-3- 心の旅の始まり
「お兄様!もう動いて差し支えないのですか?」
なんてことだ、今日も僕の妹が可愛い。
びっくりしたような表情だからか、大きな瞳がきらきら零れ落ちてしまいそうだ。零れた宝石ごと抱き締めて閉じ込めてしまいたい。2年後……2年の時間が経てばきっとさらに美しくのびやかに育つだろう。学園に通うようになったら、いかなる有象無象が寄ってくるのかと今から心配でならないぞ。その為にもまずは今年生徒会に根を張り4年になったら必ず幹部入りして、学園の法を整備できるポジションに就いておく必要がある。幸い僕の年と妹の年には王族が入るから、そのタイミングで個人を守る法が1つや2つ増えたとして……
「あの、お兄様、ご心配ありがとうございます。まだ病み上がりですし……お兄様のお部屋でお話しましょう?」
はにかんだ様子のアゼリアが少し俯き加減になったので、天然の上目遣いに兄の心はときめきっぱなしである。
それはそうと、今、僕は屋敷2階の自室前にいる。
善は急げと朝食をもりもり食べて元気をアピールした僕は、ヨハンにも太鼓判を押してもらって自室へと戻ることになった。メイド長のアンナは心配そうにこちらを伺っていたものの、おばさま達もイチコロの貴公子微笑――パーティーでマダムに囲まれてあれこれと一気に話しかけられた時に使う。彼女らが見惚れている間に「用を思い出しました、では失礼」とかなんとか言って抜け出す技だ――で目をくらまして貴賓室を出てきた。
廊下にも敷き詰められている毛足の長い絨毯は、僕の足音をほとんど消していたんだろう。部屋から出てきたアゼリアは僕の気配に全く気付いていなかったようで、驚いて可愛い顔を見せたというわけだ。
「そうしよう。アゼリア、君の顔色もあまりすぐれないようだ……。お互い、今日はあまり動き回らないほうがいいかもしれないな」
「大丈夫ですわ。わたくし、今日は一日中お兄様の看病をしようと昨夜から決意していたのですもの!」
胸を張るアゼリアの手元には、本が2冊。先程僕の部屋から出てきた事から考えるに、貴賓室で横になっている僕が退屈しないようにと色々見繕っていたんだろうな。相変わらずいじらしい。ただ、今日に限ってはそのいじらしさがアダになる。なぜなら今からライアットの手紙を隅から隅まで読んで情報を拾い上げる作業があるからだ。
手紙の件を後回しにしようかと一瞬思ってしまったが、そういうわけにもいかない。僕が僕を正しく把握するための第一歩を遅らせれば、あらゆる事が全てにおいて後手後手になってしまうだろう。常なら嬉しくて仕方ない申し出だが、ここは多少相手をしてから涙を飲んでアゼリアを遠ざけるしかない。
「ありがとう、アゼリア……嬉しいよ。じゃあ、少しだけ話し相手になってもらおうかな」
「はい、お兄様!……まずは、ベッドに入ってくださいませ」
ベッドに入った僕に甲斐甲斐しく毛布をかけ、水差しからグラスに水を注ぎとテキパキこなすアゼリア。僕は胸がいっぱいになりながらも、机の上を注視した。
ヨハンの話では机の上に置かれているとの事だったが、ここから見る限り筆記用具以外何も乗っていないように見える。メイドが勝手に机の掃除をしてしまう事はないし、他に出入りした可能性のあるのはアゼリアだが……厚意で整頓してしまったんだろうか。
「お兄様?」
「あ、いや……アゼリア、君が部屋に入った時……机の上に何か乗ってなかったかな」
「お手紙など、来ていません!」
「!」
待ってくれ、これは予想外の展開だぞ。
手紙は間違いなく机の上にあったようだが、それを見つけたアゼリアは隠してしまったらしい。しかも否定の仕方がかなり強めだ。焦りと怒りが感じられる声からして、アゼリアは手紙の主を良く思っていないんだろう。僕とライアットは親友(暫定)のはずだが、アゼリアとは馬が合わないのだろうか。
どちらにせよ、まずはうまく話してアゼリアから情報を得るのが先決か?
他人の手紙を勝手に処分するような子ではないが、すでにこの部屋には無いかもしれない。
「……ごめんなさい、おにいさま」
「……!アゼリア、一体どうしたんだい。怒らないから言ってごらん」
僕が黙ってしまったのを怒ったと勘違いしたのか、アゼリアはぽろぽろ泣き出してしまった。怒涛の展開に兄の心は激しく動揺しているよ、アゼリア。手元にあったタオルで目元を拭ってやりながら優しく問いかけると、やがて彼女はしゃくりあげながらぽつりぽつりと話し出した。
「あの、お兄様の机には、確かにお手紙があったのです」
「そうか……ヨハンが言っていた手紙かな。誰からのものかは見たかい?」
「ええ、見ました」
「ライ「ライアット様からのお手紙、ではありません」」
「へ?」
すかさず言葉を被せてきたアゼリアに、間抜けな声が出てしまった。
ライアットからじゃない?
……これは、予定に大きな狂いが出てきたぞ。
ライアットからの手紙じゃないなら、やる事の1つ目は既に半分達成不可能だ。
「ライアット様のお名前が書かれていましたが……サフィール様の筆跡だったのです。わたくし、お兄様が無理難題を頼まれる前に、何が書かれているのか、確かめたかったのですわ……!」
そこまで話し終えてから再びわっと泣き出してしまったアゼリアの背中をさすってやり、僕は途方にくれてしまった。
ライアットからの手紙だと思っていたものが、サフィールという人物の筆跡で、そいつは僕に無理難題を吹っ掛ける……?そもそも、サフィールって誰だ。なんとなく記憶の隅にひっかかっている気もするが、思い出せない。記憶の混乱がある事をアゼリアに話していいものだろうか?
しかしアゼリアの言っている事が正しいとすると、そもそもライアットのやつ手紙寄越してないのか。
「なんだ……ライアットからじゃないのか。サフィールって誰だったっけ」
しまった、今度ははっきりと口に出していた。アゼリアはきょとんとした表情で顔を上げ、
小首を傾げる。
「何を言うのです……サフィール様は、お兄様のお友達ですし……本当は許嫁なのでしょ。幼い頃にお約束したと書いてありました。お手紙に」
「そ……そうだったような、そうだった……かな?」
冷や汗がだらだらと流れる。まずい、全然思い出せないぞ。一体どこの誰なんだ、サフィール。そしてアゼリアは手紙の中身をしっかり検めた後のようだ。
「ライアット様のお名前でなければ捨てられてしまうだろうから、と書かれていました。ここまでは良かったのですけれど……」
ふ、と表情を曇らせるアゼリア。うるうると涙を湛えた瞳でじっと見つめて来る。どうした、なぜ僕を責めるような目で見るんだ。
「お兄様、……お兄様は女性だったのですか?」
「は……、え!!?」
危ない危ない、愛しい妹に向けてドスの効いた「は?」をぶつけそうになってしまった。いや、どこをどう見たら僕が女性に見えるんだ。え、僕は男だよな?いやいや、正真正銘男だよ。昨夜もトイレに行ってるからな、ちゃんと付くべきものが付いているし、少なくとも身体的に女性ではない。
「わたくし、これだけ一緒に過ごしていて……ちっとも気付きませんでした。でも、サフィール様のお手紙の通りの場所で肖像画を探しましたら……お兄様が女性だった頃の絵姿が出てきたのです」
「……へぇ。っていやいや、お兄様は男性ですぞ!」
「そ、そうなのですか……?」
動揺のあまり語尾がおかしくなってしまったが、アゼリアはたいして気にする様子もなく再び可愛く小首を傾げた。何がどうなっているのかうまく繋がらないぞ。とにかく、手紙の内容によってアゼリアが混乱させられたという事だけはわかる。
「そうなのです……。ちょっと色々と確認したい事があるから、その……サフィールって子のお手紙を見せてもらえるかい?」
「その、お手紙は、あるにはあるのですが……」
「僕に見せられないくらい、衝撃的な事が書いてあるのか」
「衝撃的ではありますが、見せられないほどではなかったはずなのです。……お兄様、ごめんなさい」
アゼリアが表情を曇らせる。どうしてか嫌な予感というのは当たるもので、彼女がポシェットの中に手を入れると、ビリビリに破られた紙片が少しずつ出て来た。なるほど文面はかろうじて見せられるが、物理的に見せられない状態になってしまったわけだ。
一途なところはあるものの、いたって温厚な妹にこれだけの事をさせるとは……どんなえげつない事を書いたんだ、サフィールめ。
「アゼリア、そんなに腹の立つ文言が……」
「いえ!あの……破いたのはお父様で」
「お父様が」
「はい、わたくしがサフィール家からのお手紙だと話してしまって……ほら、以前縁談のお話をいただいて以来、お父様……よく思っていらっしゃらないでしょう?うっかり者のお父様が、勢いよく破いておしまいになったのです」
「うっかり者のお父様」
ジェット家の大黒柱、オーラン・ジェット。お父様はいつもむっつりといかめしい顔をしている事がほとんどの、所謂堅物だ。生真面目だし融通が利かない。うっかり者だなんて称するのは妹のアゼリアぐらいで、飄々と大抵の事を器用にこなすアデル兄様ですら非常に恐れる男である。そして、僕に勝るとも劣らないアゼリアへの溺愛ぶり。サフィール家は何を思ってアゼリアに縁談を申し込んできたのかわからないが、それ以来、お父様はサフィール家を目の敵にしているのだ。大方、アゼリアの持っている手紙を恋文だと誤解したのだろう。
ちなみに縁談はまだ早いと即断ったそうだ。向こうは侯爵だし悪くない話なのだが、娘への暴走気味の愛が目を眩ませているのは間違いない。
「お兄様の看病をしている間に……少しずつ貼り合わせるつもりでしたの。こんなことになってしまってごめんなさい、お兄様……」
「お父様の怒りが直撃してこれで済んだなら、可愛いものさ。燃やされなかっただけ良しとしよう……」
机の上に広げたバラバラの紙片を、二人して神妙な顔つきで見つめる。
僕の自分探しの旅は、この手紙の修復作業から始めることになったのだった。