【皐月・彰子視点】年上好き疑惑
・皐月Side
「はぁ……」
授業を終え、職員室に戻った私はぐったりと自身の机にうなだれた。
今日は、彰子の在籍する教室での初授業。
娘の勉強姿勢を知れる良い機会でもあり、気合を入れて望んだのだが……
結果は撃沈。
見事に自信を砕かれ、今は反省点を書き出す気力も湧かない。
悔しさと情けなさがせめぎ合い、自分を責めるループから抜け出せずにいた。
「どーしたの、さっちゃん」
コーヒーを挿れに給湯室から戻ってきた西園寺さんが、『元気ないぞー』と背中をさすってくれた。
ここまで明らかに落ち込んだリアクションを取っていれば、構ってほしいのがばればれか。
でも、後学のために失敗は包み隠さず報告するべきだ。
「さっき西園寺先生のクラスでの初授業を終えたのですが、ちょっと指導が不十分だったなと。未熟さを噛み締めておりました」
「どんなだったの? 聞きたい聞きたい」
そんなに前のめりの姿勢で期待されてもなあ。
新人の失敗談は先輩からしたら蜜の味なんだろうか。
「その……一部の生徒が寝てしまうくらいつまらなかったようで」
「そんなのよくあることだよー。最初はみんな名催眠術師だよー」
なによりダメージが大きかったのは、机に突っ伏していた生徒に彰子がいたことであった。
「学習ノートはどう取ってたの?」
「プリント形式です」
「僕も同じ道を通りましたよ。あれ、授業を進める上では便利なんですけどね。そのぶん生徒の自由度が減ってしまうので、説明を聞き流しやすくなってしまう両刃の剣なんですよね」
私たちの会話を聞いていた別の男性教員が、横から同調してくれた。
「っていうか寝てる生徒なんて、授業妨害しなけりゃ放っといてもいいと思いますけどね。僕ら教員だって、職員会議や研修、出張での講演会は眠気との闘いでしょう」
「こらこら。さっちゃんはみんなを導くために真剣なんだから、ちゃんと改善策を考えてあげようよ~」
となると、今後の課題は飽きて寝ないための授業の工夫になるのか。
生徒目線ではどんな授業が喜ばれるのだろう。
はあ、娘にまで暗につまらないと突きつけられたのは堪えるなあ。
さっさとモチベーションを回復しないといけないのに、沈んだ気分は一向に浮上できない。
春休みに謎の自信から作り上げた、自作プリントの努力は無駄だったのだと拗ねた私が傷口をえぐっていく。
作り直し……しないとまた集団爆睡を招くよなあ。
うう、先生はつらいよ。
・彰子Side
「はぁ……」
やっちまった。
放課後になって、わたしは山葉さんの席に突っ伏していた。
まさか爆睡しちまうだなんて。よりにもよって日野の初授業で。
「ため息を吐く前に手を動かしてください」
「ふぁい……」
淡々と下される命令に従い、教科書をぱらぱらとめくって穴埋めプリントに答えを記入していく。
山葉さんの解答欄を丸写しでは勉強にならないからだ。
「そもそも、光岡さんはどうして睡魔に屈したのですか」
「決して授業がつまらないわけではなかったんだ」
そう、暁を覚えない春眠のせいだ。つまり日野が懸命に揺すってもスマホのアラームでもなかなか起きれなかったせいとなる。
そんでお弁当を詰める暇がなく、ばかでかいおにぎり2個で済ませようとしたせい。
そして炭水化物オンリー飯で糖質を摂りすぎたせいだ。
「結局自分のせいではないですか」
「はいその通りっす……」
居残り勉強をしている友人に付き合ってくれるのだから、山葉さんめっちゃいい人だ。
ごめんよ、ファーストインプレッションではドライな人だとか思って。
ちなみに、日野の担当教科は公民。
社会科は教員採用試験の倍率がめっちゃ高くて合格が難しいらしいから、地歴と公民の免許状を取得してようやく採用されたのだとか。
「えーっと……どこまでやったっけ」
「”人間社会と家族”です。決して他人事ではない、覚えるべき重要な項目ですよ」
社会が得意な人って、だいたい『こんなん暗記するだけでしょ』って言う率が高い。
それは分野そのものに興味があって、隅々まで知りたくなって、そうしてるうちに知識として身についてるんだろうな。
はあ。胸が痛い。
春休み中、居間で必死に教材研究に没頭していた日野の背中を思い出す。
初めての担任、初めての授業。
日野が抱えるプレッシャーは相当なものだったに違いない。
せっかく入念な準備をして教壇に立ったのに、寝られたとなっては自分の授業はそんなにつまらなかったんだと落ち込むのも当たり前だろう。
教室を去るときの哀愁漂う背中が、罪悪感となって脳裏に焼き付いている。
にしても山葉さんの席、日当たりいいなあ。
出席番号順的に窓側でほぼ最後尾だから、春の日差しが燦々と降り注いでいる。
ちょうどいいぬくさと陽気に当てられて、わたしはまた脳内が睡魔の海に埋め尽くされてるのを感じていた。
「光岡さん、ペンが止まってます」
「いてえ。親にもたぶんチョップされたことないのに」
「愛の鞭です。目を覚ましなさい」
舟を漕ぐたびに山葉さんの手刀を食らいながら、バイトの時間は近づいていった。
「アキ、ちょっと顔丸くなってね? ぬくぬく暮らして肥えてきたか」
「アスカこそニキビできてんぞ。わたしの目がないのをいいことに、お菓子食いまくってんじゃないの?」
かつてのルームメイトと挨拶らしきものを交わして、更衣室に入る。
わたしのバイト先は、隣町のモール内にあるフードコート。
全国規模でチェーン店を展開している有名なラーメン屋さんで、安価なのが売りだ。
着替え終わって、アスカがさっそく『ねぇねぇ聞いた?』と好奇心たっぷりな声で寄ってくる。なんだよ。
「南支店の店長、今度結婚するんだって」
「そりゃめでたいですな」
「しかもお相手が職場の部下。ついでに高校卒業したて」
「よくある話じゃん」
「えー、怖くね? JKの頃から目ぇつけてたってことだよ」
「その店長だってハタチそこそこでしょ? そりゃお互い対象に見ちゃうと思うけど」
成人と高校生。
年齢的にはそこまで離れていないのに、恋愛関係となると世間の目は冷ややかだ。
在学中に手を出したら犯罪だしね。
年の差恋愛そのものがハードル高いのかな。大人は口を揃えて『うまくいかない、やめとけ』と言う。
そもそも、満場一致で賛成される結婚ってあるのかって疑問に思うけど。
「どっちからアプローチしたのかはわかんないけど、わりと女子って年上にあこがれを持っちゃうものじゃない? リードしてくれる相手を望んでいる子が多いだろうし、そうなると同年代や年下は少ないだろうし」
「んー、自分はねえわ。アキは年上好きなんか、その言い方だと」
「べつに。イメージで言っただけ」
アスカにはそっけなく返したけど、擁護派に回ればそりゃそう思われるわ。
いけねいけね。
そもそも恋したことない人間が、愛だの恋だの語れる立場ではないんだった。
LINEを開き、日野に送信したトーク画面を確認する。
『夕飯なんだけど よかったらうちの店でどう』
返信は少し前に来ていた。『じゃあそうしようかな』とはしゃぐ動物のスタンプもつけて。
アスカや鈴木店長には冷やかされるだろうけど、どうせ隠すこともない相手だしいいや。
日野の授業が終わってから、罪悪感はずっと胸に沈殿したままだった。
バイトの日は、夕食もここのまかないで済ませることになっている。
でないと日野は9時まで夕食お預けになってしまうから。
だけど今日は、マンションでひとりご飯を食べている日野の姿を想像するといたたまれない気持ちになったのだ。
……でも、向こうは初授業で疲れてるだろうし、外食呼び出すのも億劫だったかな。
「おーい、そろそろ時間だよ」
なにスマホガンつけてんだとアスカに急かされ、わたしたちは仕事に入った。
それからディナータイムに入っても、相変わらず客足は悪かった。
モール内に流れる賑やかなBGMが、むなしく耳に響く。
忙しすぎるのは嫌だけど、暇すぎても恐い。
それで店が永久のお暇を頂くことになったパターンなんてわんさかあるし。
あくびを噛み殺しながらジュースディスペンサーを洗っていると、『らっしゃーせー』とアスカが接客する声が聞こえた。
あ、もしかして。
振り返ってみると、予想通り日野が来店したところだった。
厨房の奥にいたわたしには気づかなかったようで、そのまま端っこの席へと歩いて行くところが見えた。
「チャーシューCセット入りましたー」
伝票の紙をちぎったアスカが、『あれお前の保護者じゃね?』と目線を交互に向けながらジェスチャーを送ってくる。
「うん。ラーメン食べたいって言ってたから」
誘ったとは言えなくてとっさに嘘をつく。ごめん日野。
「なんだ、人少ないからサクラで呼んだかと思ったよ」
「ライブ会場じゃねんだし。それだと数十人連れてこないと利益にならんでしょ」
「確かにお前の人脈じゃ無理だな」
ちょっとずつ広がり始めたとはいえ、わたしの交友関係は狭い。
自分で言ってて悲しくなってきた。
「へー。あの人がそうなんだ」
興味深そうに店長がうなずきつつ、業務用の餃子焼き機に冷凍餃子を並べていく。
住所変更で交通費が変わるため、あらかじめ店長には報告済みだ。
「光岡さん、よかったらだけどもうあがる?」
「はい?」
「この客入りじゃ、ぼくと伊鈴さんだけでも十分だろうから。家族仲良くご飯でもどうかなって」
「そうだぞサクラ。おとなしく売上に貢献なさい」
「誰がサクラだ」
アスカは置いといて店長、気を利かせてくれたんだろうか。バイト代はそのぶん減るけど。
なら、お言葉に甘えるとしますか。
「すみません、それでは失礼します」
「いってらっしゃい。オーダーはどうする?」
「ネギCセットで。麺大盛り」
「貢献あざーっす」
着替えて、荷物と呼び出しベルを持って。
わたしは新書に目を落とす日野の前に立った。
「待たせてないけど来た」
「ひ、ひひぇっ?」
従業員ではなく客として登場するとは思わなかったのか、日野はぎょっと目を見開いた。
そんで勢いよく顔を上げた反動で、背後の壁と激突する音が聞こえた。コントか。
「大丈夫かー?」
痛そうに頭を抱える日野へと、後頭部をさすってやる。
音にびっくりしたアスカがこっちに出向いたけど、『問題ないから』と両腕で○を作ったジェスチャーを送った。
「し、仕事は」
「人少ないから上がっていいって」
淡々と事情を説明して、向かい合って座る。
本を閉じて、気まずそうにわたしへ視線を彷徨わせる日野へと『ごめん』と言い放った。
「ごめんって、何が?」
「居眠りのこと。がっかりさせてごめん。わたしの自己管理がなってなかっただけだから」
「そんな、生徒を寝落ちさせてしまったのは先生の責任だよ。眠そうだったのは他の子も一緒だし。そもそも、振り返ってみれば寝ちゃっても仕方がない授業だったんだから」
5時間目は、ただでさえ食後で血糖値が上がっている状態だ。
だけど日野は説明責任を果たそうと、一方的に喋るだけの授業をしてしまった。
最近の授業は板書をほとんどしないので、自作プリントを必死に作った。
それが裏目に出てしまったと、日野は反省点を列挙する。
「生徒目線だと、教科書探って穴埋めればいいからあとは寝たろ、って思っちゃうかもね……」
「プロがしっかり監修した教科書に、いち教員の自作プリントが敵うわけないよなあ……」
ますますツボにはまって、日野はテーブルへとうなだれてしまった。
生徒の立場であるわたしからすりゃ、授業はたいてい退屈なもの。
だけど先生は真剣に考えて、日々授業づくりに励んでいることは分かる。
教える側としては、ちゃんと生徒の学習意欲が上がってしっかり学べる授業にしたい。
でも、どうやったら面白い授業になるのかわからない。
どんな指導方法がはまるかなんて、クラスどころか生徒ひとりひとりが異なるからだ。
日野は今、そこの壁にぶち当たっているのか。
「……キブツ」
「え?」
肩と頭を落とす日野に手を伸ばして、そっと背中に手のひらを置いた。
「今日の授業内容。”人間社会と家族”のテーマから集団育児を先駆けた社会共同体がある、って内容だったよね」
「うん……あ、ちゃんと勉強してきたんだね」
「寝ちまった罪滅ぼしで。でも義務感からとかじゃないよ? 個人的に興味深い内容だったから」
キブツ。イスラエルにある社会共同体のこと。ヘブライ語で『集団』を意味する。
わかりやすく言えば、自給自足の地域協同社会。
労働と生活を上下関係なくみんなで行って、協力して生きる理想社会を体現する。
そしてこのシステムは、育児も一緒。
養育と教育は、住民全員で行う仕組みとなっていた。
「一見すると、子育ての環境としては理想に見えるんだよね。日本は核家族の限界で、とくに母親への負担が大きすぎるから少子化にもつながっていたわけだし」
そんなキブツも、子育てに関してだけは失敗例があった。
子供たちの多くは、対人関係に問題を抱えた大人になってしまったとのこと。
職員が交代で子どもたちの面倒を見る。
実に効率的で合理的だ。
だが子供視点では、誰に愛情を定めればいいかわからず、愛着障害を抱える結果となった。
「日本も方向性は違えど、子育ての環境はどんどん整ってきてるじゃん? 保育園義務教育化とか。ただ、親の負担を減らすことだけに注力しすぎてキブツと同じ轍を踏んじゃわないか、日野はそれを言いたいんじゃないかと思ったんだよね」
分野そのものに興味があって、隅々まで知りたくなって、そうしてるうちに知識として身についている。
わたしは調べて、その言葉の意味を知った。
ちゃんと授業内容は復習したことを伝えると、日野は顔を上げた。
濁っていた瞳に光が差して、やがて笑みがほころんでいく。
しおれた花が水を得たかのように。
「すごいなあ、彰子は。なぜそれを学ぶのか自分で考えて、自分なりに結論を出して」
「すごいことじゃないよ。寝てしまったぶんの遅れを取り戻そうとしているだけ」
そもそも、通ってる学校は福祉系だし。
本当に興味がある分野だっただけだ。
「授業がなければ、知見が広まることもなかった。だから教えてくれてありがとう」
「うう……なんていい子なんだ君は」
日野の声がふやけて、表情を隠すようにまた首が垂れる。
これが熱血教師ドラマなら感動的な主題歌が流れ出しそうだ。
いいえ先生、わたしは悪い子ですよ。
いい子なら授業の必要性を分かっているから寝たりしないよ。
「授業中寝ているのは自分の責任。授業料を無駄にしているのは自分だって今さら知っただけ。日野もあんまり自分を責めないで」
「ありがとう。でも、私もまだまだだから。今日の失敗から学んで、また次につなげるよ」
置いたままの手のひらを、優しくぽんぽんと撫でる。
『延長しますか?』と冗談めかして聞くと『します』なんて弱々しく返ってきたもんだから、しばらく背中をさすってやった。
ここの席がカウンターから死角にあってよかった。
母娘というより、仕事で失敗して落ち込む同僚を慰める図だなこれ。
でも、完璧だと思っていた人の一面を見れて悪い気はしなかった。
呼び出しベルが鳴ったので、カウンターまで食事を取りにいく。
ちらっとレジを見ると、ちょうど数少ないお客様が来店したところだった。
明らかに外国人と思われる、肌の黒い男性がアスカに話しかける。英語で。
「May I see the side menu, please?」
「ソーリー。ジブンニホンコしかワカラナイね」
胡散臭いカタコトで、アスカは胸ポケからスマホを取り出した。
翻訳アプリを起動するからこれに向かって話せ、というニュアンスだ。
赤毛で緑目のアスカはどっからどう見ても日本人じゃないから、通じると思った海外のお客様がああして話しかけてくるときがある。
初対面の人はあの外見からぺらぺら日本語で話しかけられると、大抵目ん玉をひん剥くね。
「それじゃ、いただきます」
さて、暗い気持ちは美味しいご飯に上書きしましょう。
ラーメンと餃子と炒飯のセットが並んだトレーは、ひとつのテーブルに二人分置くとちょっと狭い。
「よし。次からは寝かさないぞ」
「誤解招きそうな台詞だなぁ」
気を取り直したらしく、日野の表情には覇気が戻っている。
日野、けっこう顔にも出やすいよね。
下がり気味だった眉が今はぴんと上がって、目の前の香ばしいごちそうに分かりやすすぎるくらい目を輝かせている。
お互いに中太縮れ麺をずるずるすすりながら、一心不乱に箸とレンゲを動かしていく。
この極力油を抑えた、あっさり醤油スープがたまんないのよ。
かりっときつね色に焼き上がった餃子も。
中身が野菜中心だからもたれづらく、規定数の6個が物足りなく感じてしまう。
黄金にきらめく炒飯は、大盛りで掬って豪快にかっこむのが好き。
早食いは胃に悪いんだけど、いちど口にしたらレンゲが止まらないんだこれが。
ぐいぐい喉に送り込めてしまう。
米の一つ一つが油に包まれぱらっぱらの食感を主張し、添えられたザーサイの旨味を引き立ててくれる。
こんなにがらがらの店内でも、親しい人と食べれば胃も心も満たされていくんだから不思議だ。
日野も『また来たいな』と頬を上気させていた。
気に入ってくれたようでよかった。
「今日は美味しいご飯を教えてくれてありがとう。それと、ごめんね」
帰り際、日野からは愚痴っぽくなってしまったことを謝られた。
親に愚痴掃き溜め代わりにされてうんざりしてる子供はたくさんいるのに、自分も同じ道をたどるとこだったと。
「だからって日野は攻撃的に非難しないし、一方的じゃなく会話に応じてくれているでしょ。そもそもわたしから振った話題だったじゃん」
そうフォローして、今日のような現場のリアルはたまに聞かせてほしいなと興味を伝える。
もちろん守秘義務に触れない範囲で。
職は違えど、わたしも目指す方向性は似たようなものだから。
せめて家では悩みを受け止め、ささやかでも背中を押せる人間になりたい。
親だって子供だって教員だって教え子だって、教えて教えられて失敗して成長するんだから。
それは、どんな言葉にしたら様になるんだろう。
それから数日後、日野は滅多に引かないらしい風邪を引いた。




