同居初日
明日で3月もおしまい。新学期まで残り数日となった。
それに合わせたのか面会交流を経て、いよいよ正式に委託されることが決まった。
なのでわたしの部屋では、朝食後にプチお別れ会という名のお菓子パーティーが催されていたんだけど。
「よっしゃ。今日から使い放題だぜ」
「せめて形だけでも寂しがれよ」
ルームメイトが去るというのに、目の前の女はガッツポーズをかましながら小躍りまでしやがっている。
二人部屋が一人部屋になるならそっちの喜びのほうが大きいか。
「どうせ、店では変わらず会うじゃん」
「それもそうね」
この薄情女、アスカは幼少期からの施設仲間であり、今のバイト先の同僚でもある。
彫りの深い顔立ちで、髪は赤く、目の色は緑。どう見てもアジア人ではない。
なのに日本語は全く違和感のないレベルで流暢で、それ以外の言語はからっきしだ。
最初は、西欧人風にカスタムしたDBだと思った。
だけどアスカは、れっきとしたVB。
施設の子は基本複雑な事情を抱えているので、それ以上の深入りはしないのが暗黙のルールだ。
「あきちゃん、おうちに帰るの?」
お行儀よく正座して、お菓子を食べていた女の子が振り返る。
他の小学生もそれを聞いて『いいなー』『早く大きくなりたいねー』なんて夢のある台詞を口々につぶやいている。
「よくこんな奴と暮らせる変人が来たもんだよ。こっちは帰る家どころか、」
言い終わる前に肩に手刀を振り下ろす。
ぐげぇと大げさなダミ声が漏れた。空気読めや。
「え、なんて?」
「ただの嫉妬。わたしがいち抜けたから」
「さびしくないよアスカちゃん。まだわたしたちがいるからね」
アスカを取り囲むようにわらわらと集まる微笑ましい光景を見て、どっちが大人なんだかと苦笑いを浮かべる。
「今生の別れってわけじゃないんだし。たまにこっちには遊びに行くわよ」
「すーぐ音を上げてぴーぴー逃げ帰ってくるんじゃないぞ」
「進学かかってんだからするかぐげぇ」
遠慮なくアスカから背中をはたかれる。
奴なりのエールなのかさっきのチョップの仕返しなのか。わからないくらい痛かった。次覚えてろよ。
「じゃ、行くわ」
「またねー」
「お達者でー」
日野から迎えに来たとの通知がスマホに届いたので、あとは好きにやってていいと残して退場することにする。
外に出た瞬間、春霞の白さが視界いっぱいに広がった。まぶしさに目を細めて、こちらに近づいてくる日野に軽く手を振る。
春の空は水蒸気が多くふくまれているからか、晴れていてもぼんやりかすんでいる。今日は風がほとんどないから、カーディガンでも少し暑く感じるほどだ。
職員さんと駐車場までわらわらとついてきた子どもたちに見送られて、わたしは助手席に乗った。
行き先はもちろん、日野の住むマンションだ。
新幹線の高架下を抜けると、水田が広がる平地へと景色がひらけた。道路脇には菜の花がちらほらと咲いている。
田起こしが始まった頃だからか、まっさらな土の上をトラクターが耕していくのが見える。
見晴らしがいいここからだと、もう目的地がおでましだ。
「さ、着いたよ」
駅ロータリーに面した、地上15階建ての分譲マンションがこれから生活することになる住まいだ。
駅周辺に連なる建物のなかでは、ここがもっとも高層のため遠くからでも目立つ。
車を降りて、自動ドアに仕切られた風除室へと向かう。ここから先は非接触キーがないと入れない。
解除する日野に続くと、床一面に大理石が広がるエントランスホールが姿をあらわした。
マンションに入った経験がほとんどないわたしからすると、いつ来ても高級ホテルのロビーかと錯覚してしまう。だって応接スペースとフロントあるし。
「ここ、賃料高いでしょ。沿線だし」
「都心まで一本だし、ベッドタウンとして栄えているからね。相応のお金は必要だけど、住みやすさと景観は妥協したくなかったんだ」
「乗り換えがないから、駅前なのに静かね。交番も隣接してるから治安もよさそうだし」
「郊外だから、車か自転車が必須ではあるがね……」
今のマンションってこんなにセキュリティ高いんだ。
エレベーターだって商業施設にあるやつとは違う。受信機にキーをかざさないと、ボタンが動作しないシステムになってて。
里親審査が通った理由のひとつだろうね。
「お嬢さまのお部屋はこちらでございます」
ホテリエを気取った日野から、5帖ほどの洋室に案内される。
バルコニーに続く南向きの窓からは西日が射し込んで、フローリングを鈍く照らしている。温く、日当たりがいい部屋だ。
中にはすでにベッド、クローゼット、学習机といった最低限の真新しい家具が配置されている。
3LDKって広いね。ずっと二人部屋だったから、こんなに広々とした空間を独り占めして良いのかとわたしは軽く感動を覚えていた。
アスカがテンション上がっていたのも分かるや。
まずは歓迎パーティーにしようということで、荷物を置いてリビングへと向かった。
入り口で待ってた日野が、エスコートでもするかのように手を差し出す。
「…………」
一瞬伸ばしそうになった指先を引っ込めて、握りしめる。
またこないだみたいに意識しちゃいそうだし。
だいいちもう、そんな歳ではないのだから。
「駅前通りに最近オープンした店なんだけどね。これが絶品なんだ。行くといつも混んでて」
「へえ、期待」
「苺と生クリームのやつにしたけど、食べられる? 嫌いだったらごめんね」
「美味さよりもウケ狙いの食べ物じゃなけりゃ、なんでも食うよ」
「そーかそーか。好き嫌いがないのはいいことだ。より美味いものに出会える確率が広がるからね」
かつて偏食が酷かったことは黙っていよう。
つくづく、母親には迷惑をかけてばかりだったな。
「どうぞ」
白磁の真新しいカップに、香り高いコーヒーが注がれていく。
リビングはモデルルーム並みに片付いていて、来客を意識したセンスにあふれている。
テーブルクロスも、ランチョンマットも、ティーセットも、生花を挿した花瓶も、ドライフラワーの壁飾りも。
気分はカフェに訪れた客のようだ。
「いただきます」
フォークを入れて、一口を運ぶ。とたんに優しい甘さが味覚を包み込んだ。
スポンジケーキの柔らかさと、クリームのふんわり溶けていく食感に両目を見開く。
糖分が控えめなので胸焼けすることもなく、苺の甘酸っぱさを引き立てている。
日野が絶賛するのも納得の味だった。
「うま……」
「だろー?」
へへっと、勝ち誇ったように日野が肩を揺らした。
それから大きめに切ったケーキの欠片を口にして、んーと歓喜の声を漏らす。
一緒に食事したときに知ったけど、日野は美味しいものを食べたときの反応が分かりやすい。
食レポを求められた芸能人のように全身で美味さのリアクションを取って、幸せそうに目を細める。
なのに一連の動作にわざとらしさがないのは、食べることが心の底から好きなんだろう。
食べ進めていくうちに、わたしの脳裏には懐かしい光景が浮かび上がってきた。
小学生の頃、何度か同級生の家にお邪魔する機会があった。
お金持ちの家に行ったときの記憶は、今でも鮮明に思い出すことができる。
門がくそでかくてだだっ広い庭があって、グランドピアノがでんと鎮座してたリビングは衝撃的だったな。
お母さんは意外と普通の方で、トレーナー姿にスウェットパンツという出で立ちだったけど。
ケーキなんて誕生日でしか食べられないものだと思っていたから、おやつに普通に出てきてお金持ちってすげーと思った。
優しいお母さんに、きれいなおうちに、豪華で美味しいお菓子。前世でどんな徳を積めば、そこに産まれてこれるんだろうか。
ひとときのぜいたくを味わいたくて、その後もたびたびその家には訪れていた。
大好きな時間だった。
『ママから、あきちゃんはもう誘わないでって言われたの』
次の友達も、また次の友達も。
欠けた愛を他人の家庭に求める迷惑な問題児のまわりには、いつしか誰もいなくなってしまった。
すべて自分のせいだ。
己の非常識さを理解するのには、数年の歳月を要した。
人様の家に行くときは手土産を持参することも。冷蔵庫を勝手に開けたり歩き回ってはいけないということも。ご飯の時間までには帰るということも。きちんとお礼を言うことも。
わたしはなにひとつ知らなかった。
「…………」
コーヒーの芳しさが鼻に抜けて、舌先には苦味と酸味が残される。
封印していた黒歴史が呼び醒まされたからなのか、鼻の奥と喉が熱い。
胸がいっぱいに詰まって、こみ上げてくるものがある。
バカか、わたしに泣く権利なんてないのに。泣きたいのは当時迷惑していたお母さん方だろうに。
戒めても、己につける感傷はさらに涙腺を刺激するだけだ。
だめだ、こぼれる。
フォークを置いて、傍の可愛いケースに入ったティッシュに手を伸ばした。
感情の水位は下がることなく、ついに視界がにじみ始めた。
くそ、なんで涙って止めたくても止められないんだよ。ケーキ食いながら泣き出した変人と思われても仕方がない有様だ。
「ちょっと花粉症で」
ばればれの嘘をついて、これ以上空気を台無しにする前に席を立とうとした。
「彰子、おかわりいる?」
……へ?
あまりにも状況にそぐわない発言に、一瞬涙が引っ込んだ。
日野がでかいケーキの箱を取り出したもんだから、空気読めよと吹きそうになる。
ショートケーキ買ってきたんじゃないんかい。
「……まさかのホール?」
「いつもあそこで買うときはホールケーキだよ」
「太るぜ? 2000カロリーいくよそれ?」
だって材料費の高騰で最近のケーキってちっちゃいじゃないかー、と大食い主張をかまして、日野は5号ほどのケーキを器用に切っていく。
「彰子も、これじゃ足りないでしょう。もっと食べていいんだよ」
「ちょ、ちょい待てや」
日野にはわたしの表情が認識できてないのか? いま目元腫らしたブス顔さらしてんだぜ?
パニクるわたしを、日野はまったく気にも止めない。空になったわたしの皿に、新たにケーキが取り分けられる。
「この状態の人間におかわりって聞くか普通」
「え、もういらないってこと?」
「いや食べるけど」
癪だけど、食欲には嘘をつけない。
日野はだよなーと笑うと、脇にあったウェットシートを取り出す。それからわたしの目元に軽く押し当てた。
化粧を落とさないように、そっと伝う雫をシートに吸わせていく。
「泣きたくないのに泣いちゃう日も、笑っちゃいけないのに吹き出しちゃうときもあるでしょう。それが人間なんだから」
拭き方は優しく、迷いがない。あっという間に不快な生暖かい感触は取り払われ、シートの冷たさが肌にひりつく。
「ほら、ちーんして」
次はティッシュを鼻に近づけてきたので、さすがにこれは自分でできるわいと抵抗した。
子ども扱いされているのに、優しい声と指が反発心を削いでいく。
それどころか、温かさに触れてまた喉が引きつっていくのを覚えた。
「ごめ、また」
「いいよいいよ。身体に溜めると毒だからね」
背中に、日野の手のひらがぽんと弾む。
アスカとは比べ物にならないくらい優しいのに、どこか力強さを感じた。
顔に出ていたのか、日野の声が優しさを帯びていく。
「もうちょっとこうしていようか」
もういい、と残ったプライドから舌が反抗しそうになる。だが幸か不幸か、喉から出たのはひくついた息だ。
今はあく抜きをするべきなのだろう。そう身体も言っているのだから。
小さく頷くと、無言で腕が伸びてきた。かすかに震えるわたしの背中に、温かい手が何度も行き交う。
日野が言う毒素をぼたぼた垂らしながら、鼻をちんとかんだ。情けない光景なのに、丸まった背中はなかなか正せない。
甘えてるのか、わたし。
母親の虚像に飢えていた幼少期と変わっていないことを自覚させられ、かあっと血がのぼっていく。
でも、あの頃と違うのは。
友達のお母さんはどこまでいっても他人でしかないけど、目の前の女性は他人から自分のために親代わりになってくれた人だと言うこと。
だから、こんなにもみっともない顔ができるのだろうか。
やっぱマザコンなんだろうか、わたし。
「よし、そろそろ食べようか」
あれから数分が経過して、中断していたお茶会第二ラウンドが再会した。
新しく切ったケーキにぱくついて、日野が頬を緩ませる。
ささやかなぜいたくに目を輝かせる姿が、顔も思い出せない級友とだぶった。
きれいなおうち、おいしいお菓子、優しいお母さん。
切り取られた楽しかった頃の記憶が今と重なって、塗り替えられていく錯覚を感じる。
胸に淀んでいた痛みは抜け落ちて、とっくに目元は乾いていた。
そうだ、ここからわたしは変わるんだ。
よい関係を築き、普通の暮らしを手に入れるための一歩をいま踏み出そう。
みじめだったあの頃の自分とは、いい思い出を作って少しずつおさらばしていくんだ。
「おかわりのケーキはより美味しいなあ」
「そうね。カロリーが怖いけど」
枯れた喉に、甘味を補給する。
2個目のケーキは、ちょっとしょっぱかった。