ワンコ弟子、ついに師匠を襲う……のか!?
ルドは背を壁にあててズルズルと座り込んだ。
「はぁ……こんなこと、初めてだ……」
ルドが鼻を押さえていた手を離す。タオルは少し赤くなっていたが、あまり出血はしていないようだ。
「……情けない」
ルドがタオルの中に顔を埋める。石鹸の良い匂いとともにクリスの顔が浮かぶ。
「……師匠」
微かな匂いの余韻に浸っていると、誰かが歩いてくる気配がした。
ルドが慌てて顔を上げると、そこには驚いた顔をしたラミラがいた。
「どうしました!?」
「あ、いや……のぼせたようで、鼻血が少し出ました」
「では、なにか飲み物を……」
走り出そうとしたラミラをルドが慌てて止める。
「大丈夫です! 師匠が取りに行ってます」
そこで何か勘づいたのか、ラミラがニヤリと質の悪い笑顔で振り返った。
「もしかして、見ましたか?」
「な、なにを、ですか?」
ズズイとラミラが迫る。
「クリス様の、は・だ・か、です」
ルドの脳裏に、先ほど見たクリスの胸の谷間が浮かぶ。ルドは振り払うように勢いよく頭を横に振った。
「みみみみみみみ、見てません!」
「あら、残念です」
「なんで残念なんですか!」
思わず怒鳴るルドに、ラミラが頬に手を添えてため息を吐く。
「風呂場で顔を合わすように、入り口の布を交換しておきましたのに」
「犯人はあなたですか!」
「あら、発案者はカイ様です」
ラミラは悪びれることなく平然と主犯者を晒した。
「なにがしたいんですか!」
「荒療治ですわ。今のままでは、女性恐怖症を克服できそうにありませんので、思い切ったことをしたら逆に克服できるかと思いまして」
「余計にできません!」
「そうでしょうか? そもそも、女性恐怖症の原因となりましたベレン様は、金輪際手を出さないと約束されています。それに、クリス様なら少々のことであれば平然と対処されます。そう思いませんか?」
女性恐怖症になったのは、ベレンがルドに近づいてきた女性たちに嫌がらせをするので、その被害者を出さないように女性を避けていたら、いつのまにか恐怖症になっていた。
だが、今はしないと誓約書を書いているし、クリスなら被害を受ける前に対処する。
ルドは納得して頷いた。
「まぁ、確かに」
「頭で理解しているのにクリス様に触れられない、ということは、体が無意識に拒否している、ということです。それなら、クリス様の側にいても、触れても何も起きない、変わらない、ということを体に覚え込ませたほうが早いと思います」
「体に……」
ルドが悩んでいると、ラミラが廊下の方に視線を向けた。
「あら、クリス様が来られますわ。では、失礼いたします」
ラミラが足音なく素早く姿を消す。そこに水筒とコップを持ったクリスが小走りでやってきた。
「鼻は大丈夫か?」
ラミラがいたことに気付いていないクリスがルドに近づく。ルドはすんなりと立ち上がった。
「血は止まりました」
クリスが水筒の中身をコップに注いで渡す。
「これを飲んで水分を取れ」
「ありがとうございます」
いつもなら飲み物や食べ物を口にするときは警戒する。だが、この時はのぼせていたのと、渡してきた相手がクリスというのもあり、ルドは勧められるまま一気に飲んでしまった。
「ゲホッ。ゴホッ!」
思いっきりむせたルドにクリスが驚く。
「どうした!?」
「これ、サケッ……キツッ」
クリスが慌てて水筒の中の匂いを嗅ぐ。
「酒か!? ミレナは水だと言ったのに……」
クリスが驚いていると、ルドは息を落ち着かせて言った。
「だ、大丈夫です。驚いただけ……で」
「すまない。すぐに水を持ってくる」
「あ、ちょ……」
ルドが止める間もなくクリスが再び走り出す。ルドは大きく息を吐くと、クリスが置いていった水筒の中の匂いを嗅いだ。
「不思議な匂いだな……」
水筒の中身をコップに少しだけ入れる。無色透明で濁りもない。
「これなら水と間違えても、おかしくないか」
ルドはゆっくりと口をつけた。アルコールは強めだが口当たりは良く、後味はさっぱりしている。
「結構、美味しいかも」
味が気に入ったルドがチビチビと飲んでいると、新しい水筒を持ったクリスが走ってやってきた。
「今度こそ水を持って来たぞ。飲め」
「ありがとうございます」
ルドが持っているコップにクリスが水を入れる。ルドは少しだけ口をつけ、今度は水であることを確認すると一気に飲んだ。
「はぁ……」
一息ついたところでクリスが心配そうにルドの顔を覗く。
「大丈夫か?」
「だいじょうぶですよぉ」
ルドの話し方がどこかいつもと違う。クリスは首を傾げた。
「どうした? まだ、のぼせているのか?」
「そんなことないと、思います。ちょっと頭がふわっとしますが、気分は良いですから」
上機嫌のルドの様子に、クリスは訝しむように眉間にシワを寄せた。
「とにかく、今日は休んだほうがいい。部屋に戻れ」
「だいじょうぶです。それより、師匠は笑ったら可愛いんですから、そんな顔したらダメですよぉ」
「かわっ!?」
クリスの顔が真っ赤になる。その様子にルドがますます笑顔になった。
「そうそう。そういう顔の方が可愛いですよ」
何かに気付いたクリスの顔がくもる。
「……お前、酔ってるな?」
「これぐらいじゃあ、酔いませんよぉ」
ケラケラと笑うルドにクリスは頭を抱えた。
「それを酔っているというんだ。ほら、部屋に行くぞ」
クリスがルドの服を掴んで引っ張る。
「休まなくても大丈夫ですって。図書室に読みかけの本があるので続きを……」
「そんな状態で本を読んでも、頭に入らないだろ」
ルドがクリスに引っ張られるまま歩く。その足取りは意外としっかりしているが、顔はずっとニコニコと笑っている。
「笑い上戸か」
「なんですかぁ?」
「なんでもない」
クリスが二階にある客室のドアを開ける。
「ここがお前の部屋だ。ほら、休め」
部屋に押し込まれたルドが不満そうな顔になる。
「えー、まだ日課の鍛錬をしていないですしぃ」
「その状態で体を動かしたら、酔いが回って倒れるぞ」
「ほら、師匠。また顔が怖くなってる」
そう言いながらルドがクリスの眉間に指をあてた。
「えっ!? なっ!?」
「美人が台無しですよ」
「酔っていても、そういう冗談は……」
クリスが顔を赤くしながらルドの手を払う。すると、今までの軽いルドの口調が一変して、真面目な低い声になった。
「冗談ではないですよ」
耳からゾクリと寒気がするような声に導かれてルドの方を向く。そこには、真っ直ぐこちらを見据えている琥珀の瞳があった。
「ど、どうした?」
クリスが思わず一歩下がる。顔から笑顔が消えたルドが言った。
「師匠は綺麗で可愛いんですから、ちゃんとその自覚をもってください」
「いっ、いきなり何を……」
ルドの気迫に押されるようにクリスが下がる。
「いつもは厳しいのに、ちょっとした時に優しくて……」
「え?」
「しっかりしているようで、抜けたところもあって……」
「は?」
「隙がないようで、意外と隙があって……」
「おい?」
「見ているこっちは心配なんですよ」
「何を、言っているんだ?」
ルドが少し怒ったような顔になる。
「ほら、そういうところです」
「だから……うわっ」
後ろ向きに下がっていたクリスは、背後にベッドがあることに気付かず、そのまま足をひっかけて倒れてしまった。
ポフンとベッドの上に倒れたクリスにルドが詰め寄る。
「師匠は弱いんですから、簡単に押し倒されてしまいますよ?」
クリスが上半身を起こして、ズリズリとベッドの上側へ逃げる。
「こ、これは、足を引っかけただけで押し倒されていない!」
「じゃあ、これから押し倒します」
ルドの腕がクリスの顔の横を突き抜ける。ルドが覆いかぶさるような体勢になり、クリスは動けなくなった。
「……師匠」
見下ろしてくる琥珀の瞳が座っている。クリスの全身から汗が吹き出した。
「ま、待て。お前は酔っているだけだ。とにかく寝ろ。一度寝れば目が覚める。そうすれば……」
クリスの制止も虚しくルドの顔が迫って来る。
「し、しょぅ……」
「おっ、おい! ま……」
クリスの声が途切れた。
夜には「ツンデレ治療師とワンコ弟子の日常」の方に年越し編を投稿します( *・ω・)ノ