目覚め、そして異変
「うわっ! は、は、腹を刺された!」
飛び起きた穂積海斗はすぐに刺された腹部を確かめた。
だが刺されたような傷跡はなく、血だらけになっている様子もない。
どうやら寝惚けていたらしく、夢の中での出来事だったようだ。
「ふざけんなよ……今日は大学で試験があんのに」
海斗は大学の卒業に必要な単位が足りず、今回の試験を落とせば留年の可能性があった。
もともと講義を出ずに遊び惚けていたため、自業自得と言えばそれまでの話なのだが。
「しっかし最悪な夢だったよな、天使みたいな可愛い女の子に腹を刺されるとか……俺って恨まれるような女遊びしてたか?」
海斗はベッドから起き上がると軽く背伸びをして自嘲気味に笑った。
窓から外の景色を眺めれば雲のない青空が広がり、いくつかの建物が朝日に照らされ輝いているように見える。
(就活も済んだし、ここから見る景色も今年で最後かぁ……写真をスマホに残しておくか)
海斗はバッグからスマホを取り出すと、パシャパシャと外の景色を何枚か撮影した。
「……さて行きますか、今日の試験を終えたら卒業できそうだしな」
そう言うと海斗はシャワーを浴び、着替えて大学へ向かった。
いつもの駅へ行く途中、コンビニで食べ物を買うのが日課だった海斗は、店の中に入るとサンドウィッチを手に取ってカウンターに置いた。
「289円になります」
店員がそう言うと、海斗は支払いを済ませてサンドウィッチをバッグに入れた。
――その時である。
店の外から甲高い叫び声のようなものが聞こえ、一人の血だらけの男が自動ドアの前で倒れているのが見えた。
(……は?)
海斗は何が起こったのか分からず、店の中で呆然と立ち尽くした。
コンビニの店員は「救急車! 救急車を呼びます!」と背後で声を上げ、慌ててスタッフルームへと向かった。
客の何人かは倒れている男の様子を伺うため自動ドアの前に集まったが、異様な光景だったため、それ以上何かをするという訳でもないらしい。
コンビニの店員がスタッフルームから戻って来ると、外に出て倒れている男に向かって話し掛けた。
「救急車を呼びましたから安心してください! うわぁ……血の量が凄い……」
倒れている男から大量の血が流れ出しており、救急車が来るまで命が持つ可能性は限りなく低いように思える。
コンビニの店員はどうして良いか分からず、すでに涙目になっていた。
「あの……この中にお医者さんとかいますか?」
海斗は外の様子を伺う客に話し掛け、医者がいるかを尋ねたが、全員が首を横に振った。
(よりにもよって今日かよ……試験に間に合わないじゃねぇか)
この場を無視して駅へ向かっても良いのだが、自動ドアの前では大量の血が地面を染めているため、出ようにも出れない状況ではある。
「お、おい……済まないが急いでるんだ。後は任せたよ」
客の一人が店員の横をすり抜けて外へ出ようとした。
当然だが靴や服の裾に大量の血液が付着する。
「ああもう……ツイてねぇな」
――出て行こうとした客がそう呟いた時、倒れていた男は甲高い声を叫びながら急に立ち上がった。
海斗を含め客の全員が驚愕し、血だらけの男から距離を置くため、店の奥にある飲み物の陳列コーナーへ逃げた。
見ると血だらけの男は店から去ろうとした客を捕らえ、決して離そうとしなかった。
(嘘だろ……まるでホラー映画だ)
何かの撮影に巻き込まれたんじゃないかと海斗は勘繰ったが、周囲の反応を見るにどうやらそうではないらしい……それは店員や客の表情を見て理解できる。
「店員さん! 裏口があるなら教えてよ、そこから俺ら逃げるから!」
「わ、分かりました……スタッフルームに裏口があります」
店員はスタッフルームに全員を案内すると、コンビニの裏口から海斗たちを逃がした。
(よ、良かった……あの捕まってる人には悪いけど、どうしようもないもんな)
海斗は罪悪感を持ちつつも、あんな異常事態に関わりたいとは1ミリも思わなかった。
おそらく救急車が来て何とかしてくれるだろう……と、楽観的な考えに切り替えて急いで駅へと向かう。
――だが、異変はそれだけではなかった。
いつもは賑わう駅の構内が閑散としており、人通りもまばらで明らかに雰囲気が違っている。
奇妙なのは、すれ違う人たちが俯き加減で常に視線を下に向け、まるで死人のようにふらふらとした足取りで歩いていた。
また、壁に向かって頭を打ち付けている者もいるため、ここにいる全員が精神を病んでいるかのように見える。
(なんだよこれ……どうなってんだよ)
海斗は戸惑いつつもタッチ操作で改札を通ろうとしたが、エラーの電子音が鳴り止められてしまう。
何度通ろうとしてもエラーが出るため、仕方なく近くの駅員に事情を説明する。
「あの……改札で止められるから困ってるんですけど。定期は切れてないんで通してくれませんか?」
駅員は海斗に背を向けており、話し掛けても反応がない。
時折「うげげげ……うご、うごごげぇ」というような呻き声が駅員から聞こえ、それが口から発せられたというより、被っている帽子の中から聞こえたような気がした。
「すいません、俺の話を聞いてます?」
海斗がそう言っても駅員の反応はなかった……が。
「お客さんねぇ、私はストレスが溜まってるんですよぉ。上司がねぇ、私をイジメるんです。お客さんたちもねぇ、いっつもクレームばかりで私を困らせるんですよぉ。だから……だからねぇ、言いたいことがあり過ぎて、こぉぉぉんな頭になっちゃったんですよぉ」
背を向けたまま突然喋り出した駅員は、被っていた帽子を脱ぐと頭頂部を海斗に見せた。
髪の毛の間に無数の口が瘤のように生えており、そのひとつひとつが意味不明な言葉を発し、海斗に向かって喚き散らした。
「う、うわぁぁぁ!」
海斗はあまりの恐怖で腰を抜かしそうになったが、急いでその場から逃げ出した。
コンビニでの出来事と同様に、今日だけは何かが違っている。
まだ夢の中ではないかと何度も自分の頬を引っ叩いたが、目覚める様子もなく悪戯に時は過ぎ去ってゆく。
海斗は息切れした様子でコーヒーショップに飛び込み、乱暴に店のドアを閉めた。
(く、くそっ……なんなんだよ今日は! 夢なら覚めてくれ!)
海斗は息を整えながら近くの席に腰を下ろした。
だが異様なことに店の中は人っ子一人おらず、店員さえも姿が見えない。
この世の人間がすべて消えてしまったのではないだろうかと怖れるほど、周囲は水を打ったように静まり返っていた。
(休業日か……? いや違うな、さっきまで人のいた気配が残ってるような気がする。さっきの駅と同じように、神隠しでも起こったみたいだ)
自分の置かれている状況があまりにも不可解なため、海斗の額から大量の汗が流れ落ちた。
こんなホラーな展開は「夢の中」でしかあり得ない。
腹を刺された感覚も、この荒唐無稽な状況ならいくらでも辻褄が合いそうだと海斗は自嘲気味に笑う。
――すると、店の奥からコーヒーを啜る音が聞こえた。
海斗は我に返り、一人の女性がテーブルに座っていることに気が付いた。
血だらけになっておらず、頭に無数の口が生えている様子もない。
ようやくまともな人間に出会ったと海斗は喜んだが、思えばおかしくなったのは自分かもしれないため、乱暴に店のドアを閉めたことを恥じた。
その女性に「おかしなヤツ」と思われたかもしれないと考え、海斗は背筋を伸ばして冷静さを装い、店員が現れるまで注文待ちのフリをした。
――だが不思議なことに、近寄って来たのはその女性だった。
「おい貴様、冷静さを装うな」
女性は海斗の前に座るとそう言い放った。