目やにを取りたい
これは、認知症になったお姑さんを、嫁の視線で見つめた身辺雑記です。
義母を介護した数年間を、書き綴りました。
義母と接することができた、貴重で幸せな時間の記録です。
冬になると、肌が乾燥するが、年を取ると、年中乾燥している。
40代の私も乾燥を日々実感するが、義母を見ていると、『これが、私たちの未来予想図なの?』と、そら恐ろしくなる。
義母とは、お姑さんのことだ。結婚してから、私の母になった人。今年で87歳になる。認知症だ。
その痩せ細った腕の表面の皮膚はとても薄く、ほぼ半透明で、下に流れる血管が、気味悪い程によく見える。リアルな人体の不思議展だ。
義母が、今の施設に入ったのは4年前。5月のよく晴れた日だった。介護施設から、特別養護老人施設へ。ここが、義母の終の住処になる。
建物自体が古く、全体的にねずみ色をしている。床はなぜか低粘着で、スリッパで歩くとペチャペチャ鳴る。部屋にポータブルトイレがあるので、たまに排便のにおいがする。以前いた施設は近代的で設備も新しかった。でも、リーダー的な人が後輩を怒鳴りつけていたのを見たことがあった。ここではそういう風景は見たことがない。この施設に入れたことを、心から感謝している。
義母は股関節を2回骨折した。それからずっと車いすで生活している。支えてもらえば立ち上がることはできたが、歩くことはもうできなかった。でも車いすに座って、自分で足をちょこちょこと動かして移動することはできた。その姿はかわいらしかった。
でも、去年の2月に軽い脳梗塞で倒れ、入院してからは、右半身に麻痺が残った。利き手側だったので、スプーンがうまく握れなくなり、食も細くなった。
車いすのちょこちょこ歩きも、できなくなった。
それよりも大きなダメージを受けたのが、言葉だった。何を言っているのか、わからなくなってしまったのだ。義母は、以前のように話しているつもりなのだが、内容が聞き取れない。よーく聞いて、読み取れた何個かの単語から、だいたいこういうことを言っているのかな? と予測を立てる。で、義母に『〇〇のことですか?』と尋ねるが、その返事も理解できないので、予測は行き場をなくす。微笑んで頷くだけになってしまい、つらい。
前までは、打てば響くような会話のラリーができていた。
『このお菓子美味しいですか?』とか聞くと、
『しゃあないから食べてる』
と、こちらが思わず笑ってしまうような返事をしてくれていた。とは言え、介護度4なりの辻褄の合わなさはもちろんあって、例えば、同じ施設の入所者のおばあさんを、『あの人は職場の主任や』と呟いたり、亡くなって10年以上経つ自分の母親が生きていることになっていて、その世話が忙しいと嘆いていたりすることもあった。
義母にとって、母親の存在は大きいようだった。主に悪い意味で。義母の母はお嬢様育ちだったようで、『あの人はなんもせんかった。私が家事や兄弟の世話を全部した』と義母は何度も愚痴っていた。義母は6人兄弟の長女だった。義母の父は目が不自由だった。その世話も義母がしたらしい。父の話しをする時は少し誇らしげになった。
何度も同じ話を繰り返し聞いたけれど、今はもうそれも聞けなくなった。
義母の父は早くに亡くなったが、母は97才まで生きた。義母は、母親を最期まで一人で世話をした。母親を看取り、ようやく自分の時間を手に入れた義母は、コツコツ貯めたお金でマンションを買い、悠々自適な一人暮らしを始めた。高島屋で買い物をし、地下の喫茶店でコーヒーを飲み、趣味の習字や旅行を楽しんだ。
でも、何年かして、“あれ”がやってきた。
「鍵がない」
ある夜、突然、息子である私の夫の携帯電話にかけてきた。「鍵がない」「誰かに盗られた」と、義母は困惑して繰り返す。夫は訳が分からずいら立ち、「ちゃんと探せ」と怒鳴ったりした。それが認知症の初期症状だったと、後になってわかった。でもこの時はわからない。本人も混乱するが、家族も同じくらい混乱する。家族なだけに、キツイ言葉を投げつける。すがる思いで息子に助けを求めたのに罵倒された、この時の義母の気持ちを考えると、胸が締め付けられる思いだ。だけど、これはどうすることもできない。誰も悪くない。
担当のケアマネージャーさんがつけられ、週に何度かはデイサービスに行き、週に何時間かはヘルパーさんが義母の家に来て、家事をしてくれた。私と夫も、休みの日に、交代で義母の家に通い、世話をした。
私が行くと、にこにこして、いつも「ありがとう」と言ってくれた。私のことを、“息子の嫁”だとは理解しているけど、名前は憶えていない。私は一度も名前で呼ばれたことはない。呼ばれたことはないが、それなりに関係は成立していた。
義母は、何かにつけ、こちらを笑かそうとした。私が一番好きな話は、ケアマネージャーさんが義母に、
「息子さんたちが世話してくれて、よかったですね」
と言ったら、義母は頷き、
「一匹産んどいて、よかったわ」
と答えたやつ。これは私の頭の中のお気に入りファイルに入れてある。
脳梗塞での入院から、麻痺は残りつつも退院し、また施設に戻った義母は、夏の間に左手でごはんを食べられるようになった。施設の人が根気よく、見守ってくれたおかげだ。食欲も戻ってきた。
元気を取り戻すのは、食事と環境なんだと、改めて思う。
義母と関わっていると、生きることが実にシンプルだということに気づかされる。普通に生活していると、いろいろなことが複雑になってくる。複雑な方が、充実しているような気になる。でもそれは錯覚だよと、教えてくれる。
義母の生きる姿は、こんがらがった私の日常を、ときほどいてくれる。
10月。義母の誕生日。
「お義母さん、今日、誕生日ですね」
施設を訪ねて、私が義母に顔を近づけて、はっきりとした大きめの声で言った。
義母は「なんのこと?」という顔をしたので、日にちを言うと、「ああ」と思い出した。
「おいくつですか?」と聞いてみる。
私としては、87才という高齢を、一緒に笑ってしまおうという狙いで聞いたのだが、義母は、年齢自体を思い出せない。
「87才ですよ」と伝えると、
義母は、驚いた顔をして、「まじで? そんな年かよ」と、表情で伝えてくる。このリアクションを待っていたので、私は、
「わぉ、ですね」
と返して笑う。義母も笑う。この時は珍しく意思疎通ができ、言葉と表情で会話が成立した。嬉しくなった私は調子に乗って、
「でも、お義母さん、ほんまは30才ちゃいますかぁ?」
とベタなボケにのせて、お世辞を言った。すると、義母は真顔で、振り払うみたいに手を動かした。実際に言葉は聞こえないが、たぶん私にこう言った。
「そんな、おべっか、いらんねん」
私はまた笑ってしまった。
冬になると、肌が乾燥するが、年を取ると、乾燥がさらに増す。
義母の目には、目やにがこびりついている。義母が自分で取ることはできない。目やには出たときは粘り気があるが、加齢の乾燥で水分がなくなり、結果目尻やまつ毛の根元にこびりつく。施設のスタッフさんも気を付けて取ってくれるが、追いつかないくらい目やには義母のまつ毛に根をはっている。
私は、ウェットティッシュでこそぎ取る。
「お義母さん、目つぶってください」
「ちょっと痛いかもしれませんよ」
などと言いながら、頑張って取る。でも、あまり取れない。
しつこくやると、薄い皮膚が赤くなるので、こそこそでやめて、顔を拭いてあげる。
「はい、終わりました」と私が言うと、義母は目を開け、「ありがとう」と微笑む。
さっぱりしたぁ、という顔で。
冬が過ぎると、春になる。あっという間に衣替えの季節になる。パジャマを薄手のモノに、セーターをポロシャツに替える。古くなった夏物のパジャマを買い替えなくては。ポロシャツも、ズボンも。新しいものを買っておこう。
次の夏も、次の冬も、またその次の夏も、冬も。
私は義母の目やにを取りたいのである。
おわり
最後までお読みいただきありがとうございました。
今回は、私が実際に体験した介護経験を文章に残したいと思い、私小説にしました。
義母が認知症になる前の元気だった時、私は義母ときちんと話しをしたことが一度もありませんでした。仲が悪いというわけではなく、疎遠だったのです。でも、認知症という病気が現れて、必然的に頻繁に義母と会うことになりました。病気がきっかけというのは、悲しいことなのかもしれませんが、義母と一緒に過ごせたことは、私にとって宝物のような経験でした。
義母は、昨年の春亡くなりました。この小説は、亡くなる数カ月前に書いたものです。いつまでもお世話ができると、義母は死なないと、勝手に思い込んでいましたが、現実はあまりにも早くお別れが来てしまいました。
介護には、暗いイメージがつきまといますが、私は本当に幸せな介護経験をさせていただきました。
お義母さんに、夫に、関りのあった全ての人達に、感謝したいです。
ありがとうございました。
毎月4日、18日頃の月2回、短編小説を投稿していきますので、
よかったら、また読んでいただけると嬉しいです。
本当に本当にありがとうございました。