新たな家族
※時系列:本編終了から数年後
わたしは浅い眠りのなかにいた。数年ぶりに引いた風邪のせいで、五感にありとあらゆる不快さがわだかまっている。
真夏にもかかわらず全身を這う悪寒。
かんでもかんでも垂れてくる、液体と化した鼻水。
炎症を起こしているせいでいがらっぽい喉。
妙な塩辛さだけが残る舌。鼻詰まりでばかになっているのにつんとくる、冷却シートのメンソール臭。
発熱のせいなのか、がんがんと響く眉間への痛み。
そんな絶不調の中見てしまった夢はろくなもんじゃない。
さっきまでわたしの脳内には、3DCG覚えたての学生が作ったような極彩色のポリゴンが漂っていた。カラオケ映像や昔のスクリーンセーバーとかで流れてたやつね。
「……あっじぃ」
うとうとしているうちに時刻は正午を過ぎて、室内はサウナに放り込まれているような熱気に支配されていた。
薄い毛布をたまらず跳ね除ける。
病人だから体を冷やさないように扇風機にしていたけど、許容量を超えた室温では熱中症まっしぐらだ。縋るようにリモコンに手を伸ばす。
背中にはじっとりとパジャマが貼り付き、寝汗と皮脂によるかゆみを頭皮にむずむずと感じる。
頭を預けていた氷枕はとっくに中身が溶けて、首を動かすとぽこんと水音が立った。
こもっていた温風を吐き終えたエアコンの風は、徐々に冷気となって汗腺が決壊した身体へ降り注ぐ。
熱はまだ下がりきってなかったようで、風を受けた瞬間ぶるっと背中に寒気を覚えた。思わず胎児のように身体を丸める。
暑いのに寒いという相反する感覚が、ごっそり体力を抜き取っていく。
ちょうど、こんこんと控えめにドアを叩く音が聞こえた。どうぞと返事をすると。
「体調はどう?」
飲み物を抱えた皐月が入ってきた。まだ熱が逃げ切っていない室温にうわっと声が上がって、急いでわたしの身体を起こしにかかる。
午後になってピークの高温に達し、熱中症を起こしてないか見に来てくれたらしい。
「だいじょうぶ。意識もある。クーラーもそのうち効いてくるから」
「で、でも。身体すごい熱いよ。脱水も怖いからこれ飲んで」
「ありがと」
眼前に突きつけられたポカリのペットボトルを受け取り、勢いよく中身を呷った。
この殺人的な猛暑の中では、山の清水にも似た味わいに感じる。きんきんに冷えた甘露が喉から胃に流れ落ちて、空きっ腹に満ちていく。
皐月に言われるまで水分補給の考えに行き着かなかったあたり、わりとやばい状態だったのかもしれない。
その間にも、手際よく皐月は部屋を行き来していた。
保冷剤がぎっしり詰まった袋を2つ、わたしの脇の下へと挟み込む。手っ取り早く熱を逃がすやり方らしい。
「気分は大丈夫?」
「うん」
空になったペットボトルを置いて、マスクをつけて、皐月へもたれる。
こっち来なと膝をぽんぽん叩いていたので、お言葉に甘えて。
一気飲みできるほど身体は水分を欲していたようで、たぽたぽに膨れた胃が重たい。
しばらく団扇を手にした皐月からの風を受けて、だるさが抜けるまで回復を待つことにした。
皐月の引き締まった太ももは、すべすべでひんやりしてて、そのまま寝れそうなくらい心地が良い。
ぜんぜん汗臭くないし、敏感になってしまった嗅覚に適応できてるのがすごい。
むしろ、気遣ってケアしてくれてるのかもしれないけど。
「ごめん、わたしいまめっちゃ汗くさいと思う……」
「夏場なんだから気にしないよ。落ち着いたら身体拭いてあげるから」
お母さんはいたわらないとね、と皐月が下腹に手を置く。ゆっくりと撫で擦られて、ちょっとくすぐったい。
「妊娠中は抵抗力が落ちるって、本当だったんだなあ」
夏でも気を抜かず手洗いうがいは徹底していたのに、これだもん。
もうすぐ6ヶ月だけど、ようやくお腹も出てきた。ついでに胸も。
乳腺が発達するとは聞いていたけど、1カップも増えるとは思わなかったよ。
今はマタニティ用のブラとショーツ、冷やさないように伸縮性にすぐれた妊婦帯(腹巻きタイプ)を着用している。
結婚して、仕事もようやく軌道に乗って、高校を卒業したレイちゃんはもとのお家に戻って。
次の里子を迎えようと話していた矢先、『ふたりは子供作らないの?』と友人知人から聞かれたのがきっかけだ。
もともと、わたしも皐月も『いま親代わりの大人を求めている子供の力になりたい』という考えが先で、自分たちの子供を持つことは二の次だった。
子供を増やす前に、守るべき命がある。いまこの世にいる子供たちに目を向けたい。それだけを胸に生きてきた。
だけど、不思議なものだね。
意識してお互い、『この人の子を宿したい』って考えにシフトするって。愛しているって、そういうことなんだろうけど。
皐月は若々しい見た目とはいえ、年齢的にはギリ高齢出産(初産だと35歳以上)の範囲だ。病気や難産のリスクもあるし、つわりや陣痛に苦しむ姿なんて見たくない。
まだ20代である己が引き受けることに、ためらいなんてなかった。
嘘、ちょっとあったかも。主につわりのときに。
こればかりは人体の2つ目のバグだと思うんだ。1つ目は生理痛ね。
一日中船酔いしてる感覚味わってみ? 二人目もよゆーとかイキっててすんませんでしたーって土下座するレベルだから。
つっても重症妊娠悪阻の人は出産直前まであるっぽいし、長引かなかっただけマシだけど。
「夏風邪なんて引いたことなかったから油断してた。風邪どころか、熱中症のリスクも高まるのね……」
「基礎体温が上昇・新陳代謝も良くなり汗をかきやすくなるためだっけ。私もまだまだ勉強中の身ではあるけど」
皐月が苦笑いを浮かべつつ、洗面器の中のタオルを絞る。
なんというか、今のわたしの体は産むためだけにあるような感じだ。
仕事は穴を空けてしまう日が増えてきたし、家事はほとんど皐月かたまに手伝いに来てくれるお義母さん方に任せっぱなし。
皐月だって激務の教育現場で毎日くたくただろうに、嫌な顔ひとつせず身の回りの世話をしてくれている。
わたし、なんにも返せてない。赤ちゃんがいるのに赤子と変わらない自分に、ときどき泣きそうになる。
だけど無理して流れてしまっては元も子もないので、安産を祈り母体を労ることが今は最優先なのだ。
「じゃあ、よろしくおねがいします」
体を拭くため、汗ばんだパジャマとブラジャーを外した。付き合いたてはこんな堂々とパートナーの前で脱ぐなんて考えられなかったけど、今はそうも言っていられない。
まだ、脱がないとお腹の膨らみは分からないほどだ。おへそはちょっと出張ってきたかな。
「だんだん大きくなってきたね」
「中期でもこれくらいなのね。個人差があるのかな、画像検索するともっと膨らんでる人も出てくるけど」
「巨大児か双子って場合もあるんじゃないかな? 診察でとくに言われてないならちゃんと栄養いってるってことだし、大丈夫だと思うけど」
わたしの背中を、皐月は丁寧に蒸しタオルで拭いていく。
あー、気持ちいい。べたついた汗が拭き取られて、爽やかな空気が肌を撫でていくこの瞬間がたまらない。
「おっ」
お腹の中をみみずが這ってるような、こそばゆさを感じた。お前もこの気持ちよさを分かってくれたか。
胎動って(羊水の中にいるわけだから)泡がぽこぽこ立つイメージがあったけど、こんな感じなんだね。おっとまたもぞもぞ来ましたよ。
「皐月、この子めっちゃ活きが良い」
そりゃ生きているに決まってるだろう、と背後で押し殺したような笑い声が響く。
「検診でもそろそろ、性別が分かるんじゃないかな。胎位によっては見えないこともあるから、定期診断で何回か受けたほうがいいかもね」
「もうそんな時期か。分かったら、名前やベビー用品も用意しよ」
「キラキラネームだけにはならないように、名付けトークはボイレコに録音しておくからね」
「マタニティハイってなると耳も貸さなくなる言うもんね……そこまでは狂いたくないわ……」
語りかけるように、二人で下腹にそっと手をあてる。
妊娠したての頃はもうママなんだって、ぜんぜん自覚がなかった。
母性っていつ芽生えるんだろうって不安だったし、つわり地獄に耐えているときはいっそ殺してくれって懇願したときもあった。
それを乗り越えて、今、たしかにここには命が宿っている。
わたしたちの、愛の結晶が。
あ、なんか自覚したら泣きそうになってきた。親になると涙もろくなるのかな、人間って。
「彰子、いまは甘えていいんだよ。私は君の妻であり、里親でもあるんだからね」
憂い顔になるわたしを察して、皐月は優しげな声で頭を撫でてきた。
うん、と幼児みたいにか細い返事をして。新しい下着とパジャマに着替えたわたしはふたたび皐月の膝に寝っ転がった。
「じゃあ、もうちょっとここにいて」
「承りました」
安堵の涙がひとしずく、頬を伝う。堰を切ったように、ぽろぽろと。
でも、喉の熱さも締め付けられるような胸の痛みも感じない。
心地よいだるさと、すべてを任せて安らぎに包まれていたい欲からわたしは流している。
皐月がタオルを差し出して、目元にそっと当てた。
胎教に聞かせようかと、やがて皐月がTVのチャンネルを回した。
ちょうどN○K教育テレビではうたのお兄さんとお姉さんが映っていて、元気に画面内を駆け回っている。
幼稚園くらいの子供たちと歌って踊って演じる、かつてわたしも観ていた番組。
施設に入るよりも前の記憶が、おぼろげだけどよみがえってくる。
「懐かしいな……ちょうどいまくらいの夕方にこれ、やっててさ。何十年も忘れてたのに、流れてた歌とか今でも覚えてる」
「私の頃にもあったよ。彰子や他の子たちと観てたこともあるけど、覚えているかい?」
「んー……ぼんやり」
そう、ぼんやりとだけど。たしかにそんな感じの記憶はある。TVの歌に合わせて、子どもたちみんなで踊ったときのことを。
家では母親の休息タイム代わりに流されていたから、いつもひとりぼっちで観ていたときの記憶も。
脳ってほんと、思い出せないだけで記憶は引き出しに仕舞われているものなのだと実感する。
思い出すきっかけの鍵があれば、こんな昔のこともぽつぽつと浮かんでくるものなのだ。
だから、なのかなあ。皐月と一緒に観ているから、こんなにも懐かしさを覚えているのだろうか。
その頃からどこかで、わたしは皐月をちっちゃなお母さんって認識していたのかも。
「いつか、3人でこれ観ようよ」
「うん、そうだね」
だんだん遠ざかっていく皐月の声とTVの音声をBGMに、わたしはまぶたを閉じる。
陽が傾いてもまだまだ暑い黄昏時。
いつか過ごした夏のノスタルジーに浸りつつ、たゆたうまどろみに意識を沈めていった。
お久しぶりです。本編ではできなかった要素をここで入れられてよかったです。




