よく眠れた朝は……
クリスは慌てた。もしかしたら、人生の中で一番慌てたかもしれない。
とにかくルドを回避しようとした。だが、突然のことに体がうまく動かない。こうしている間にもルドが迫ってくる。
どうにもならないと判断したクリスは両目をギュッと閉じた。それから、ポスンという音とともにベッドが微かに揺れる。
クリスが恐る恐る目を開けると、ルドの顔が横に落ちていた。しかも、ルドの全身がクリスの体に覆いかぶさっており重い。
「おい、こら」
ルドの体を叩くが返事はなく、耳元から寝息が聞こえてきた。
「い、いや、ちょっと待て。このまま寝るな」
クリスがなんのか起こそうとするが、ルドは爆睡しておりピクリとも動かない。慣れない移動と緊張で疲れていたところに、酒を一気飲みしたことがトドメとなった。
「クソッ」
脱力した体は重く、とても持ち上げられないため、クリスはズルズルと這い出た。
「はぁ……」
体が軽くなったところで安心していると、背後から腕が伸びてきた。
「なっ!?」
逃げる間もなく、抱き枕のようにルドに拘束される。
「ちょっ、待て……おい!」
クリスの声に答えはない。
背中にはルドの温もり。頭上では安堵したように眠るルドの寝息。そして、腕と足でしっかりと体を固定され、抜け出せない。
「なんで、こんなことに……」
クリスがどうするか考えていると、ふと一年前のことを思い出した。
「そういえば、前もこんなことがあったような……」
あの時は何故あのような状況になったのか、よく覚えていない。ただ、目が覚めた時にはルドの胸の中にいた。そして、その時は眠気が勝ったため、そのまま再び眠った。
「あの時は、よくこんな状態で寝れたよな」
過去の自分を評価しながら、これからどうするか考える。だが考えようとすればするほど、心臓がドキドキと五月蠅く、頭がうまく回らない。
「あの時もこんなだったか?」
クリスが首を捻る。少なくとも、こんなにドキドキした記憶はない。
「なにが違うんだ?」
クリスが考察をする。
まずは場所だな。あの時は私の部屋だった。今は客室とはいえ犬の部屋。そうか。自分の領域ではない、というのもあるか。
次に姿勢。あの時は向かい合っていたが、今は背中を向けている。つまり、あの時より接地面が広く、犬の体温をより多く感じている。
あとは……あの時はいつの間にか眠っていて、起きたといっても半分寝ぼけていた。つまり寝やすい状況だった。
「そうか! 今足りないのは眠気か! 眠気がないから、余計なことを考えてしまうのか」
ラミラたちがいたら確実に「違う!」と言われる結論をクリスは出した。
「では眠くなるためには、どうするか……」
クリスが考えようとしたところで、ルドの気持ち良さそうな寝息が耳に入って来た。平然と寝ているルドに怒りがわく。
「なんで、こんなヤツのために悩まないといけないんだ。ヤメだ、ヤメ!」
クリスは開き直ると、ルドの腕の中でもぞもぞと動いて体勢を整えた。
「悩むだけ時間の無駄だ」
そのまま目を閉じる。胸は相変わらずドキドキしているが、温もりは気持ちいい。
こうしてクリスはいつの間にか眠っていた。
早朝。ルドはいつもの時間に目が覚めた。窓の外は暗いが、体が起床時間だと教えている。
「……朝か」
ルドは体を動かそうとして、腕が重いことに気が付いた。
「あれ?」
視線を下げると、そこには見覚えがある金髪があった。
「しっ!? ししょっ!?」
反射的に体を引きかけたが、どうにか止める。自分の腕の中でクリスが丸くなって眠っている。
「えっ……ど、どうして……」
そこでルドは昨夜のことを思い出した。酒を飲んでいたとはいえ、全てをしっかり覚えている。
「あぁぁぁあぁぁ……」
ルドはクリスを起こさないように小声で悶えた。
「なんて……なんてことをぉ……」
体を動かさずに全身で後悔をしていると、金髪が微かに動いた。
「し、師匠?」
ルドが恐る恐る小声で訊ねるが、クリスからの返事はない。
「んぅー……」
クリスが寝返りをうってこちらを向く。その瞬間、ルドはクリスの下敷きになっていた腕を引き抜いた。
「よし、これで……」
ルドが静かにクリスから離れようとする。そこでクリスの手が何かを求めるように動いた。
「……ぃや。いきたくな……みんなと、いっしょ……」
微かな懇願するような声。いつもの尊大な雰囲気はなく、迷子の子どものように、クリスが小さく幼く見える。
ルドが思わず手を出してクリスの手に触れる。するとクリスがルドの手を握りしめて顔に引き寄せた。
「し、師匠!?」
戸惑うルドとは反対に、クリスが満足そうに微笑む。安堵しきったその顔に、ルドも思わず力が抜けた。
ルドは起こしかけた体を再び横にして、小さく体を丸めているクリスに視線を落とす。
一年前の時も、クリスは同じように小さく丸まって寝ていた。もしかしたら、小さく丸まって寝るのがクセなのかもしれない。
まるで何かから逃げるように、隠れるように、体をできるだけ小さくしている。
クリスがゴソゴソとルドの胸の中に入ってきた。まるで人の温もりが恋しくて、無意識に探しているような……
ルドが空いている手でそっとクリスの金髪を撫でる。柔らかい髪が指に絡む。
クリスは複製とか言っていたが、こうしていると普通の人となにも変わらない。肌の柔らかさも、頬の温もりも同じだ。
ルドはいつの間にか、ゆっくりとクリスの頬を撫でていた。手は震えていない。恐れよりも大きな感情が包み込んでいる。それが何かは分からない。ただ、とても満ち足りている。
ルドは、しばらくの間クリスの金髪を撫でながら顔を眺めていた。クリスが自室にいないと騒ぎになるまで……
クリスは誰にも起こされることなく目が覚めた。いつもカリストに起こされるまで起きないクリスにとって、とても珍しいことだった。
心地よい微睡みに満たされたまま、ぼんやりと目を開ける。そこには、あるはずの温もりがなく真っ白なシーツしかなかった。
ちょっとした寂しさを感じながら、クリスが少しだけ手を伸ばす。すると、そこには覚えのある温もりと残り香があった。
寝ぼけたまま布団を引き寄せて抱きしめる。そのままウトウトしていると、ノックの音が響いた。
「おはようございます」
いつものようにカリストが部屋に入って来た。紅茶の匂いが部屋に広がる。
クリスは布団から顔だけを出すと、盛大な足音が廊下から聞こえてきた。
「……外が騒がしいようだが?」
走って逃げる足音と、何かを言いながら追いかける音がする。カリストが良い笑顔で紅茶をテーブルに置きながら答えた。
「あぁ、ラミラが犬に昨夜のことを聞いて回っているだけです」
「……犬は何か言っていたか?」
「いえ、なにも」
「そうか」
クリスが起き上がり紅茶を受け取る。
「顔を真っ赤にして「何もなかった」と叫んでいるだけです」
「んぐふぅ」
紅茶を吹き出しかけたクリスは息を整えながら呟いた。
「それだと何かあったような感じになるではないか」
「まあ、犬ですから」
カリストが鼈甲の櫛を取りだして髪を梳こうとしたが、クリスが止める。
「今日はしなくていい。朝食は?」
「できております」
「わかった」
クリスは紅茶を飲みきると、カップをカリストに渡して自室に戻った。
ベッドと机という最低限の物しかない部屋に入ると、クリスはクローゼットを開けた。中から無造作に服を取り出してベッドに放り投げていく。それから、着ていた服もさっさと脱ぎ棄てた。
胸の上でルドの魔宝石が一際赤く輝く。いつもなら、ここで胸の膨らみを隠す下着を装着するが、今日は着なかった。
ベッドの上に投げた服を素早く着ると、クローゼットに付いている全身鏡の前に立った。櫛で髪をまとめようとして、いつもなら爆発している金髪が、今朝は大人しいことに気付く。
「なぜだ?」
クリスが髪に触れる。そこで微かにルドの魔力を感じた。クリスが起きるまで、ルドが手櫛で髪を梳いていたため、魔力が移ったのだ。
そのことをなんとなく察したクリスの顔が真っ赤になる。
「あの、犬……なんて恥ずかしいことを……」
クリスは赤面したまま金髪を握りしめて俯いた。
クリスが羞恥で死しそうなほど悶えている頃、ルドは廊下の端に追い詰められて両手を挙げていた。
クリスが言っている一年前については
「ツンデレ治療師は軽やかに弟子に担がれる」の67話、68話あたりのことです