生きて
救急車が到着したことにより、市役所周辺は一時プチパニック状態となった。
第3者から見ればリンチ以外の何物でもないけど、当人同士では逆。
かつてやられた側がやった側にやり返しただけ。ただの因果応報だ。
救急車は大げさだと思ったけど、せっかく来てくれた救急隊員を追い返すのは彼らと親切心で呼んできてくれた方に申し訳ない。
山葉さんを含む、ご協力いただいた方々にもう一度お礼を言って。
サイレンがうなる救急車へとわたしは乗った。こんな形でお世話になる日が来るなんてな。
それから診察を終えた後に、警察が取り調べにやってきた。
わたしに処罰感情がないことと、怪我の具合が比較的軽症だったことにより。
警察は”当事者間での話し合いによる解決”を提案。
よほど事件性が高い状況じゃないと、被害届はなかなか受理されないらしい。
ようやく医者と警察の圧から解放されたわたしは、大急ぎでバイト先に欠勤の連絡をした。
いろいろありすぎて今日バイトの日ってことを忘れてて、気づいたときにはもうシフト時間を過ぎていた。
LINEにはすでに、何件もの着信とメッセージが店長とアスカから来ている。
あと、日野からも。
『お電話ありがとうございます。こちら丸正麺XX支店です』
「お忙しいところすみません。あの。光岡です。連絡が遅れまして、すみません。本当にすみません」
矢継早に謝罪を混じえて、なるべく事を大きくしたくないという後ろめたさから『外出中に怪我をして病院で手当を受けた』と説明する。
『だ、大丈夫? 病院って。派手に転んじゃったとか?』
「はい。日常生活に何ら支障はございません。繁忙期なのに、わたしの不注意で仕事に穴を空けてしまってすみません」
『いやいや、不慮の事故なら仕方ないよ。誰にでも起こりうる事態だもの』
店長は少し前に、わたしに連絡がつかなかったということで日野に電話をしたと説明してくれた。
『大事には至らないようで安心したよ。伊鈴さんも心配していたから、ぼくから言っておくね』
「ありがとうございます。怪我自体は軽症ですので、問題なく仕事に復帰できます。そう、わたしからも彼女に伝えておきます」
アスカのことだから、昔の行いのせいだろーってからかわれそうだけど。
そういや、あいつとは数え切れないくらい喧嘩したっけ。
どこで鍛えたのか、アスカには一度も肉弾戦で勝てなかった。
おとなしくなったのも、自分が敵わない存在を知ってからだったな。
今は無性に、奴に横っ面を引っ叩かれたい気分だった。
マゾというわけではなく、戒めてほしいという甘えから。
「…………」
バイト先へ連絡後、日野のスマホにも掛けてみたけど通じない。
どこで食事をするかだけは伝えていたから、車を飛ばしている最中なのだろうか。
今ここにいるよと、病院名をLINEに送信して到着を待つことにした。
スマホを枕元に投げ出し、殺風景な天井を眺める。
衛生第一の空間だからか。シーツも、枕も、布団も、生地は薄くひんやりとしている。
清潔感のある白を基調とした病室内は、空気も匂いも冷ややかだ。
いま、わたしがいるここは本当に現実世界なんだろうか。
意識の自分と肉体の自分が剥離して、俯瞰で見下ろしている感覚になっていく。
山葉さんとお蕎麦を食べて以降の記憶が非日常すぎたのもあるのかもしれない。
せっかくのGW中なのに、5月病とは関係なくこのまま引きこもっていたい気持ちが膨らんでいく。
過去の自分と決別しようと意気込んではいたけど、結局自己満足でしかないということ。
どれだけ挽回を図ろうが、過ちは取り消せないということ。
山葉さん、せっかく助けてくれた恩人なのに。もうなんて話しかけていいかわからない。
友人が前科持ちだったと知ったら、ほとんどの人は軽蔑するだろう。
嫌われることには慣れているけど、いざその時が来るかと思うと辛い。
日野も、預かっている子供がこんなことをしていたと知れば教員としては見過ごせないだろう。
委託解除だって十分に有り得る。
仕方ない。すべて自業自得だ。
何を思われても言われても、わたしは受け止めなければならない。
現実から逃れるように目を閉じて、わたしは深い闇へと意識を手放した。
「ん……」
次に目を開けたとき、窓の外はずいぶんと暗くなっていた。何時間寝ていたんだろう。
傍らには日野が座っていて、わたしが目を開けると同時に心配そうに身を乗り出してきた。
頭を下げて、まず伝えるべき一言を放つ。
「ごめんなさい、心配かけて」
先に店長に連絡していれば、日野のGWを潰すこともなかった。
わたしは今日だけで、どれだけの人に心配とご迷惑をおかけしているんだろう。
「なんにも気に病むことはないよ。君が無事でよかった」
言いたいことは山ほどあるだろうに、日野はわたしを怖がらせないために笑顔を見せて頭を撫でてくれる。
完璧な大人としての対応に、嬉しさとじくじくと胸が突き刺さるような痛みを覚えた。
「あ、その。怪我は軽いから。数日で治ると思う」
「うん、そっか」
何も追求せず、日野は慈しむような声でわたしを迎えてくれる。
今、切り出すのは酷だろう。
わたしはしばらく、この優しい手のぬくもりに浸かっていた。
その間にも、胸への痛みはどんどん広がっていく。
もう、これっきりになるかもしれないんだぞと。
保護者が迎えに来たということで、特に入院するほどでもない怪我だったわたしは家へと返された。
助手席に無言で座るわたしへと、明るい声が隣から響く。
「今夜、なにか食べたいものはある? なんでも作るよ」
「…………」
お腹はさして空いていなかったが、気遣いに無言で通すのは失礼だ。
簡単に作れて、無難なものを答えると日野は自信げに拳を握るポーズを取った。
夕食後。後片付けを済ませて、のんびりテレビを見ていたところでわたしは覚悟を決めた。
言うなら、今だろうと。
が、意外なことに切り出すタイミングを測っていたのは日野も同じだったらしい。
「それにしても、災難だったね。友達装っていきなり襲撃されたんだって?」
「っ、」
まさかの先手に、勇気が喉でつっかえて固まってしまった。
わたしの硬直ぶりを横目に。
日野は頬を膨らませ、しゅっしゅっと虚空にシャドーパンチを放つ。
おそらくは、わたしが寝ている間に警察か医者から事情を聞いたのだろう。
「ひどいやつがいたもんだよ。私がその場にいたら雷落としてやったのに」
「いや、あれはのこのこ着いていったわたしも悪いから……」
教員の立場的に手は出せないから、日野は舐められないために必死で声による叱り方を勉強したらしい。
この人が怒ったところは見たことないけど、こういう人ほど本気でキレたら恐い傾向があるよな。
……その雷が落ちるのは自分になるかもしれないことに、じわりと手汗がにじんでくる。
「被害届、本当は出したかったんだけどね。でも、彰子は出さないって聞いたから」
そうだ。普通は絡まれて怪我を負ったなら相手を糾弾するに決まっている。
親の立場であれば示談なんて冗談じゃないだろう。
日野も内心では納得いってないのか、なんで? という疑問を込めた視線をわたしへと向ける。
「…………」
ああ、つらいな。罪を告白することは。
これから、わたしは単なる被害者でないことをこの人に伝えねばならないのだ。
隠していたって、いずれはバレるかもしれない。
そのときの日野のショックは、おそらく今以上のものになるだろう。
それを考えると、このまま嘘を貫き続けることはできなかった。
罪悪感に押しつぶされて、先にわたしがどうにかなってしまいそうだった。
「あれは、わたしが出せる立場じゃなかったんだよ」
心を殺せ。
少しも自分を庇わず、ただ事実を告げる機械となれ。
言い聞かせて。わたしは日野が知らないであろう、記憶から葬り去っていた黒歴史を掘り返し始めた。
こんなタイミングで今さら思い出すなんて、心の引き出しも気まぐれなもんだ。
「……立場って、どういうことなのかな?」
「逆ってこと。あの女子は、わたしに復讐しにきただけ」
一切の感情を封じ込めて、事実のみを日野へと伝える。
問題児だったこと。
劣っているVBだと知りはじめた歳になって、毎日むしゃくしゃしていたこと。
もともと癇癪持ちだったけど、さらに攻撃的になったこと。
そのストレスをぶつけられたあの女子が、不登校になってしまったこと。
当時13歳以下だったので刑罰法令には触れなかったものの。当然相手の親は怒り狂い、親に謝罪と賠償請求をしたこと。
すっかり精神的に参ってしまった親は、わたしを手放す決断をしたこと。
淡々と、わたしは述べ伝えた。
罪が浮き彫りになっていくにつれて。
日野の表情が曇り、いつも強い光を放っていた瞳が濁っていっているように見えた。
そんな表情をさせてしまったことに、わたしの罪がまたひとつ増えていく。
「これで、ぜんぶだよ」
すべてを話し終える頃には、日野のまなじりには涙が溜まっていた。
わたしはもう、ここにいる資格はないと悟った。
「どうしようもないよね」
瞳を赤く充血させた日野へと、わたしは自虐的な一言をもって話を終えた。
ぽっかり穴が空いて空気だけが抜けていくように、声は冷えっ冷えのお茶の間を滑っていく。
喋りっぱなしでひりついた喉へと、すっかり冷めた緑茶を流し込む。
罪を吐いたら楽になれると思っていた。
だけど、空っぽになったはずの心には未だ痛みが残っている。
「…………」
日野は相変わらず沈黙したままだ。
絶句しているのか、優しい日野のことだから傷つけない叱り方を模索しているのか。
どっちでもよかった。
保護者と教育者と親戚。いずれの観点で見ても、わたしへの評価が日野の中で変わったことは間違いないだろうから。
そして。わたしはそれ以上に自分自身に失望している。
頭がすーっと冷えて、何もかもがどうでもよくなって。
やっとあの女子が放った言葉の意味を理解する。
”お前みたいなやつがいるから、VBのイメージが悪くなるんだ”
ほんと、その通り。
あの子は善良なVBで、わたしは生まれてはいけないVBだった。
何が普通の暮らしが欲しいだ、笑わせる。
関わった人を不幸に陥れてる時点で、わたしに幸せになる権利などあるわけないのに。
「言葉なんか選ぼうとしなくていいよ」
終わらせるために、己に失望していられるうちに。
わたしは日野へと引導を渡そうとする。
わたしは身の程を知るための罪から逃げて、報復されるまで記憶を閉ざしていた。
いくら忘れようとしたって、やったことを無かったことにはできないのに。
日野の中のわたしは、借りてきた猫の彰子ちゃんのままだった。
だから里子候補にわたしが挙がっても、可哀想な捨て子だと思って声を掛けてくれたのに。
やさしくしてくれて、大学に行かせてあげたいと協力を申し出てくれた。
その惜しみない愛情は、救われるべき他の子に注がれるものでなければならなかったのに。
「こんな親戚の恥に、日野の時間を使うのはもったいないよ」
迷っているのであれば、とっととこちらから切り出せばいい。
委託解除。
つながった糸を断ち切るその言葉を求めて、わたしは自虐を重ねていく。
「……どうして」
やがて、日野が口を開く。
急に口が回るようになった、関係解消へと誘導するわたしへ。
「どうして、勝手に話を進めようとするんだ? 私はべつに、今回の件で彰子を嫌ったりしていないよ」
「気づいたんだ。里子になる資格なんてないって。日野にはもっと、ふさわしい子供がいるって思っただけ」
「それじゃあ、大学進学はどうなる」
「…………」
したいという感情よりも、するのが当然だという理屈に沿って生きなければならない。
わたしはこれから、償わなければならないのだから。
社会の隅で、最底辺で。
娯楽に溺れず、一生を労働に捧ぐ。
今のわたしに生きる意味を持たせるとしたら、せいぜいこのくらいだろう。
「彰子、」
後ろ向きな発言を繰り返すわたしへと、日野が縋り付くように両肩を掴む。
両目から透明なしずくをこぼして、ドラマの熱血教師よろしくわたしを引き留めようとする。
「一時の感情に流されないで。君はあんなにがんばってたじゃないか。立派な夢を持って、努力していたじゃないか。そんな自分までも否定するのかい」
「加害者が夢や希望をいっちょ前に持つなんて、おこがましいよ」
「そんなの、誰が決めた? 被害者の女の子がそう言ったの?」
生い立ちが不幸だったから仕方ない、そんな言い訳は通用しない。ほとんどの罪人は、ろくな人生なんて送っちゃいないのだから。
「向こうはわたしを許さない。それは当然だと思っているよ。死んで詫びる以外ではこれしかないんだ」
「彰子、それは独りよがりだよ。自分のしたいこと、ぜんぶ殺して生きることが相手の希望でもないのに、本当にその子のためになる? 逆にそこまでさせている自分が悪者みたいだって、重く思われたらどうするの?」
「なら、どうすればいいんだよ……」
泣き言をぼやいて、わたしはぶちまける。
空になったはずの心から出ていかずに溜まっていった、痛みを言葉に変えて。
苦しい。
つい昨日まで、できていたことができない。
明日もがんばろうって、奮い立たせることができない。
新生活も、勉強への意欲も、描いた夢物語も。
変わろうと思っていたのに、消せない過去によって引きずり戻される。
消えない傷をつけてしまった人がいる。わたしを許さない人がいる。
そんな現実を、背負って生きていかねばと分かっていても。この先耐えられそうにない。
「自分が、どうしようもなく許せない。なんでのうのうと生きてるんだって、それしか考えられない」
自分なんて生まれてこなければよかったと、自責の念を止めることができない。
今すぐこの世界とさよならしたいと、希死念慮を塗りつぶしてくれるほどの生きる理由を見出すことができない。
教えてよ、どうしたらいいか。
目の前の、大人であり保護者であり教員である人へと。
わたしは、答えを求めた。
返事は、温かさに包まれて返ってきた。
「え、」
柔らかい感触に視界が閉ざされ、背中に力強く腕が回された。
日野の、いつもほのかに漂っていた香りを直に感じる。
思考を奪われる感触と体温と芳香の中で、鼻をすする音に現実に引き戻される。
「委託解除なんて、絶対に嫌だ」
涙ぐんでいたわたしよりも、日野はおいおいと嗚咽を漏らして声を上げた。
「だ、だってぇ。あんまりだよ、残りの人生を囚人みたいに生きるとか。その歳でこれだけ悔やんで、苦しんで、がんばってるんだから。応援しないわけ、ないじゃないか。彰子にはぜったいに夢を叶えてほしくて、おいしいものも、楽しいことも。もっともっと知ってほしいのに、」
聞き取れるのがやっとの涙声が、頭上に響く。
いつも聖母のごとき包容力で包み込む日野しか見ていないだけに、他人に対してここまで涙を流せる姿を見るのは初めてだった。
大人も、心の底から悲しいと思ったらわんわん泣くことだってあるんだ。
今までかけられたどんな美しい言葉よりも。
自分なんかのために心の底から泣きじゃくっている今の状況は、乾いてささくれだった心に清水が沁み込んでいくようだった。
「どんなに君が君自身を許せなくたって。わた、私は。エゴだけど、君に幸せになってほしいと願っているんだよ」
シンプルな肯定の言葉が、感情の洪水と合わさって光が差していく。
醜い一面を知ってなお、見捨てないでいてくれる慈愛に。
さっきまでは見えなかった、生きる理由の輪郭が帯びてくる。
「どうしても出てくってなら万歩譲ってしかたないけど、けど。それが私のためだと思っているなら断じて違う。私は諦めないよ」
えっぐえっぐと引きつる喉としゃくりあげる声の中。
日野はさらにきつく腕に力を込めた。
わめいておもちゃ売り場から張り付いて離れない子供のごとく。
痛い痛い忘れてたけどわたし怪我人なんだっての。
背中とかこめかみとか圧迫されるといってぇぇギブギブ。
「わかった、わかったから。日野。緩めて。いてぇ」
わりと本気で抗議の意思を込めて声を上げる。
それでちょっと身体への締め付けは収まったけど、腕がほどける気配はない。
しかたないので、泣かせてしまった保護者が泣き止むまでわたしは身を委ねていることにした。
どうしたらいいか、助けを求めて縋ったのに。
仕方ない泣き虫さんですねって、逆に落ち着きを取り戻している自分がいる。
この人を、もうこんなに泣かせたくない。
そう、新たな解に辿り着こうとしている自分がいる。
圧迫感で苦しいだけだと思っていたのに。
腕の中で密着していることで、さっきほど力はこめられていないのに息苦しさを覚えている自分もいた。
なのに、嫌じゃないと状況を受け入れているこの矛盾はなんだろう。
べつの問いに悶々と悩むわたしへと、ようやく落ち着きを取り戻した日野が静かに告げる。
「彰子、私は絶対に見捨てないから。今日みたいに苦しいときは、なんだって話して。なんでも、何時間でも聞くよ」
君の幸せのためには、里親としてできる限りのことをする。
そう締めて、日野は小指を突き出した。
離れないことを誓う約束をするために。
小指を絡めて、古典的な掛け声を交わすうちに。
ようやく。ネガティブのループから抜け出し、自死の選択に引きずりこもうとする暗雲が引いていくのを感じていた。
罪と向き合うということは、許されない罰があるということ。
その痛みを忘れず、わたしは生きていくしかない。つらすぎて、直視できなかった現実だ。
だけど、今は。また明日からも生きようって、ほんの少しだけ前を向けている。
傍に、この人がいるから。
「君が生きていてくれるだけで、私は嬉しいんだ」
言葉と同時に、日野の泣きはらした瞳からは最後の雫が滴り落ちた。
晴れ渡り、澄んだ水が満ちたわたしの心にも。
ぽたりと波紋が広がって、かすかな波が生まれる。
この人のために生きようと思った。
そうするべきだと。生きる意味を見失ってもがいていた心に、ひとつの決意が降りた。
小さな刺激が鼓動となって、奥底から熱を呼び覚ます。
やがて湯泉が湧き上がったかのように、全身にほのかな熱が広がっていく。
それは、初めて芽生えたひとつの感情となった。




