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情炎

作者: 遠土 莉古

 深川に軒を連ねる居見世のひとつに、ごく小さな、酒を飲ませる店がある。

 やもめ暮らしの大将が一人で営むその店へ、ふらりと、一人で飲みに来た女があった。

 そろそろ綿入れの一枚も要りそうな暮秋の夜。おそらくは芸妓であろうその女は、じりりと燃える灯りの油の臭いなど掻き消すほどに、始まりから酒の香を撒き散らすが如く浴びるように飲んでいく。

 そうして酒だけが時間を埋めて、ときおり女の息と酒器のぶつかる音だけが合いの手を打っていた。

 他に客はない。


 どれだけそこで杯を重ねただろう。酒場の一角、酔い潰れた女の指先がなおも酒杯を求め卓上を這う。

 が・・・やがて引き戸を開ける音に続き二人目の客がやって来た。着流しの男だった。


 さほど広くもない店のことだ、見回すまでもなく女の姿は目に入る。

 そうして、男は安堵とも呆れともつかぬ息を吐くのだ。


「ああ・・・・・やっぱり、此処にいた」


 店の大将へと目配せし、慣れたふうな足取りで男は女の傍らへと向かう。

 男の声は聞こえているだろうに、女は振り向きもしない。ただ酒杯を求める指が、小さく震えた。


ねえさん」


 静かに、落とした声は女に届いているだろうか。

 ただそっと酒器を遠ざける男の手に、縋ることはしなかった。


「姐さん止めときな、深酒ふかざけは傷に障る。・・・・それになぁ姐さん、どれだけ酒に逃げたところで、時は巻き戻りゃしないんだ」


 そっと、角ばった男の手が女の肩に背に触れる。

 慰めるように、優しげに。


「忘れちゃあならねえよ。あんたの心底惚れたあのイロは、ほのおに呑まれて逝っちまった。夏の盛りの話だよ」


 そっと、そっと、大切なものを包むように、男の手は女を撫でた。

 柔らかな声は滲みるように、女の吐息に重ねるようにして連なる。


「あいつは、てめえで油ァかぶって、てめえで火ィつけて、てめえで三途の川を渡っていった。・・・・・あんた、見てたんだろう?」


 びくりと、女の背が跳ねた。

 それを宥めるように、男は女の肩を抱く。

 するり、するり、撫で擦る調子はそのままに。


「皮のぜる音が次々したって、あんた、言ったじゃないか・・・・・どれだけ払ってもあの人の火が消えなかったって」


 それは確認。咎める色はなく、ただゆっくりと言い聞かせるように、男の声は優しかった。


「二人で暮らした小さな家も、着物も帯もかんざしも、何もかも炎がさらって行っちまった」


 じわりと肩を抱く力が強くなる。

 滲む、入り込む、絡めとり、とらえて離さない、声。


「・・・弱ったあいつの手元に、届いたばかりの油があったのは・・・とんだ不運だったのかも知れねぇなあ・・・」


 僅かに間の空いた男の声を追うように、こらえきれない嗚咽が女の唇から溢れた。


「ああ、姐さん、泣かなくっていいんだよ」


 温かな声と共に男は女を緩く抱き寄せた。安心させるように背を擦る手はあくまでも優しい。


「さ、うちに帰ろう。このまえ頼んでおいた、新しい黒留めと玉簪たまかんざしが届く頃合いだ。きっとあんたによく似合う」


 言いながら女の立ち上がるのに手を貸すと、己の隣で歩み出させる。男にとっては、造作もないこと。


「ほら掴まってな、そのまま寄り掛かっててくれりゃあいい。あんたはなんにも心配するこたぁねえ・・・なあ、姐さん」


 嗚咽を漏らしながらも女は幾度も首肯していた。後悔も、愛念も、脳裏に未だ焼き付く焔の向こうに押しやって振り切るように。


 やがて男は女を抱えるように連れ、引き戸を開け夜の道を歩み出す。

 口の端を僅かに上げていたその様を、店主の目が映したかどうかは知れない。




小説ライブ配信アプリ“ボイコネ”にも投稿していました

一人用台本→「情炎」

一人朗読用(小説)→「情炎~朗読~」

お題→「情炎/ガチ演技(性別不問)」


#とおどりことおどりこおなじりこ

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