後楽球陣城塞
「悪いがグズグズしとると命が危ない。儂だけなら助かる自信はあるが、おまえさんがこの状況を打開するのは不可能じゃ。だから安全な場所へ連れて行く」
「……何処へ行くんですか?」
「旧東京ドームシティじゃ」
「あそこって15年前にドームが閉鎖されて、一帯がスラム街になってるって聞いてますけど」
「確かにスラム街じゃが、儂らにとっては憩いの場所になっとる。つべこべ言わずに付いて来んか」
仁翔は海斗に背を向けると、昔あった東京ドームの跡地に向かって歩き出した。
東京ドームは15年前、野球人気の衰えと共に閉鎖されたと聞く。
現在はサッカーやバスケの大会を開催できる多目的スタジアムが調布市に整備され、アマチュア野球の大会も細々とそこで行われるようになった。
東京ドームの解体に伴い、周辺の都市開発に大手企業がいくつか名乗りを挙げたが、不思議なことに関わった企業が相次いで倒産したため「呪われた土地」だと噂が立ったらしい。
そして解体工事が終わらずに施設はそのまま放置……いつしか反社会勢力の関係者や浮浪者たちの溜まり場となり、東京ドームシティの一帯はスラム街と化した。
「儂らは『後楽球陣城塞』と呼んでおる。巷では後楽園の九龍城とも呼ばれているがな」
仁翔の話から、東京ドームの跡地を今ではそう呼んでいるとのこと。
周囲がスラムと化したため、近隣住民は旧東京ドームの中に入るどころか近付こうとさえしない。
噂では観覧席に違法なお店や住居を乱立させ、そこで売春や賭博、違法薬物の売買などが行われていると聞いている。
安全どころか危険地帯に足を踏み入れるようなもので、この仁翔という男を何処まで信じて良いのか、海斗は予測できないでいた。
そんな海斗の不安を他所に、後楽球陣城塞が目の前に姿を現した。
空気膜の屋根は取り除かれており、建物を支える鉄柱も所々に錆が目立っている。
施設の中から微かな光が漏れているが、スラムなのでライトアップされておらず周辺は暗闇に包まれているため、入るのに躊躇する建物ではある。
「さぁ着いたぞ。25番ゲートから入る」
「あの……入るの怖いんですけど」
「じゃあ一人で行動せい。もう助けてやらんからな」
そう言われたので、海斗は渋々仁翔と一緒に25番ゲートへ入った。
――そしてゲートを通過すると、仁翔が向かった先は地上の闇市ではなく地下に常設された自転車競技用のコース場だった。
「えっ、こんなところに競輪場があるなんて」
「ここは地上の闇市とは違って上流階級の歓楽街になっとる。表向きはスラムじゃが、地下を大幅に改造してカジノや高級料亭を隠れて運営しとるんじゃ」
見ると奥には様々なお店が競輪場のコースを囲むように立ち並んでおり、スーツを着た何人かの客が店の前で談笑していた。
「あれは……政治家の長谷川さんだ」
「今ではマスコミの盗聴が激しいからの~。一般の料亭では話し難いことも、ここではプライバシーが守られとるから大っぴらに話せるんじゃ」
「なんか漫画の世界みたいだ」
「あんまりジロジロ見るなよ。おまえさんも顔が知られたらマズイ立場じゃからな」
……どうしてマズイのか海斗には分からない。
あのミゼラムも自分に対しては特別扱いしていた様子だった。
「さて、さらに地下へ潜るから付いて来なさい」
「ええ……まだ地下があるんですか」
「そこは地上から切り離されたシェルターになっとる。核ミサイルが飛んで来ようがビクともせんぞ。限られた人間しか入れんから、おまえさんもその一人になるな」
「なんで仁翔さんはそんなに詳しいんですか?」
「儂がこの施設のオーナーだからじゃ」
そう言うと仁翔は足早に地下へと向かった。
そして大型のエレベーターに二人は乗ると、仁翔はセキュリティボタンを操作して行き先を指定する。
エレベーターは下だけでなく横にも移動しているようで、海斗には文京区の何処へ向かっているのか全く分からなかった。
「あの……色々と聞きたいことがあるんですけど」
「待っとれ待っとれ、着いたらゆっくり話すつもりじゃ」
エレベーターのドアが開くと、目の前に金庫のようなシェルターの扉が現れ、手前には受付嬢と思われる女性がパソコンのキーボードを打っていた。
「……仁翔様、お帰りなさいませ」
「扉を開けてくれ、客人を連れて来た」
仁翔から指示を受けると、女性はパソコンを操作してシェルターの巨大な扉を開けた。
「……この中で一ヶ月ほど過ごしてもらう」
「ええ!? 一ヶ月もですか?」
「衣食に関しては何一つ不自由させん。女を抱きたければこちらが用意してやるから安心せい」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
仁翔は海斗の言葉を無視するかのように、シェルターの奥にある日本家屋の建物に向かってスタスタと歩き出した。
慌てて海斗は仁翔を追い掛け、仁翔と共に建物の中へと足を踏み入れる。
建物の内装はいたってシンプルで、田舎にあるような木造建築のため、何処か懐かしさを感じさせるような趣があった。
そして畳が敷かれた部屋に通された海斗は、近くにあった座布団に腰を下ろす。
「ふ~、久しぶりに体を動かしたから疲れたわい。茶を持って来させよう」
「あの……聞きたいことが山ほどあるんですけど」
「分かった分かった、若い者はせっかちでいかん。で? メモヴェルスを渡した女性から何を聞いたんじゃ?」
「七奈美さんのことですか? 何も聞かされずに別れましたけど、俺の使命を教えるとか言ってました」
「そうか……ではおまえさんの使命とやらを教えてやろう」
仁翔は持っている扇子をパタパタと扇ぐ。
「おまえさんの使命は過去へ戻ることじゃ」
「過去へ……戻る?」
「儂の話を荒唐無稽だと思うなよ。もう異変の起きたイーテルヴィータは確定しとるんじゃ。おまえさんがメモヴェルスを手にした時からな」
「こ、これですか! こんなものが俺になんの影響があるって言うんです!」
海斗は七奈美から手渡された黄金色のカードを取り出すと、仁翔の前に差し出した。
「おまえさんにはそれが何に見える?」
「えっ、金色のキラキラとしたカードですけど」
「儂には一点の強い光にしか見えん。まるで太陽のように輝いておるから、眩しくて目を開けるのもやっとじゃ。早く仕舞ってくれとお願いしたいくらいにな」
海斗は慌てて財布の中にメモヴェルスのカードを入れた。
「あの20年離れめ……この光を頼りにおまえさんを見つけたらしい。まぁ儂もそうじゃから、いかにそれが目立つか理解してくれよ」
「20年離れ……それってタキシード姿の男のことですか? そもそも『善き者』と『悪しき者』ってどんな奴らなんです?」
――仁翔の話はこうである。
『善き者』は人間の愛や慈しみ、思いやりといった「ポジティブ」な感情を喰らい、それを糧とする者たちを指している。
対照的に『悪しき者』は人間の怒りや憎しみ、恨みなどの「ネガティブ」な感情を喰らい、それを糧とする者たちを指しているという。
つまりは神や悪魔といったポジションに該当するが、どうやらそんな単純なものではないらしい。
「ポジティブとネガティブは互いに相反する感情ではあるが、どちらも経験しなければ人間の中で芽生えることはない。だから必要とあらば平然と争いをも引き起こす。この世界で戦争がなくならないのは、『善き者』と『悪しき者』が結託しているからじゃ」
「そんな……」
「奴らは過去を支配し、過去に棲み着いておる。過去を書き換えることで一人一人の人生をコントロールしとるんじゃ。しかも、未来は一つだけでなく枝葉のように無限に分かれておる。多次元宇宙だのマルチバースだの呼ばれているが、おまえさんの人生も一本道ではないことを覚えておけ」
そう言うと、仁翔は出された茶を啜った。