【皐月視点】すれちがい
「里親をこの先も続けていくなら、結婚したほうがいいんじゃないかって」
「えっ」
短く動揺の声が上がって、彰子が手にしているサンドイッチが傾いた。
中身がずり落ちそうになって、あわてて彰子が片方の手で受け止めようとする。
「わわっ」
なんとかキャッチして、彰子はすばやく手を口元まで持っていった。
勢いよく咀嚼しつつ、べとべとになった手をおしぼりで拭いている。
姿勢がどんどん猫背気味になって、耳まで朱が広がっていく。
みっともない食べ方をさらしてしまったと落ち込んでいるのか。
「あーほらほら、こぼれてるぞ」
紙ナプキンを持って、ソースが残っている彰子の口元をぬぐってやる。
彰子は真っ赤になって硬直していたが、ありがと、と小さくつぶやいたあとは大人しく待っていてくれた。
私の顔をまじまじと見つめているあたり、不安の色を強く感じ取った。
正直に言うんじゃなかったなあ。私は軽率な発言を後悔していた。
子供からすれば、結婚を仄めかされたら不安になるに決まっている。
親の顔よりも女の顔を優先するのかと、狼狽したって不思議じゃない。
「……その同僚って、男の人?」
拭き終わって、彰子が口を辿々しく開く。探るように。
「ううん、女の先生だよ」
「ふーん……」
嘘は言っていない。本田さんも疑問に思って聞いてきたのだろうし。
未婚なのに赤の他人の親になろうとする人、それも若い人だとしたら。
10人中9人は結婚しないの? と聞いてくるだろう。
私の中では、優先順位が結婚より上だっただけの話だ。
「ごめんね、不安にさせて」
同僚の性別が明らかになっても、彰子の眉間から皺は消えない。
はっきり他者から指摘されたことで、私が結婚したほうがいいのかな? と里親のあり方が揺らいでいないか。
優先順位が入れ替わろうとしていないか。
その可能性が、未だ彰子の中では拭えずにいるのだろう。
「大丈夫だよ。彰子と一緒にいるうちは、他の人にうつつを抜かしたりしないから」
「い、いや。そこまでは求めてない」
焦ったように彰子があわあわと両手を振って、早口になる。
「就職まで待ってたら、日野、三十路行っちゃうよ。わたしに気遣って貴重な20代を犠牲にしなくていいから」
「30代以降で結婚してる人もいっぱいいるよ?」
「そうだけど。結婚が嫌……とかじゃな、なくて。里親を続けるならふたりのほうがいいと思うし。収入的にも負担的にも。日野のしたいことを優先してほしいだけ」
どうせあと数年なんだし、デートまでなら許すと彰子は譲歩した言い方で膝の上の手をこねる。
「なら、いま私がしたいことは。彰子と家族でいることだよ」
「へ、へえー」
彰子には心から幸せになってほしいと願っている。
彼女は過去を悔い、そこから脱却しようと必死に努力している。
ときに苦しみ、迷ってもそれでも前へ進み出す。
その姿勢を強く、美しいと思う。リスクコントロールを施されたDBの私からすれば、とくに。
「で、でも。チャンスは無限じゃないんだから。もしデートに誘われたー、とかだったら遠慮せず行っちゃっていいからね」
「うん、ちゃんとそういうときは彰子に相談するよ」
「な、なんで?」
「自分から見ていい人が、子供から見てもいい人とは限らないからね」
実際、子供に許可を得ずに再婚して相手が虐待する話なんて山ほどある。
結婚を大反対した親の言う通り、相手がろくでもない奴だったなんて話もある。
最後は人に流されず自分で伴侶を決めるものだが、ちょっとは第三者の視点を入れることも大事なのだ。
彰子も年頃なんだし、在学中に恋人ができることもあるだろう。
そう考えると、過干渉はしたくないが悪い人に捕まりやしないか不安なところはある。
学生間の恋愛くらい自由にはさせてやりたいけど。
最悪、避妊さえしてくれればいい。うん。
……って恋バナに戻ったら、彰子からドスの利いた声で返されてしまった。
「そんな尻軽じゃないわよ」
「ご、ごめん。私も人のこと言えなかったね。でも、貞操観念がしっかりしてるのはいいことだ」
「それに、わたしは遊びで付き合ったりしない。決めた人には本気だよ」
強いまなざしを向けられ、一瞬私は気圧されてしまった。
ほんと、高校生でここまで意志がしっかりしてるって。
つくづく生徒たちからは教える身でありながら学ばされることも多い。
かっこいいぞ、彰子。
君に選ばれた人が今から楽しみになるね。
「と、ところでさ」
わだかまりが解けて、デザートタイムに移ったところで。
ワッフルサンドをかじりながら、彰子がさっきの恋バナをぶり返した。
「日野は、その。結婚するならどっち、なんだ」
「どっち、とは?」
「お、男の人か、女の人、か」
すごく聞きたそうに身を乗り出してきたから、温度差に疑問符が浮かんでしまう。
それ、そんなに気になるポイントかな?
そりゃあ、今の時代では必ずしも異性と結婚するとは限らない。
だけどパパがふたり、ママがふたり、といった家庭での子供のカースト問題は課題の一つだ。
片親よりも、変わった家庭として偏見の目を向ける人はいる。
私は、どっちだろう。
今は恋よりはるかに育児が大事だから答えを出していいか迷うけど、強いていうなら。
「心から添い遂げたい、と思う人が現れれば。性別云々よりもその人だからって理由で選ぶかなあ」
「そ、そっか。日野はあんまり気にしないんだね」
「うん。パパがいなくてかわいそうとか、馬鹿馬鹿しいと思うよ。子供がどんな境遇でも『可哀想』って言いたいだけの輩はいるもの。血縁や家族のかたちにこだわらなくたって、愛は育める。それが私の考えだよ」
「やっぱ教育者になるべくして生まれた人だねぇ」
どこか安心したように彰子は頷くと、おかわりしたお冷のグラスに口をつけた。
うーん。だけど言っておいてしこりが残る。
今の理屈は、親のエゴとも捉えられるから。
もし子供が『パパがほしい』とか『ほんとのママに愛されたかった』とか言ったらどうする。
だからって意志通りに合わせるのは難しいことなんだけど。
「…………」
考えている途中で、私はハッとなった。
今まで見えなかった透明な線が可視できるようになって、あるひとつの理論にたどりつく。
ここまで私の恋バナに興味津々ということは、もしかして。
そうだ。どうしてこんなシンプルな意図に気づかなかったんだろう。
「彰子は、もしかして私と家族になりたいのかな? この先も」
「っ」
口に出すと、彰子は盛大にむせ返った。
図星であるかのようにかっと瞳を大きく見開いて、小麦色の肌が一瞬でゆでダコになった。吹き出した水が、胸元のシャツを濡らしていく。
「ごほっ、ごほ」
咳き込みながら、彰子はせっかく着せてあげたカーディガンを脱ぎだす。
その動作に移る意味が分からず困惑している私へと、荒い息を繰り返しながら丁寧に畳んで渡してきた。
「な、なんで? 着てていいよ」
「汚しちゃ、ごほ、いけないから」
片手で必死に口元を押さえて突き出す彰子を無下にもできず、しぶしぶカーディガンを受け取った。
ちゃんと食べ終わったタイミングで言わなきゃ駄目だな、私。
とりあえず彰子の呼吸が落ち着くまで、背中をさすってあげることにした。
「落ち着いた?」
「……ん」
ようやく咳がおさまって、取り乱してごめんと彰子が深々と頭を下げる。
いやいや、非は9割方こっちだよ。
食事中はあまりセンセーショナルな話題は避けよう。
彰子だってむせて、せっかくの食事を美味しく味わえなかっただろうし。
「で、その。さっきの、家族って」
まだ違和感が残る気道から軽く咳払いをしつつ、彰子が話題に食いついてきた。
期待に待ち焦がれるように、瞳を輝かせて私へと距離を詰める。
照れなくてもいいのに、もったいぶった理由に気づくとかわいいなー、なんて口端が釣り上がりそうになる。
「文字通りの意味だよ。この先も関係を続けたいなら、私に結婚の予定や結婚相手の性別を聞いてくるわけがないものね。やっとわかったよ」
「…………まじ?」
徐々に瞳が潤み、口元が緩みだしている彰子の頭へ。ぽんと手を置く。
こういうおしゃれな店だと、勇気を出す踏ん切りも付きやすくなるのかな。
どちらにせよ、私たちの新しい道を確かめあった思い出の店になったことは確かだ。
今日、ここで食事できてよかった。
彰子の望む幸せがなにか、やっと辿り着くことができたのだから。
「君の望み通り、私は本当の母親になろう。養子として迎える準備は、いつでもできているよ」
「……………………」
あれ?
心が通い合ったとこの上なく思えた瞬間だったのに、見えない亀裂が私たちの間に走った気がした。




