-5- 記憶のふちに触れる時
エリオットから贈られたという小さな肖像画は、今まさに僕のベッドの脇、華奢なイーゼルに乗せられている。
手紙を前にして考えこんでしまった僕を気遣うように、アゼリアは肖像画を持ってくる事を提案してくれたのだ。アゼリアの美しく白魚のようなかわいらしい手でも持つのが難しくない大きさだと言うので、お言葉に甘えて持ってきてもらった格好だ。
「これはまた、思ったよりちゃんとした肖像画だな……いつの間に地下室に運ばれたんだろう?」
「地下室の入り口近くに置いてありましたの。いつもは地下室に行くことなんてありませんし……あるとわかっていなければ、探そうともしなかったと思いますわ」
屋敷の地下に行くのも大変だろうと思ったが、なんと、アゼリアは地下で見つけた後自分の部屋にさりげなく飾っていたという。隣の部屋なので、持ってくるのもすぐだった。勝手に飾っていてごめんなさいとしおらしく謝るアゼリアは、正直とても可愛い。
……しかし、女性と見紛う僕の肖像画、どこがそんなに気に入ったんだい?
それはそうと、実際にそれは小ぶりなサイズで、普段使いのノートより少し大きい程度のキャンバスは装飾の枠もシンプルに軽い木枠が付けられているだけだ。
絵の部分はデッサンに少し色がつけられた程度なのだが、さすがお抱え画家が描いただけあってか、生き生きとした瞳には生気が宿っているように見える。絵のモデルが僕だと言われれば、小さい頃は多少こんな感じだったかもしれないな……と思える程度に面影を残し、かなり美化されているのは貴族の肖像画というものの宿命だろうか。
「僕の面影が思った以上に無いな……同じなのは髪の色と瞳の色くらいか」
「とっても可愛らしい女の子に見えますわ。わたくし、てっきりサフィール様のおっしゃる通り許嫁なのだと思ってしまいました」
「うーん……自分の事だと思うと複雑だ」
「ふふっ、確かに……わたくしも、いつもお兄様が褒めて下さるようには自分自身を見られませんわ」
「アゼリアは世界一可愛い女の子だよ!」
「ありがとうございます、お兄様」
アゼリアはくすくすと笑って、再び僕と一緒に肖像画を眺め始めた。
一見して、何も怪しいところはない普通の絵だ。椅子に座った少女の上半身が描かれている。
ハーフアップにされた鋼色の髪は毛先をそれらしくくるくると巻いて肩の前に垂らし、知性を感じさせる少しつり気味の大きな瞳は深い紫色でこちらをしっかりと見据えている。つんと澄ました表情ではあるが、頬から顎にかけて幼さの残る柔らかな稜線があどけなく、鋭さというよりは知的な印象を与えていた。ドレスは首元をしっかりと覆うレースが気品を感じさせる出来で、深窓の令嬢だと言われればそうと納得できるだろう。
手紙でこの肖像画の件に触れている以上、この絵はおそらく手紙と一連の意味を持つものなのだ。アゼリアがピンと来ていないところをみると、僕以外が見ても意味のわからない暗号のようなもの。僕の記憶がしっかりしていれば意図に気付けるのかもしれないが、生憎僕はこの世界の常識と、おぼろげで歯抜け状態の記憶しか持っていない。はっきりしている記憶はここ2日のみという状態だ。
人目に触れることを見越して工夫したメッセージを送ってくれたエリオットには申し訳ないが、直接聞くしかないだろうか。
いや、もう一つ方法はある。
僕には解説を見るという力があるじゃないか。
触れてみれば、たとえ第三者目線の解説だとしてもこれがどんな物なのかが多少わかるはずだ。気を失うリスクはあっても命に関わるわけじゃなさそうだし、試さない理由も無いだろう。
ただし、アゼリアの前で気を失うリスクは避けたい。一芝居打とうと決めた僕は、ベッドサイドに腰かけて機嫌よく肖像画を見つめている彼女に声をかけた。
「アゼリア、今日はいい天気だからこの部屋も暖かいね。……なんだか、急に眠気が」
「まぁ……!お兄様、お昼寝なさいませ。病み上がりなのですから、無理はいけませんわ」
眠気を耐えているように見せようと目元を隠せば、アゼリアは慌てたように僕の背を支えて横になるよう介助してくれた。愛しいアゼリアを遠ざけるのは少し良心が痛むが、今回は仕方ない。これで能力を使って意識を失ったとしても、昼寝しているのだと考えてくれるだろう。使用人たちにも僕を起こさないようにふれまわってくれるはずだ。
「ありがとう。アゼリアも今日は色んな事があったろうし……疲れていたら、部屋でお昼寝するんだよ」
「はい、お兄様。ヨハンにも知らせてお昼ご飯の時間をずらしてもらいますね」
この部屋へやってきたのは朝食のすぐ後だったはずなのに、いつの間にか昼食の時間が間近に迫っていた。
よく気が付くアゼリアに、わが妹ながら嬉しくなる。サフィール家がタイミングを見計らって婚約の打診をしたくなるのも当然だったのかもしれない。お父様のあの様子では、いつまで経っても”いいタイミング”なんてものはやってこないような気もするが。
硝子窓の片側、ベッドに光を差していた方のカーテンを引いて部屋を少し暗くすると、アゼリアはこちらを安心させるようににっこりと微笑んでから廊下に出て、音をさせないよう静かに部屋の扉を閉めた。
そうすると質のいい厚みのある扉は外の音を遮断してしまうし、柔らかな日の光が半分遮断された部屋は火が消えたように物寂しく静かになる。遠くから聞こえてくる鳥の声だけがやけに耳についた。
目の前には、少しだけ経年の感じられるキャンバスの布地。
描かれた絵の表面を汚してしまいそうで、触れる場所に躊躇して伸ばした人差し指の先をどこに着地させるか何度か左右に揺らしてから、鋼色の毛先を選ぶ。
そして、僕は。
意を決して、肖像画に触れたのだ。
思考が荒れ狂う衝撃に身構えて、固く目を閉じる。
瞼の裏に現れたのは、これまでのように目まぐるしく飛び回る文字ではなく、光。
中央に現れた光、初めは針を通すような細い光が瞬く間に広がり、大きくなり、視界の全てを白く塗りつぶしていく。あまりの眩しさに閉じた瞳を両手で覆ったが、眩く白く光っているのは閉じられた瞼の中の出来事なのだから避けようがない。
「……う、う」
こんなに眩しい光が出るなんて外にばれていないかとか、万が一目から光が出てたらめちゃくちゃ間抜けだとか、焦って思わず関係ない事に思考が飛んでしまう。エリオットからの手紙に能力を使った時アゼリアには全く見えていなかったようだから、この光も僕にだけ見えているもののはずだが、人間慌てると支離滅裂な思考になるものなのだ。
痛いほどの眩しさもしばらくすれば慣れて来る。早く終わってくれと思うもののまだ数秒も経っていないに違いない。
相変わらず文字は現れない。
と思ったら、今度は眠りに落ちた時のような落下感が急激に襲ってきた。
長い、長い!
落下系のアトラクションは平気なはずだが、生憎これはアトラクションじゃない。安全性が保障されたものではないのだ。
唯一の安心材料は背中がしっかりベッドについているということ。実際に落ちてるわけじゃないと、かろうじて正気を保っていられる。
あれこれと考えている間にも、僕の意識は落ちていく。
まるで重力が2倍にも3倍にもなったかと思うほどにベッドに背中が張り付いて身動きが取れなくなり、意識がぼんやりと遠のいて。
そのうち光にどんどん色が付き、
あとはまるで映像の濁流に押し流されるようだった。
※■■■の肖像画
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