-8- 小麦色の少年
鳥が遠くで細く長く鳴いている。
カーテンの隙間から弱い日の光が滲みだしてくる。
映像の記憶を得た疲れはことの外大きく、僕はいつの間にか眠り込んでいたらしい。
何はともあれ、早急になんとかしたい問題がある。
うん、名前が無いのは不便だってこと。
このままでも、うまいことゲームの強制力というか矯正力というか、そういう力で名無しでやっていけるんだろうけど……必要な事以外がスキップされてしまうゲームとは違って、生きていく上で実際に手紙を書いたり誰かに呼ばれる時に絶対困る。
7歳前後の僕の記憶はじわじわと戻ってきているようだが、いかんせん周りはほぼ親族と使用人なせいで”息子”とか”お兄様”とか”坊ちゃま”とか、とにかく上手い具合に名前は呼ばれていなかった事が分かった。そもそもこの世界で僕の名前が存在しないのだから当たり前なのだが、こみ上げてくるのは絶望である。
名は体を表す。たいていおとぎ話の中でも、名付けられて初めて実態を表したり意志を持ったり……とにかく名前というものは大事なのだ。
ちなみに兄貴にはアデルという名前があるので両親は”アデル”と呼んでいるし、使用人達は”アデル様”でアゼリアには”アデルお兄様”と呼ばれている。両親が長男の名前はしっかり呼ぶのに次男の名前は一切呼ばないとか一気にグレそうなものだが、そこは僕の心が生まれながらに清らかなので真っ直ぐに育った……というわけではなく、とにかくうちの両親は僕ら全員に甘ったるいのでグレる暇はなかった。
アゼリアは両親や使用人達が僕に一番甘いというが、勘違いしていると思う。みんなが一番大好きなのはアゼリアに決まってるだろう?ちなみにアデル兄さんは僕より3つ年上、既に学園を卒業してジェット家の治める領土へと赴いているので普段は屋敷にいない。
ライアットやエリオット、その他もだが…貴族同士として知り合っている以上は絶対に自己紹介しているはずなのに、その辺りの記憶はない。もしかしたら、その辺の記憶もこの世界のシステムで弄られているのかもしれないな。
自分で自分の名前を決めるしかないのか?
しかしこの世界に守るべきルールみたいなものがあった場合、抵触したらどんなペナルティが与えられるのかわからない以上は勝手に名付けるのも怖い気がする。
二度寝する気にもなれなくてベッドから起き上がり、本棚や机の周りを意味もなくうろうろとしていると、物音を聞きつけてかノックをしてからヨハンが入ってきた。きっちりと後ろに流された白髪は今朝も変わらず一糸の乱れも無い。
「坊ちゃま、おはようございます」
「おはよう、ヨハン。今日は普通に起き上がれそうだよ」
「ようございました。今朝先ぶれが参りまして、明日エメロード家のライアット様がいらっしゃるとのことでございます」
「!ライアットが……そうか。病人扱いされないように、きちんとした格好で出迎えるべきかな」
幼い頃の記憶のみで顔を合わせるのは不安もあるが、そもそも親友に相談して解決していこうと思っていたところだ。渡りに船だとポジティブシンキングでいこう。僕が一番に思い出した友達が彼だったのは何か意味があるのかもしれないしな。
「いけませんわ、お兄様。ライアット様もサフィール様も、お兄様をすぐ連れ出して無茶をするんですもの……」
いつの間にか開いた扉から部屋に入ってきたアゼリアが、ぷんぷんと擬音が聞こえてきそうな素振りで両手のこぶしを腰に当てている。どれだけくどいと言われても僕は言うぞ、頬を膨らませているアゼリアが本当に可愛い。僕は思わず感じ入ったように片手で胸を押さえた。
「大丈夫だよ、アゼリア。屋敷の外には出ないさ……立ったり歩くのは問題ないけど、走るのはまだ無理そうだからね」
「お兄様……」
「後で歩行の練習をされるのでしたら、庭も是非覗いてやってくださいませ。シュロが坊ちゃまにお会いしたいと」
「あ、ああ……シュロ、シュロ……うん」
つきつきと浅く痛む額をそっと抑えながら記憶をたどる。
シュロ、名前を聞いて薄っすらとした記憶に色がついた。彼は、戻ってきたばかりの7歳の記憶の中にいる。うちの使用人の少年だ。手先が器用で人懐っこく、なんなら『エトプラ1』の攻略対象としてしっかり出て来るイケメンである。しかも、シュロは”私”が結構ひいきにしていたキャラクターだったはずだ。
この世界に生まれて14年、魔獣も魔法もあるのが当たり前の認識とはいえ”私”の記憶が流入して中途半端な今、改めてファンタジーな世界にいるのが不思議に思えてくる。物語の中の登場人物だった彼が、確かに今この現実に生きているのだ。どうにも現実離れした気がしてしまうのは、幼い頃に出会ったという断片的な情報の中にいる彼と、”私”が可愛い可愛いともてはやしていた彼との間に印象のズレがあるからかもしれない。
シュロはヨハンの遠い親戚の子で、僕らが幼い頃に遊び相手と使用人見習いを兼ねてやってきた。その頃から既に手先の器用さは大人が目を見張るほどで、木を組んで作る細工から細い金属を加工して作る装飾品まで作り方さえ解ればなんでも作ってみせた。
繊細な作業を得意とする一方で剣と魔法の才能も常人より秀でている。ただ、雇い主の子ども達の前で活躍するのはまずいようで、その辺りはヨハンや他の仲良い使用人から伝え聞くのみだ。しかし、そんな評判を裏付けるように来年度の騎士学園への入学が決まっている。平民である彼が王立学園に入るというだけで、いかに彼に才能があるのかわかろうというもの。
でも、僕の記憶にあるシュロは悪戯好きで、いつも一緒に泥んこになって怒られる普通の少年だった。僕が7歳の頃シュロは5歳だったからな。にいちゃ、にいちゃ、って後ろを付いてきて本当に可愛かった。
最初こそ偉い貴族の家に来たっていうんで借りてきた猫みたいに縮こまっていたけど、子ども同士だし、僕もアゼリアも身分なんて気にしていなかったからすぐに仲良くなった。兄貴は学園入学に向けての準備の方が忙しくて僕ら3人で遊ぶことがほとんどだったし、シュロもライアット達と同じく大切な親友の一人と言っていいだろう。
シュロ自身は平民だからって恐縮するだろうけど。
アゼリアの前で無様に倒れてしまった中庭へ、二日ぶりにやってきた。
蔓薔薇のアーチはいつ来ても見事に整えられている。
庭師の素晴らしい仕事ぶりはさることながら、アーチの細工の補修はシュロも時折手伝っているらしい。繊細な細工にそっと触れようとして、ふと、人の気配に空気が変わった気がした。
「あ……、来てくれたんですね!」
視界の外から耳に届くのは、少年から青年へとまさに羽化せんとする少し掠れた声音。
視線を左右へとやって声の主を探せば、蔓薔薇のアーチの奥から少年が駆け寄ってきた。大きく成長し始めた伸びやかな手足、小麦色の肌は活発な彼の表情をより明るく彩り、短く切りそろえられた白い髪は日の光を浴びてきらきらと細やかに輝く。瞳は天然の翡翠のように透き通った翠で、見る者の心を掴んでしばらく離さないだろう。ふさふさとした睫毛も髪と同じく白銀で、まるで宝石を留める爪のように
「あああああ、あの、」
慌てたように声を重ねてきたシュロは、日焼けした肌をどこか赤く染めながらあわあわと両手をこちらに向け、所在なさそうに揺らしている。そう、声が重なった。つまり僕の心の声がちょっぴり出ていたようだな、失敬失敬。
「うん?待たせたか」
「いえ……その、具合はどう、ですか」
「問題ない、少し左足の動きが悪い気がするが……まぁ、しばらく寝たきりだったから仕方ないさ」
「本当に、よかった。あの時の魔獣の骨と結晶を芯にしたのですが、坊ちゃまの魔力とかなり親和性が高かったみたいで……交換も必要ないみたいです」
そうだ。使用人とはなんたるや……からヨハンにみっちりと教え込まれたシュロも、いつからか僕を”坊ちゃま”と呼ぶようになった。もう坊ちゃまは卒業したいと言いたいが、だったら何と呼ぶのだと返されたら困るのは僕だ。早急に名前をどうするか案が必要だな……。
それより、あの時の魔獣は倒されたのか。もしや魔獣にもう一度襲撃されて死ぬのかとも思っていたが、もういないなら心配ないのか……いや、倒してしまったせいで他の魔獣が敵討ちしにくるという線もあるか?
「ええと……何か交換する予定だったっけ」
「……!まさか、覚えていないんですか?」
シュロは心底驚いたように目を見開いて、ぱちぱちと瞬きした。
くるくる変わる表情と動きに愛嬌があるシュロは、屋敷のおばさま連中にもめちゃくちゃ可愛がられている。なんというか、子犬っぽい。
ただし”私”のゲームの記憶によれば、2年後には気さくであるものの少しクールな子犬になってしまうようだ。惜しい。
「覚えてない。というか、襲撃のだいたいの事を覚えてない」
「え?それ、記憶喪失じゃないですか!!ちゃんとだれかに報告しました?」
「皆なんとなく察してるみたいだけど……直接そうはっきり言われたのは今が初めてだな」
「はぁ……」
これだから坊ちゃまは……と言いたげな表情でシュロに見つめられてしまった。
少し距離を詰めるように近づいてきて両手をそっと取られる。意図せず美少年と見つめ合う恰好になっているが僕にそういう趣味はないぞと思ったら、彼が目を閉じる。え、これはもしや据え膳?と心の中の”私”がときめく。
そんなわけあるかと突っ込んだところで、体内に巡る魔力が優しく凪ぐ感覚に気付いた。ゆっくりと確かめるように魔力が全身を巡り始めるのがわかる。僕の魔力の流れを整えるようにシュロの魔力が干渉しているのだ。
「……シュロ」
「はい。もしやと思いましたが、……問題なく魔力は馴染んでいます」
この世界で魔力は誰もが持っている力だ。血液のように体内を循環して、呼吸のように魔法と共に外に出ては、生命活動を続けているうちに自然と再び体内に戻る。人も動物も、植物や鉱石だって生き物の化石という形で魔力を含んでいることがある。
魔力の相性の良いものは身体に取り込むと滋養強壮効果があり、病後の食べ物なんかは魔力の相性重視で献立を考えたりするのだ。
そして、補えるのは栄養だけじゃない。なんらかの理由で身体の一部を失ってしまった時、魔力の相性のいい素材で義肢や義眼を作れば元の身体のように違和感なく使う事ができる。
身体を巡る魔力の流れで気付いてしまった。
贈り物を持ってアゼリアに会いに行く時、うまく足が動かなかったのは怪我が治りきっていないせいだと思っていた。寝てばかりで身体が固くなったから歩くのにもリハビリが必要だな、なんて気楽に考えていたのだ。
僕の身体の左側には、魔力の流れが一度断ち切れているところがある。
正しくは、左目、左肩、左足の膝から下だ。後から加えられた魔力に上書きするように、表面を僕の魔力が流れているのがよくわかる。
どれほどの大怪我だったのか、僕は魔獣に吹っ飛ばされたどころか身体の一部を失うほどの目に遭って九死に一生を得ていたのだ。
僕の手を握ったままだったシュロの指先に、きゅ、と力がこもる。
呆けたように俯いていた顔を上げると、心配そうな翠の瞳とかちあった。
「大丈夫です、坊ちゃま。これほど相性のいい素材も中々無いと技師のおじさんも言ってました。魔力の流れがある限り義眼も義足も壊れません、元通りです」
「ああ……。そうだな、風呂にも入ったけど全然気づかないくらいだったよ」
義肢とは、この世界では魔道具の一種なんだろう。後から付け足したような継ぎ目も一切無いので、動きのリハビリさえ完璧に出来れば今みたいに魔力で干渉しない限りはバレる気がしない。何より、着けている僕自身が気付いていなかったのだから。身体の一部を失ったというのに、どこか他人事だ。
「良かったです。もし心配な事があったら、何でもオレに言ってくださいね!最後の調整をしたのはオレですし……細かなメンテもするので、定期的に検査に来てください」
「わかった。ありがとう、シュロ。頼りにしてるよ」
「へへ……絶対ですよ!」
照れ臭そうに笑ったシュロは、いつまでも握ったままだった僕の手に気付いてぱっと離すと、両手を後ろに隠して頬を染めた。乙女ちっくな子犬である。
思わずよしよしと頭を撫でてしまった。髪はさらさらして手触りがいいが、意外と硬いな。
「オレ、絶対に、……にいちゃをお守りします……」
「うん?」
「あ……、なんでもないです!」
判ってる、こういうのは気付かないフリをするのが大人ってもんなんだろ。でも僕はまだ14歳(”私”の年齢は加算しないとする)だし……子どもと言われれば微妙だが、大人になるにはまだ時間があるのだ。
定期検診はとりあえず週に一度と決めて屋敷の中へと戻ることにする。
屋敷の廊下へと上がって振り返ると、シュロはまだこちらを気遣って見つめていた。
心配するなと軽く手を振ってやってから、声が彼まで聞こえるように口の側に手のひらを立てて。
「にいちゃ、って呼んでくれてもいいよ」
「!!……」
両手で顔を覆ってしまったシュロは、遠目でも恥ずかしがっているのがよく分かった。
シュロには義肢の事もそうだが、加えてさらに感謝しなければいけない。彼のおかげで目下の悩みについて解決の糸口が見つかったからだ。