従姉で里親の先生が彼女になった
中途半端な時間に目が覚めた。
充電中だったコードを手繰り寄せ、スマホを掴む。
ぼやけたデジタル数字を睨み、輪郭を捉える。
指し示す時刻はまだ朝の5時に差し掛かるところで、まぶたが重い。
カーテンの向こうは薄暗かったが、今日は鳥の爽やかなさえずりが聞こえる。
雨だけは上がったようだ。
まだ二度寝できるなと夢の世界に突入しようとして、脳内の映写機が急速に逆回転を始めた。
昨日の光景が、日野とのやりとりが、一生涯忘れられない瞬間がフラッシュバックする。
世界が色づき、光が差し込み、一気に視界が明瞭になった。
一瞬のうちに覚醒したわたしは、上体を起こして誘う眠気を払い除ける。
昨日まで恋人だった毛布は、今日から二番手だ。
あれからほんの数時間しか経過していない。
祭りの会場で友人たちに背中を押されて、誘導されるがまま抱きついて、想いを伝えて、そして。
一連の出来事は非日常のような夢心地として脳裏に漂っていて、今だ実感が薄い。
日野から返事をもらったということは、今日からわたしたちの関係は……つ、つきあうってことで。
同居が……ど、同棲生活になったということで。
現状を確認すると、甘美な響きがいくつも頭に浮かんでくる。
夢のような立場にいる幸運と幸福を噛み締め、ベッドの上をダンゴムシみたいに丸まってごろごろ転がる。
嬉しいという感情が鋭敏になると、情緒を乱す痒い棘となるらしい。
SNSとかで『は? は?』『待って待って待って』『やばばばば』みたいに語彙力を失った歓喜の発狂構文を目にするけど、今のわたしもこんな感じなのだろう。
「…………」
おぇ。
脳みそをぐわんぐわん揺さぶりすぎて、いい加減目が回ってきた。
そのうち頭痛と吐き気まで催してきて、不快な鼓動と冷や汗を覚える。
朝食前に食欲失せることすんなよとセルフツッコミして、力なく乱れたベッドの上に大の字になる。
結ばれてからがスタート、その言葉の意味を実感する。
必死に外堀を埋めて、わたしはスタートラインへと立った。そこからの景色は、昨日まで見えていたものとぜんぜん違う。
変わる環境と世間体、施設への報告、親族への報告、これからの付き合い方、進路。
さまざまな問題と悩みが浮上して、次なる壁へと立ちふさがってくる。
そして。隣に並べたと思っていた日野の背中は未だに遠い。
当然だ、交際を受け入れてくれたからって舞い上がるには早すぎる。
揺らがない感情などありはしないのだから。
子供と大人の恋愛観は違う。
子供は惚れた腫れたのシンプルな感情で、恋愛経験値を積み重ねていくけど。
大人はこの先の人生を見据え、安らぎと生活の安定を相手に求めて判断する。
わたしは愛すること、愛されることに努めなければならないのだ。
つまり、長々と遠回りしたけど。
日野が、わたしにしてもらいたいことってなんだろ。み、未来のパートナーとして。
それだけをわたしは知りたくて、起こされる前にリビングへと向かった。
「お、今日は早いね」
日野は弁当を詰めている最中だった。
髪と服装はとっくにセットを終えて、どこに出ても恥ずかしくない格好でてきぱき家事をこなしている。
いったい、何時に起きてるのやら。
「今日からはひとりで起きられるようにする」
宣言して、わたしは厨房へ入った。なにか手伝えることはないかと。
やってもらって当たり前。好意に甘えて恋人を家政婦扱いして、関係に亀裂が入ったケースは数え切れない。
同棲生活も結婚生活も、共同生活の営みなのだから。
年齢差があったって関係ない。いつまでも保護対象ではいられないのだ。
「んー、そうだね。その心遣いはうれしいけど、まずは彰子もお弁当詰めたらどうかな」
「そ、そうね……」
するべきことを見落としていた。恥っず。指摘されて、飛ぶ鳥を落とす勢いで声がしぼむ。
お弁当用の冷食をレンチンしつつ、横目で卵を焼く日野を見やった。
いつもとまったく変わらない、ように見える。
それが日野のもつ安定と安心感ではあるけど、同時に不安を覚える。
何が起きても仕事がある日常と地続きであるわけだから、大人はさっさとスイッチを切り替えられるのかもしれないけど。
でも、日野も記憶が確かならこういう経験は初めてなんだよね?
やっぱり、わたしが子供だから?
昨日のあれは思い違いだったんじゃないかと不安の影が濃くなり、関係性を確かめたいと喉が震えだす。
めんどくさい女になりかけた感情を押し留め、おにぎりを作るために炊飯器の蓋を開けた。
とたんに、湯気とともに舞い上がったお出汁の香りが鼻を突く。
部屋を出たときからやたらと漂っていた、いい匂いの正体はこれか。
蒸したカニのほこほこした身が米粒とまじりあって、つやつやと光っている。食欲をそそる光景がお釜の中に現れていた。
「ふふふ、美味しく炊けてるだろう。今日はちょっと奮発してみたんだ」
得意げにドヤ顔をかまし、日野は隣のコンロにある鍋の蓋を開けた。
いつもなら味噌を溶き豆腐や芋やきのこが浮かんでいるお鍋は、今日はほんのり白く濁っている。
煮えて殻の開いたはまぐり、手毬麩、彩りに三葉が添えられ上品さを醸し出していた。
味噌汁じゃなくてお吸い物だなんて、珍しい。それ以上にカニの炊き込みご飯とか、これまでの食卓に出たことなんてなかった。
なんかのお祝いに出る食事みたいだ。お祭りまでにはまだ日にちがあるのに。
「どうしたの、朝から」
「そりゃあ、交際記念日だもの。こういうのは大事にしたいからね」
……あ。
よかった。ちゃんと覚えてくれてたんだ。
日野にはっきり態度と言葉にされたことにより、キッチンの照明が一段階明るくなったように視界にまぶしさが広がる。
さすがに昨日の今日だから鯛は用意できなかったけど、と形から入ろうとする日野に思わず笑みがこぼれた。
誰かと作って、一緒に食べる。
『結婚生活ってこうなのかなあ』といつか彼女が言った台詞を、わたしは思い返していた。
まさか、ガチのマジのリアルになるなんてね。
「ねえ、日野」
食べ終わったタイミングで、わたしは聞いてみた。
なにかわたしにしてほしいことはないかと。
家事は分担できても、学生の身であるわたしがなれる力はあまりにも弱い。
けど、スキンシップであればむしろ進んでするべきなのだ。
愛の積み重ねが大事なのだから。
「それじゃあ、ひとつわがままを聞いてもらってもいいかな」
「な、なんなりと」
こうして日野がわたしにしてきた”お願い事”は、意外なものだった。
『次のニュースです。あの各地に甚大な被害をもたらした××豪雨災害から、まもなく10年の月日が経とうとしておりますが……』
カーラジオを切って、日野がCDを入れた。
流行りの曲を厳選したお気に入りのものらしく、上機嫌で鼻歌を鳴らしている。
「本当にこれでよかったの?」
「十分すぎるくらいだよ」
赤信号で停車したところで日野がスマホを構えてきたので、思わずポーズを撮る。
今日の登校は、ちょっと早い。日野の通勤時間に合わせて家を出たから。
つまり、わたしは日野に送迎されていた。
少しでも一緒にいる時間を増やしたいという、日野の要望から。
なんだ。なんだそれ。かわいいとこあるんだ。
……なんて、気を抜くとキモい笑みがこぼれそうになる。
「彰子って、どうして私のことが好きになったの?」
「ぐっふ」
下品な咳を吹き出した。日野、こういうとこは直球だよね。
もともと女の子が好きってわけじゃなかったんでしょ? と身も蓋もない質問を加えられて。
好きになったのが、あなただっただけ。
なんてロマンチックな返答だとリアリストの日野では満足しなさそうなので、具体的な理由を述べる。
「まあ……そりゃ。わたしは愛情に飢えた構ってちゃんですから」
美人で、優しくて、母性にあふれた人が自分のために保護者になる覚悟を決める。一心の愛情を受ける。
ぶっちゃけ、それで落ちない人なんてほとんどいないと思う。
「あとなんか、わたしわがままなんだよね」
「わがままって、なにが?」
「その……恋愛的な意味の家族になりたいって昨日告ったわけだけど。でも、これまで通り里親でいてほしいとも思ってる」
母親、姉、恋人。いずれの形の愛も独り占めしたいと、わたしは底知れぬ欲を持っている。
わたしは愛に執着していた。替えの効かない、もっとも特別な存在への独占欲を膨らませていた。
一番の仲良しになりたい、その究極系が”伴侶になる”だったんだと思う。
「でも、それだけじゃないよ」
正直に申し上げると、わたしはDBに強烈な劣等感を抱いていた。
私失敗しないのでを地で行く、社会と親に選ばれたチート生命体。そんなイメージだった。
落ちこぼれのわたしとしては、DBが普及するにつれて子供のときから完璧じゃないとみんなに好かれないんだって絶望した。
頑張る君は美しい、そんなの綺麗事だって。
親ですら不出来な子は施設にぶち込むのに。
だって創作世界の主人公は軒並み美しくて、何かしらの才能があって、家柄に恵まれている。
そういう子の物語をみんな求めてるんだって。
漫画の世界だけじゃなく現実になったら、わたしは生きてる意味がない。価値なんてもとからない。
だから日野に対しても、わたしは最初ひがんでいた。
ふっくらしてた頃の日野しか知らなかったから、日野も世界から爪弾きにされたVBだと思っていて。
結局恵まれたDBだと知って、勝手に裏切られたような気になっていた。
「だけど、DBにもいろんな苦労があるんだって知って変わった」
日野は決して完璧じゃない。
ただ、見せないようにうまく生きているだけ。
授業が上手くいかず、落ち込んでた顔。
風邪のときに垣間見せた、暗い過去と小さな欲求。
わたしが自暴自棄になったときにわたし以上に悲しんでくれた、一片の嘘もない温かい涙。
そういった弱さを、愛しいと思うようになった。彼女も一人の人間なんだって。
この人のために生きたいと、愛されたい欲求が愛したい本能へと反転した。
「……ご満足いただけましたかね」
改めて本人の前で暴露すると、恥ずかしい。
顔を逸らし、頬を掻く。
運転席の沈黙が恐くて、口を閉ざして数分後。おそるおそる隣のドライバーを見る。
日野は、わたしが知る限りもっとも崩れた笑みで遠くを見ていた。
そのまま融けてゼラチン液になってしまうんじゃないかってくらい、ふやけた頬で。
「君を選んでよかった」
短く、この上ない褒め言葉を添えて。
日野はわしゃわしゃとわたしの頭をかき撫でた。
気づけば、見慣れた校門が目の前にあった。
学生のいないがらがらの敷地内に入って、日野は器用なハンドルさばきで車を停める。
「さ、ついたよ」
鍵のロックが解除されて、助手席のドアが開いた。
他の人の目がないことを確認し、締めの挨拶を言おうとしてわたしは言葉を変える。
そういう関係になったことで、もう少し日野を意識させたかったから。
「いってきます、皐月」
久しく呼んでいなかった呼称というのもあって。実際には、しゃつきとちょっと声が裏返った。恥ずかしい。
日野はくすっと吹き出したあと、頑張ってねと手を振ってくれた。
小さく顔の横でてのひらをかざして、昇降口をわたしは目指す。
いつもとちょっと違う、特別となりつつある朝。
湿ったアスファルトを踏みしめ、足元にできたいくつもの水たまりを超えて。
雲に閉ざされた、白く濁った空を見上げる。
これからもっと、日野と愛を積み重ねていこう。やりたいことはたくさんあるから。
次なる課題は、今度の祭りに迫っていた。




