看病
今日は土曜日。
お日柄もよく、4月の穏やかな気候をベランダから出た身体に感じる。
大きく伸びをして、清々しい空気を吸い込みながら洗濯物を干していく。
こんな休日はどこかで羽根を伸ばすのもいいだろう。
だけど今日、すでにわたしの予定は決まっていた。
誰かと遊びに行く約束でもなく、バイトでもなく、勉強でもなく。
日野の看病が。
「買い物行くけど、何がほしい?」
「いいよそれくらい。近所だし」
「だめ。寝てろ」
腕で大きくバツの字を作って、わたしは玄関に向かう。
ゾンビのように日野が追いすがってきたので、無理やり抱えて寝室へと連行した。だから寝てなさいってば。
「娘に担がれるなんて……」
「伊達に福祉の学校行ってないから」
敗北者のように両手で顔を覆って体育座りする日野が面白くて、つい声が上ずりそうになる。
日野は重いっちゃ重いけど、担げないほどではない。
こういうときのために、1年時に移乗介助の研修をやってて助かった。
「大げさだよ。熱なんて大したことないし。ちょっと花粉症なだけで、」
言い終わる前にへくちっ、とやたらかわいいくしゃみが日野のマスクを揺らす。
あーもー、微熱でも休める日は休めや。
先日の授業における指導不足を気にしてか。
ここのところずっと、日野は授業プリントのブラッシュアップに励んでいる。
家事が終わってもPCに夜遅くまで向き合っているもんだから、それが結果的に眼精疲労からの重い頭痛を招いた。
ついでに風邪と花粉症のトリプルパンチを患って。
「ただでさえ抵抗力が落ちてんだから、今日明日休まないと余計にこじらせるよ?」
「で、でもせっかくの彰子の休みを看病で潰すなんて」
ええい、おだまれ。
まだ身体を起こそうとする日野を押さえつけるように、頭に手を置く。
「むしろ休みだから良かったの。わたしもいずれは自立するんだし、家のことはなんでも一人でやれるようになんなきゃいけないのだし。いい勉強になる機会を与えてくださいな」
なおも渋る日野へと。
いいですね、と声にドスを効かせて見下ろす。
「はい……」
「よろしい」
ぺしぺしと肩を叩くと、ようやく折れた日野はヤドカリのようにしぶしぶ布団に戻っていった。
渡された買い物メモは、気を遣ってくれたのか重くないものばかりだ。
「いい子にして寝てるんだよ」
もはや保護者気取りで、わたしは玄関へと出る。
気をつけていってきえぐしっ、とくしゃみにかき消された日野の鼻声が耳に届く。
吹き出すのを抑えて、ゆっくりとドアを閉めた。
『いまの与党は……で……格差社会を促す政策を……』
外に出ると、マイクに増幅された男性の声が聞こえてきた。
どうやら駅前で街頭演説を行っているようで、ああ数ヶ月先の選挙に備えてかと内心うっとうしく思う。
耳から遠ざけるため、さっさと市街地へ逃げようとすると。
『ですからVBの皆様方。今こそ声を上げて立ち上がるべきなのです』
興味深い一言が流れてきたので、つい自転車を押して声のする駅前へと近づいてしまう。
足を止めて聞き入る人などいない中、わたしは物陰でこっそり耳を傾けた。
『生産性と出生率上昇のため、生まれながらのハンディキャップを無くしたDBを実用化した。ここまでにしなければならなかったのです』
うんうん。わかるわかる。
頷きながら、興味深い演説を耳に集めていく。
『先日発表された、最新モデルのDBは容姿・知能・精神面・身体能力まで決められてしまう。ここまで差がつくとなれば、富裕層でない層も無理やり金を捻り出してDBを選択する未来が見えてしまいます。まるで、大卒当たり前社会だった頃のように。この”DBでなければスタートラインに立てない”構造こそが問題なのです』
あーね。言ってることは分かるよ。
わたしらの世代はまだ、DBとの差は容姿・健常児・精神面くらいだからそれ以外の分野はVBが上回ることだって可能。
だけどこれから誕生する世代はすでに、遺伝子レベルで埋められない差をつけられてしまってる。
そうなればもう、わざわざVBで産む親は少なくなるだろう。
ゲノム解析のコストはどんどん下がっているから、低収入でもDBを望めるようになる未来はそう遠くないはず。
近い将来、VBはほぼほぼ淘汰されるんじゃないかな。
トンビだってカエルだって、タカを産めるなら産みたいに決まっているのだから。
声を上げろつったって『#DBやめろ』みたいにハッシュタグつけて拡散でもしろってのかねぇ。
どうにもなんねえ現実にため息を吐いて、わたしは日野と行った総合スーパーに向かってペダルをこぎ始めた。
それから、頼まれたものを買ってマンションへと戻ってきた。
今日は4月にしては30℃と気温が高く、薄手の長袖一枚でも暑いくらいだ。
久しく忘れていた熱気が全身にまとわりついている。
……これが真夏だったらこうはいかないよなあ。わたしまでゾンビになっちまう。
あそこのスーパーまで約1キロなんだから、駅から直通バスが出てくれればいいのに。
「…………」
そーっと寝室を覗き込むと、日野はすでに熟睡していた。
寝ずに家事や仕事をやってないかと不安になったけど、そのために音を立てずに帰ってきたのだから大丈夫そうだ。
さすが、いい子のDBなだけある。
とりあえず、お昼にしますかね。
毎日毎日献立を考えないといけないんだから、世の主婦と主夫は本当に大変だ。
そして手間暇かけて作ったご飯を、気分でろくに食わなかったわたしのなんと罰当たりなことよ。
作る側になって初めて身にしみたわ。
メニューは簡単に、鰹出汁ベースの卵雑炊で。作り終えて、静かに日野の眠る寝室へと入る。
鍋と、丼を置いて。『好きなだけよそってどうぞ』とメモを添えた。
「…………」
枕に頭を預けた日野を観察する。
目の下にはうっすら青いクマができていて、肌も若干荒れているように見える。
そりゃ、当たり前だ。
里親と担任のプレッシャーを抱えているんだから、いずれは体調面に影響してくる。加えて休みづらい職業となれば。
こうして眺めていると、あどけない少女の寝顔にも見えてくる。童顔なのもあるか。
スーツや落ち着いた立ちふるまいという殻を脱いだ無防備な彼女は、自分よりも年下に見える。
日野は成人したらみんな大人を演じるんだって言ってたけど、その演目は幼少期からすでに始まってるんだよね。
幼稚園生になれば『赤ちゃんじゃないんだから』と言われ。
小学生になれば『幼稚園に通ってた頃とは違うんだよ』と言われ。
中学生になれば『もう子供じゃないんだから』と言われ。
学年が上がれば、常にわたしたちは年齢相応の礼節を求められる。
自分がその年齢にいるときは、子供って自覚してる子は少ないんじゃないかと思う。
社会に属するようになって初めて、昔を懐かしむんじゃないかな。
あの頃はよかったって。
「おかあさん……」
「え?」
耳慣れない呼称に声がひっくり返って、遅れて日野の唇がむにゃむにゃと動いていたことに気づく。君のママちゃいますが。
「……彰子?」
日野の瞳がぱっちり見開かれて、すぐ横にいたわたしに気づいた。
あちゃあ。寝言に返事しちまったもんだから起こしちゃったみたい。
「私、なんか言ってたかな」
「べつに」
担任教師をおかあさーんと言ってしまう恥ずか死ネタはあるけど、逆はなかなかないだろう。
日野の名誉のためにも押し黙る。
「昼ごはん、そこ置いておいたから。あとでどうぞ」
「ありがとう。何から何まで悪いね」
「育ててもらってる立場だし。もう高校生だから」
大人になると、なにもかもがやって当たり前になっていく。
仕事も、家事も、育児も。
何一つ敵わないわたしにできることは褒めるくらいだけど、気づいたらそうしようと思ったのだ。
お世辞ではなく、本心から。
ほんと、日野の生き方は真似できそうにない。
冷えピタに手を当てて、日野は物思いに耽るように天井に腕を伸ばした。
「自慢じゃないけど、ここ10年は熱出したことなかったんだよ」
「そりゃ誇っていいわ」
3年5年ならともかく10年って。飲食のバイトに入ったら、欠勤のシフトで頼りにされるタイプだ。
でも毎回同じ人に頼むのはやめような。
「だから看病される側って、新鮮だな」
「される側?」
言葉に不穏を覚えたので、聞き返すと。
「うん。家族全員が風邪でダウンしたときも、私だけぴんぴんしてたしね。付きっきりで看病に回ったよ。あと、彰子は覚えていないと思うけど、一度だけ帰省したときに君が熱を出してね。奥の座敷に寝かせて、身体を拭いてあげたっけなあ」
ちょ、ちょっと。
日野はなんてことのない思い出のように語ってるけど、あんたそのときいくつだったか忘れてない? 小学生だぜ?
「待て待て。いくら日野がしっかり者だからって、そこまで任せるのはどうなのよ」
「そう? 子供たちの面倒を見るのは大変だけどやりがいがあったし、それで教師を目指すきっかけにもなったんだよ。太ってた私にはいい運動にもなったしね」
一片の曇りもない笑顔で、日野はいい思い出のように懐かしむ。
噛み合わない温度差に、背筋が冷たくなっていくのを感じた。
「なにより、私にはこれくらいしかできなかったからね。頼りにされて嬉しかったな」
「…………」
それ、こき使われてたんだよ。良いように。
日野の中では美しいことになってる思い出を汚したくなくて、喉まで出かかった墨汁の言葉を飲み込んだ。
「…………なんで?」
代わりに。声は疑問符をつけて、ひとつの言葉へと集約される。
なんで?
日野はDBで、わたしのような問題児とは真逆のいい子なのに。
これくらいしか、って。
親はDBで産まれてきてくれた日野に、それ以上の何を求めてたの?
日野はいっさい顔色を変えることなく、わたしの質問に答えてくれた。
「そりゃあ、私は失敗作だったからね」
”DBだって完璧じゃないよ。必ず注文通りに生まれてくるとは限らない。リスクコントロールは極力抑えてても、確率は0じゃない”
春休みの児相騒動の際に言っていた、日野の意味深な台詞はこれにつながっていたのだと気づいた。
命を作りだす罪悪感が消えれば、失敗を消すのはセット。
虐待死は重い刑罰が科せられるようになったので件数は減ったけど、施設におくられてくるDBには日野のような子供もいる。
失敗作。
平坦な声で放たれた、自己否定の言葉に思考が凍りついていく。
「え、どこが」
聞き返した自身の声はぱりぱりに乾いていて、人間あまりの衝撃を受けると感情が吹っ飛んで無になるんだなと実感する。
春のぬくもりと雑炊の食欲をそそる匂いに包まれた寝室も、今は何も感じない。
色彩が失われて、虚無の空間の中に放り込まれた錯覚に陥っていく。
「そうだなあ。当時の情勢とかもいろいろ関係しているから、そこからの説明になるけど……」
ただ、不気味なほどに穏やかな日野の声だけがはっきりと耳に届く。
リソースを聴覚だけに注いでいる状態なのかもしれない。
経緯はDBの歴史から遡る。
日野が誕生するちょっと前、第一次DB世代が成長して社会に飛び立ち始めた頃。
ゲノム編集を強化しようとの声が、技術者から上がった。
当時はまだ、VBとDBの違いは五体満足・定型発達で産まれてくる保証のみ。
だが、成長過程とともに『VBを見下す』選民思想を持つDBが増えていると教育機関から指摘の声が出た。
そりゃそうか。
金かけて選ばれた人間だって分かりゃ、遺伝子マウントを取る子供だって出てくる。
人種とか地域とか性別でマウント取る勢もなくならないからね。
「それで、私の世代は精神面に問題を抱えないように遺伝子情報を書き換えたんだって」
日野の言う通り、第二次DB世代は教育の改良といじめ撲滅も兼ねた”いい子”をコンセプトに実用化された。
心がきれいなら身体もそうであるべき。
そんな国民の要望を反映して、この世代からは容姿も設定可能となった。
終わりなき人体実験の始まりである。
しかし科学のあこがれは止められないのだ。
容姿が設定できると発表されてからは、DBのニュースもネガキャン記事からポジティブ記事に移り変わり始めていた。
整形や化粧では、決して天然美形には勝てない。
容姿の悪さに苦しむ子も大勢いる。
そのリスクが取り払われるのであれば、とDBに踏み切る層も増えてきたのだ。
日野の親も、そのひとりであった。
「どうやらお母さんたちは、私を芸能人にしたかったみたいだね。同世代でデビューしてる子、テレビで結構見かける。みんな考えることは同じだったのかなぁ」
ああ、なんか読めてきたぞ。
そこから先はだいたい予想通りだった。
日野は、親の望み通りには産まれてこなかった。
肥満児で、胴長で、釣り上がった目と膨れた顔。
体型は痩せればなんとかなりそうでも、身長と顔だちはどうにもならない。
芸能界への道は閉ざされてしまった。
それが、失敗作の理由だという。
あれだけ金を掛けたのに、裏切られた。
アイドルとしての利用価値がない子は、そのぶんヤングケアラーとして役立ってもらおう。いい子としては産まれてきたから。
そんなところらしい。
あほくさ、と心のなかでわたしは悪態をつく。
「その時点で子ガチャ失敗とか嘆くの早すぎない? 成長して顔のバランスが崩れる元美形なんてわんさかいるし。わたしだって、1年同じ学校にいたのに気づかなかったんだから。こんな美人が身内だったってこと」
「あはは、褒めてくれてありがとう」
産まれてたった数年でわが子の何がわかるというのか。
そのたった数年で愛想を尽かされたわたしが言えることではないが。
さっきの演説で政治家は『DBでなければスタートラインに立てない構造こそが問題』と言ってたけど、軽視されてるのはVBだけではないと思う。
金さえ積めば子供をカスタムできる。
それによって、わが子を私物化する親を生み出していることを。
この世界のどこかで、親の奴隷として産まれたDBがいるかもしれないことにぞっとする。
「ねえ、今は大丈夫なの」
気になってわたしは尋ねる。
教師辞めて今からでも芸能界目指せと強要されていないか、はたまた公務員だから搾取子にされていないか心配になる。
「大丈夫だよ。もう連絡はできないから」
絶縁したってこと?
それなら吹っ切れたように日野が語っているのも納得だし、ひとまず安心か。
「そっか」
顔に出てませんようにと祈って、わたしは明るめの会話に切り替えた。
「じゃあきっと、今日は身体が10年ぶりにお休みをくれたんじゃないの。頑張り屋さんの日野先生に」
「君を迎え入れた直後にくれなくたっていいのに」
「体調不良は突然くるものでしょ。わたしももう、高校生なんだから頼っていいんだよ」
子供たちをまとめる良きお姉さんだった日野。
小さなお母さんのごとく頼りになって、かっこいいと思っていた。
いくらDBだとしても、彼らだって幼さは持ち合わせている。
この落ち着きっぷりはどこから来ているんだろう。いつも不思議に思っていた。
普段からこれが、日野にとっては当たり前の日常だったんだ。
「こないだ、子供は掃き溜めにしないって言ったばかりなのに。なんかまた重い話になっちゃったね」
「や、今回もわたしが気になって踏み込んだ話題だからいいんだよ。いろいろ聞かせてくれてありがとう」
それに、病人を起こして話に付き合わせてしまった。それが問題だ。
この時間じゃお腹も空いてきただろうし、わたしがいてはマスクも外せない。
貴重な療養の時間を邪魔していることに気づき、わたしはあわてて会話を打ち切る。
「じゃ、ご飯食べて、ゆっくり寝てね。鍋は回収しに後でいくから置いといて」
正座の姿勢から立ち上がろうとすると。
ふいに、日野があぁ、と何かに納得したような含みのある声を上げた。
「彰子はときどき、私よりも大人に見えるね。だから話しやすいのかな」
幼少期に熱を出しても、こんなふうに付きっきりで看病してもらったことはないと日野はこぼした。
仕事に穴を空けるからという理由で、親からは面倒そうな目を向けられる。
子供の心配より、仕事の心配かよ。
「自分らは伝染すリスクを無視して娘をこき使ってたくせに?」
「なかなか休めない仕事だったのもあるだろうけどね」
確かに子供の熱で休むワーママの肩身が狭い風潮はあるけど。
でも、弱ってる人に厳しい奴ほど自分が弱ってるときは大げさに騒ぐよなあ。
せめて家では悩みを受け止め、ささやかでも背中を押せる人間になりたい。
バイト先で食事をした際に芽生えた”頼られたい”という気持ちは、『大人』と口にされたことによって膨らんでいくのを覚えていた。
「じゃあ、他になにかしてほしいことはある?」
「んー……」
少し考えるように首を傾げると、日野は意外な要求を申し出た。
「寝るまで、手を握っててほしい。とか」
「おや」
そんなんでいいのか。
それはまた、切ない少女時代を彷彿とさせる注文だ。
「あ、いや、うつしちゃうよねそれだと。ごめん、」
やっぱいいよと撤回する日野の横にしゃがみこんで、わたしは手を取った。
「え、あ」
「こっちもマスクしてんだから遠慮すんな」
テンパって腕を引こうとする日野に構わず、両手で細い指を包み込む。
大人になると甘えたくてもなかなかできないんだから、ささやかな願いくらい叶えてやらなくてどうする。
「もっかい聞くけど、ほんとにこれだけでいいんだね?」
「う、うん……」
「べつに笑ったりしないよ。わかるもの。弱ってるときって心細くなるから、ひとりで寝るのは寂しいって気持ち」
寒気をこらえて布団にもぐって、無機質な天井を見上げて、鼻が詰まって苦しい呼吸のなか、ただ意識が途切れるのを待つ。
そんなときに優しくしてもらった記憶は、ずっと心に残るのだ。
逆もしかりで、つらいときに冷たくされたことはいつまでも子供は覚えている。
だからこそ、日野はぽろっと本音を漏らしたんじゃないだろうか。
子守唄でも歌ってやろうか、とからかうと日野は頭まで毛布を被ってしまった。
こんもりふくれた布団からにゅっと突き出た手首だけが、今のわたしたちをつないでいる。
「やっぱ手、熱いねえ」
「彰子の手もあったかいから、そこまで熱はないと思うけど……」
もごもごと聞こえてくる声をきっかけに、そういえばどことなく暑さを覚えていることに気づく。
ぬくい室温の影響だけではないだろう。
「…………」
会話が途切れて。
起きてるか寝てるかわからない、穏やかな呼吸音が流れてくるようになって。
それでもまだ、手はぎゅっと握りしめられている。
離れないでと言っているかのように。
熱と柔らかさによって接続された、わたしの右手。
だんだん、暑さからじわじわとこそばゆさが広がっていくのを覚えていた。
情緒をかき回されているのに、決して不快ではない衝動が湧き上がっていく。
胸元は汗がにじんで、知らず知らずのうちに息を止めていたことに気づく。
やっぱり、こうなる。
日野と手をつないでいると、いつも。
なにかに塗り替えられていくような、ぎりぎりのところでせき止められているような。
かたちにできないもやもやが思考を埋め尽くしていく。
「…………」
おそらく日野は、もう寝入っているだろう。
腕を引けば簡単にほどけるだろうに、まるで手汗で張り付いてしまったように右手を動かすことができない。
眠っている今だったら、つかめない正体にたどり着けるかもしれないと。
相手の要求に応えていた行動が、自分の好奇心を満たす行為へと移り変わっている。
熱い。
湯に浸かっているかのような心地よさと、これ以上内なる変化に委ねてはならないと急かす警鐘がせめぎあって胸を打っている。
どくん、どくんと。鼓動が大きくなっていく。
正しく呼吸はできているはずなのに、首周りが締め上げられるような窮屈さを覚える。
なにこれ?
わたしの深層心理はいったい、何を伝えようとしている?
でも、理解が追いつく前に糸口は断ち切られてしまった。
「…………」
ずるりと。ぬくもりが抜けて、日野の手が毛布へとすべり落ちる。
あとに残されたのは、虚空を掴む汗ばんだ右手。断続的に届く、日野の寝息。
それが合図となって、急速に思考がクリアになっていく。
それから堰を切ったように、ぼっと羞恥が湧いてきた。
勢いよく立ち上がって、逃げるように日野の寝室を後にする。
壁に寄りかかって、熱のこもる右手を握りしめて。
思いっきり額を打ち据えた。
「……あほか」
なに考えてたんだ、わたしは。
謎の罪悪感にうなだれて、自室に戻ったわたしは唐突に勉強を始めた。
集中して、何もかもを忘れるために。
夕方。
ふたたび日野の部屋に鍋を回収しに訪れると、備え付けのメモに書き置きがあるのを見つけた。
『好きなだけよそってどうぞ』
その、わたしが書いた文字の横に。
『おいしかったよ、ありがとう』
女子らしい丸っこい文字で、ネコみたいなアニメキャラクターが顔文字代わりに描かれている。
「…………」
ほわーっと、胸の奥から温かさが広がっていく。
ああ、家族っていいなあ。なんて月並みの感想を抱いて、もういちどメモに目を通して。
ぎゅっと、胸が締め付けられるのを感じた。
……いや、なんでだよ?
尋ねても、答えは未だ見つけることができない。
自分自身すら、わたしはほとんど解かっちゃいないのだから。
それからほどなくして、内なる変化を知る機会は訪れたのだった。




