人の痛みを喰らう者
「陽介……陽介っ!」
海斗は倒れている陽介を抱き上げたが、すでに意識はなく全身の肌は紫色に染まっていた。
ただ呻き声だけは聞こえており、激痛に耐えている様子がこちらにも伝わって来る。
「ああ~無駄ですよ、話し掛けても無駄無駄。その男はもはや生ける屍です……しかも殺すことすらできない。体内に入った原生種が神経にまで根を張ってますから、首を切り離そうが心臓を抉り出そうが再生を繰り返します。ただ脳に本人の意識が残っていますから、永遠に痛みに苦しむでしょうね」
海斗は怒りの形相でミゼラムを睨んだ。
「なんでこんなことすんだよ!」
「……なんでこんなこと?」
ミゼラムは軽く溜息を吐くと、海斗の髪の毛を鷲掴みにして持ち上げた。
「痛いっ、痛いよ離せっ!」
「あなたは私たち『悪しき者』の存在理由を知らないのですか? 人の子に転生するような愚かな真似をするから忘れてしまうのですよ。これでもあなたを深く尊敬していたのですが、とんだ期待外れのようですね。せめてもの慈悲としてすぐに殺して差し上げます。幻異界での敗北を再び刻むのです!」
そう言うとミゼラムは懐からナイフを取り出したが、海斗は暴れて抵抗し、ミゼラムの頬を爪で引っ掻いた。
ミゼラムは「キィィィ!」と奇声を上げ、痛みで海斗から目を背ける。
その隙を狙って海斗は逃げ出し、全速力で走ってミゼラムの視界に入らない場所まで辿り着いた。
(ごめん……ごめんな陽介。怖くて助けることができなかった)
海斗は涙を堪えながら地下鉄を目指した。
……しかし、駅の周辺もまた異変が起こっており、死人のように虚ろな表情で歩いている者が溢れている。
(もう地下鉄は使えない……走ってあいつから逃げるしかなさそうだ)
だがその時、虫が地面を這うような「カサカサ」という音が近くで聞こえた。
海斗は音のした方向へ振り向くと、そこには四つん這いになったミゼラムがこちらを睨んでいた。
ミゼラムの眼球は真っ黒に染まり、剥き出しの歯は鋭く尖っていて化け物と呼ばれるに相応しい風貌である。
「私から逃げられるとお思いでも? 一度視認すれば地獄の果てまで追い掛けますよ。私の美しい顔に傷を付けた代償を払っていただきましょうか。そうですねぇ……原生種の繭の中に放り込むというのはどうでしょう? あなたが生殖虫と一体化し、私の部下となって働いてもらうのも愉快ですね」
ミゼラムは甲高い笑い声を上げると、長い手を振り回して海斗を地面に叩き付けた。
凄まじい衝撃が全身に伝わり、海斗は激痛で気を失いそうになる。
「さぁてさてさて、こんな苦痛は微々たるものですよぉ。もっともっと憎みなさい、怖がりなさい、恨みなさい……その感情が私たちの糧となるのですから!」
自分の言葉に酔いしれるように、ミゼラムは何度も海斗の頭を踏み付けた。
「……あら、気を失ったんですか? 起き上がってください、ショーはまだ終わってませんよ」
ミゼラムはクククと薄ら笑いを浮かべた後、海斗に向かって口から大量の体液を吐き出した。
体液は凍るような冷たさで、海斗は一瞬で目を覚ます。
「た、助けて……」
「何を言ってるんですか、助けません」
そう言うと、ミゼラムは海斗の首を掴んで体ごと持ち上げた。
「もう諦めたようですね。少しは骨のあるところを見せてくれると思いましたが、やはり期待外れのようです。原生種を体内に入れますから、大人しくしてくださいね。大丈夫ですよぉぉぉ、痛いのは最初だけですから」
「おうおう、『20年離れ』の刺客が弱い者イジメとは情けないのぉ。ちったぁプライドを持たんかタワケが」
――急に声を掛けられたため、ミゼラムは驚いて海斗を手から放してしまう。
慌てて周囲を見ると、すぐ傍に小柄な老人が惚けた顔で立っており、その姿を確認したミゼラムの表情はみるみる青くなった。
「じ、仁翔!」
「ほほ~、儂の名前を知っとるのか。この界隈では有名になったようじゃの」
「貴様っ! ここへ何しに来た!」
「知れたこと、その青年をこちらに渡してもらおうか。おまえさんじゃ手に余るから、儂が預かってやると言っとるんじゃ」
「……断ると言ったら?」
「それは儂に喧嘩を売るという意味になるな」
……ミゼラムの頬に冷たい汗が流れ落ちる。
『仁翔』という名の謎の老人は、ミゼラムを前にしても怯むことなく、堂々とした様子でその場に立っていた。
ミゼラムは懐に収めているナイフに手を掛けたが、仁翔は冷静に状況を把握しているように見え、こちらが手を出した瞬間に何かが飛んで来るような殺気をも漂わせていた。
「ここは一旦引いて差し上げます」
「ほっほっほっ、ものは言いようじゃのう。逃げると言え逃げると」
「お黙りなさいっ! 私に手を掛ければこの幻異界がどうなるか貴様も知っているはず。脅しても無駄ですよ、無駄無駄無駄!」
そう言うとミゼラムは再び四つん這いになり、カサカサと音を立てながら後方へ下がって仁翔から離れる。
「……まるでゴキブリじゃなおまえさん。『20年離れ』に相応しい醜悪さじゃ」
「20年離れ20年離れ言うなっ! 私の名はミゼラムだ、覚えておけっ!」
そしてミゼラムは大きく飛び上がって建物の隙間へと消えた。
「やれやれ、騒がしい奴じゃわい」
仁翔は倒れている海斗に近付き、持っていた杖でトントンと軽く背中を叩いた。
海斗は朦朧とした様子で目を開け、ぼやけた視界で仁翔の姿を確認する。
「あんた……誰だ?」
「大丈夫かおまえさん。骨とか折れとるのか?」
「……い、いや、折れてはなさそうですけど」
「じゃあ儂が背中に負ぶってやろう。ここは危険じゃから一旦離れるぞ」
「ま、待ってください」
海斗はそう言うと、痛む身体を摩りながらゆっくりと立ち上がった。
「友達が……友達が苦しんでるんです。助けてください」
「ほう、どんな状態じゃ?」
「大量の原生種を体内に入れたとかどうとか」
「そうか……とりあえず見てみよう」
海斗と仁翔は倒れている陽介のもとへ向かうと、変わらず呻き声を上げて彼は苦しんでいる様子だった。
仁翔は陽介に近付いて容態を見る。
「……こいつは助からん。ここまで残酷な手段を取ると『善き者』たちも黙っていないと思うが、どうやらメモヴェルスの出現で混乱状態に陥っとるらしい。残念だが命を絶つしか他に方法がなさそうじゃ」
「そんな……」
「原生種の寄生は全身にまで及ぶ。神経が一本あれば再生を繰り返すから、首を切っても元通りじゃ。だから燃やしてしまおう」
仁翔は駅の近くにある用品屋に入ると、ありったけの燃料を手にして戻って来た。
そして燃料を陽介に振り撒き、懐からライターを取り出した。
「……なんで奴らはこんなことするんですか?」
「それは『悪しき者』が人の痛みを喰らうからじゃ」
仁翔はライターの火を付けると燃料に点火する。
陽介の身体を炎が包み、しばらくして呻き声が聞こえなくなった。