宅には芸術品や古い肖像画が飾られ、ノースヘイブン家の長い歴史を物語っていた。廊下を曲がったとき、彼女は執事のジェームズと出会った。
「公爵夫人様、公爵様がお呼びです。執務室にお越しください」
執務室に入ると、レイモンドは大きな書類の山と向き合っていた。エリーゼの姿に気づくと、彼は視線を上げずに言った。「北の領地への出発日が決まった。三日後だ」
「三日後ですか?」エリーゼは驚きを隠せなかった。彼女はもう少し時間があると思っていた。
「準備は既に始めている。お前は必要なものだけを持っていけばいい。北の屋敷には基本的なものは揃っている」レイモンドは冷淡に告げた。「それと、これを読んでおけ」
彼は一冊の本をエリーゼに手渡した。『ノースヘイブン家の歴史と礼儀作法』と題された分厚い本だった。
「公爵夫人として最低限の知識は身につけておくように」
「わかりました」エリーゼは本を胸に抱きしめた。
「それから、北の領地についての注意事項がある」レイモンドは初めてエリーゼの目を見て語った。「フロストウッド屋敷には長い間誰も住んでいない。地元の人々は迷信深く、屋敷について奇妙な噂を流している。そういった話に惑わされないように」
「噂、ですか?」
「屋敷に霊が出るとか、夜に奇妙な光が見えるとか、そういった馬鹿げた話だ」レイモンドは軽蔑するように言った。「実際は古い建物が風で軋む音を聞いているだけだろう」
エリーゼは静かに頷いた。「理解しました。迷信に惑わされることはありません」
「良い心がけだ」レイモンドは再び書類に目を落とした。「それと、月に一度の手紙で状況報告をするように。問題がない限り、私からの返信は期待しないで欲しい」
解散を告げられたエリーゼは、重い足取りで部屋に戻った。本を開くと、ノースヘイブン家の系図が描かれていた。レイモンドの先祖は代々強大な魔法使いだったという記述もあったが、現在の当主たちは魔法の才能を失っていると書かれていた。
「魔法か...」エリーゼはつぶやいた。彼女の家系にも魔法使いはいなかった。それは貴族の間では珍しいことではなく、かつて栄えた魔法は今では衰退していた。
窓の外を見ると、空が暗くなり始めていた。三日後には見慣れた景色とも別れなければならない。エリーゼは深く息を吸い込み、静かに決意を固めた。この結婚は彼女の選択ではなかったが、新しい生活に向き合う強さだけは持たなければならない。
北の地で何が彼女を待ち受けているのか、エリーゼには想像もつかなかった。ただ確かなのは、彼女の人生が大きく変わろうとしているということだけだった。
夕食の時間、エリーゼはダイニングホールに足を運んだ。広大なテーブルの両端に座る二人の姿は、彼らの関係性を象徴しているようだった。距離があり、冷たく、そして形式的。
「北の屋敷についての本は読みましたか?」レイモンドが沈黙を破った。
「はい、読み始めました」エリーゼは丁寧に答えた。「フロストウッド屋敷は三百年前に建てられたとありました。とても歴史のある場所のようです」
「そうだ。私の先祖、エドガー・ヴァレンタインが建てた屋敷だ」レイモンドはワインを一口飲んだ。「かつては重要な拠点だったが、今では辺境の古い屋敷に過ぎない」
「本には、エドガー様が強力な魔法使いだったと書かれていました」
「昔の話だ」レイモンドの表情が一瞬曇った。「我が家の魔法の血は薄まって久しい。今は政治力と財力で王国に貢献している」
エリーゼは静かに頷いた。魔法の話題は彼を不快にさせるようだった。
夕食後、エリーゼは庭に出た。満月の光が薔薇園を銀色に染め上げている。彼女はふと、一輪の白い薔薇に手を伸ばした。その瞬間、花が微かに光を放ったように見えた。エリーゼは驚いて手を引っ込めた。
「気のせいね…」彼女は自分に言い聞かせた。しかし、心の奥底では何か不思議な感覚が残っていた。
次の二日間、エリーゼは北への旅の準備に追われた。持っていく衣服や本、思い出の品々を選ぶ間も、あの薔薇の光が頭から離れなかった。
出発前日の夜、エリーゼは書庫で過ごしていた。手元の本には魔法についての記述があり、「魔法の才能は時に眠ったままの状態で存在し、特定の場所や状況で目覚めることがある」と書かれていた。
「公爵夫人」
振り返ると、レイモンドが入ってきたところだった。エリーゼは慌てて本を閉じた。
「明日の出発は早い。準備は整ったか?」
「はい、すべて整いました」
レイモンドは彼女の近くのテーブルに封筒を置いた。「これは北の領地を管理するための資金だ。無駄遣いはするな」
「ありがとうございます」エリーゼは封筒を受け取った。
「それと…」レイモンドは少し躊躇った。「北の地は厳しい。体調に気をつけるように」
その言葉には心配よりも、公爵夫人として恥をかかせないでほしいという警告の意味合いが強かった。
「はい、気をつけます」エリーゼは静かに答えた。
レイモンドは立ち去ろうとしたが、ドアの前で立ち止まった。「本当に北へ行くことに不満はないのか?」
エリーゼは一瞬驚いた。「私の気持ちを尋ねてくださるのですね」
「単に確認しているだけだ」
エリーゼは小さく微笑んだ。「私は公爵様の妻となった以上、その義務を果たします。北の領地で静かに暮らすことも私の役目です」
「そうか」レイモンドはわずかに安堵したように見えた。「おやすみ」
レイモンドが去った後、エリーゼは窓辺に立ち、星空を見上げた。明日からは全く違う景色の下で暮らすことになる。不安と期待が入り混じる中、彼女は再び薔薇園に目をやった。
「さようなら」彼女は小さくつぶやいた。それは薔薇に対してなのか、この屋敷に対してなのか、それとも彼女がこれまで生きてきた人生に対してなのか、自分でもわからなかった。
出発の朝、エリーゼは早起きした。朝日が昇る前から、彼女の荷物は既に馬車に積み込まれていた。
「お元気で、公爵夫人様」マーガレットは涙ぐみながらエリーゼに別れを告げた。「北は寒いので、温かくしてくださいね」
「ありがとう、マーガレット」エリーゼは彼女の手を握った。「あなたの気遣いは忘れません」
玄関に出ると、レイモンドが待っていた。意外なことに、彼は見送りに来ていたのだ。
「無事に着いたら、報告の手紙を送るように」彼は事務的な口調で言った。
「はい、約束します」
そして突然、レイモンドはエリーゼの手を取った。彼の手は冷たかった。「フロストウッド屋敷には…気をつけろ」
「どういう意味ですか?」
「何でもない」レイモンドは手を離した。「行け。馬車は待っている」
エリーゼは一礼し、馬車に乗り込んだ。窓から見える公爵邸は朝日に照らされて輝いていた。そしてレイモンドは無表情のまま立っていた。
馬車が動き出し、エリーゼは前を向いた。これから始まる新しい人生へ。彼女は知らなかった。北の地に眠る古い力が、彼女を待ち受けていることを。エリーゼの中に眠る才能が、まもなく目覚めようとしていることを。
馬車は王国の首都を離れ、北へと進んでいった。エリーゼ・ヴァレンタイン公爵夫人の物語は、ようやく始まったばかりだった。