クリスの妥協
翌日。
クリスとルドは、お揃いのように目の下にクマがある顔で現れた。見送りに出てきたエルネスタが笑顔で声をかける。
「おはよう。二人そろって眠そうね」
クリスが怪訝な顔でエルネスタに訊ねる。
「なぜ、そんなに嬉しそうなのだ?」
「そんなことないわよ?」
エルネスタがニコニコと二人を見守る。
クリスは不機嫌な顔のまま、ルドの方を見ることなく言った。
「カリストが影から護衛をするから、お前は帝城に来なくていい」
「え!? 共に行きます!」
慌てるルドを置いて、クリスがさっさと馬車に乗り込む。そのままクリスがドアを閉めようとしたところで、ルドが手を滑り込ませた。
「師匠!」
まっすぐ見つめてくるルドから逃げるように、クリスが顔を背ける。
「お前は……魔法騎士団に戻れ」
「戻りません!」
「いいから! 戻れ!」
「戻りませんって!」
クリスが馬車のドアを必死に閉めようとするが、力でルドに敵うはずもなく、あっさりと開けられてしまう。そこにエルネスタがルドの背中を押した。
「ほら! さっさと行ってきなさい」
「うわっ!?」
ルドが馬車の中に転がりこむ。すかさずエルネスタが馬車のドアを閉めて、御者に出発するように指示を出した。
ガラガラと馬車が揺れる。微妙に気まずい空気が流れる中、二人は向かい合うように、座席に座った。ルドが俯いたままチラッと、クリスの顔を覗く。
顔は窓の外に向けられているため見えないが、治療師の服を着ている姿はいつもと変わらない。
女性だと分かっても何も変わらな……と、そこまで考えてルドは、掌に汗をかいていることに気が付いた。体には無意識に力が入り、緊張している。
「なんで……」
ルドが自分の手に視線を落とす。その様子に、クリスは視線を外に向けたまま言った。
「長年かけて体に染みついた習慣は、そう簡単には変わらない。私から学ぶのは無理だ」
「いえ! 大丈夫です!」
断言するルドの言葉に、クリスの心が揺れた。
今ならまだ離れられる。昨日の夜、決めたじゃないか。
クリスがグッと強く手を握る。
「あと護衛の仕事もできないだろ。すぐに疲れるぞ」
「これぐらい平気です!」
「だが……」
大きく馬車が揺れ、クリスはバランスを崩して倒れかける。どうにか壁に手を当てて転倒は免れた。
クリスが顔を起こすと、目前に手助けしようとしてるルドがいた。
「師匠、大丈夫ですか?」
額に汗をかきながらも心配してくる。クリスはその姿に、お前が大丈夫か? と問いたくなった。
クリスは静かに腰を浮かすと、椅子に座り直した。
「そばに来ただけで、それだけの汗だ。治療について学びたいなら、シェトランド領にいる優秀な治療医師を紹介するから、そこで学べばいい」
ルドが大きく頭を横に振る。
「自分は師匠から学びたいんです!」
まっすぐ見つめてくる真剣な琥珀の瞳に決意が揺らぐ。このままでは流される。
クリスは目を閉じて言った。
「先帝の治療が終わるまでだ。今日の先帝の治療を終えたら、私から離れろ」
「嫌です」
拗ねたような声に、クリスが怒鳴る。
「嫌ってお前は子どもか! こっちが折れてやったのに!」
「嫌なものは、嫌なんです!」
「知るか! そもそも、そんなに汗が出ている状態で学べるのか!? すぐに脱水になるだろ!」
「時間を下さい!」
予想外の申し出に、クリスの勢いが止まる。
「時間?」
「女性恐怖症を克服しますから! 今までと変わらないようになりますから! ですから、時間を下さい!」
クリスは俯いて考えながら、ちらりとルドを覗き見た。待てをしている犬のように、動くことなく琥珀の瞳をこちらにジッと向けている。だが体は微かに震えており、かなり無理していることが分かる。
その姿にクリスは大きくため息を吐くと、脱力したように背もたれに背中を預けた。
「……オークニーに戻るまでだ」
「え?」
「オークニーに戻っても、今と同じような状況なら、治療院の卒業試験を受けて魔法騎士団に戻れ」
「なら、それまでに克服できたら……」
「その時は好きにしろ」
「はい!」
ルドが喜びながら頷く。クリスは手で額を押さえながら窓の外に顔を向けた。
やってしまった……
自分が言ったことに後悔しながらも、気付かれないように視線だけでルドの顔を確認する。そこには嬉しそうに意気込むルドの姿があった。
もしかしたら、女性恐怖症を克服するかもしれない。そうしたら今まで通り……
そんな淡い期待が勝手に浮かんでくる。
「……クソッ」
クリスは複雑な気持ちで馬車の外を見た。
帝城に到着すると若い執事に迎えられた。そのまま先帝がいる地下へと移動すると、先に皇帝がいた。
「変わりはないか?」
クリスの問いに皇帝が笑顔で答える。
「あれから指が黒くなることはない。痛みもさほどないらしく、あの悪臭もなくなった」
「それならよかった」
イールが気配なくクリスの前に現れる。
「切断した部位に変化はなく、全身状態も治療前とあまり変わりはありません。経過は良好だと思われます」
「直接、診たいのだが、いいか?」
「準備します」
イールが先帝の首に金色の首輪を装着して魔法陣にナイフを突き立てる。
「どうぞ」
クリスは魔法陣の中に入ると先帝に声をかけた。
「調子はどうだ?」
「不思議なほど痛みが少ない。たまにないはずの指の痛みを感じる程度だ」
「幻肢痛だな。眠れないほどの痛みか?」
「いや。そこまでではない。戦で敵に斬られて高熱にうなされた時に比べれば楽なもんだ」
「そうか。切断したところを診るぞ」
「あぁ」
クリスは布団を取ると、切断した部位を一か所ずつ丁寧に診た。
「感染がおきている様子もないし、修復不全をおこしている様子もないな」
「順調と言ったところか?」
「あぁ。何か気になることはあるか?」
「いや、今のところ特にない」
「そうか。問題がおきたら私に連絡してくれ」
「わかった」
クリスが魔法陣から出るとイールがナイフを回収して先帝の首輪を外した。
「経過は良好だ。あとはイールの食事を食べていれば、ひとまずは大丈夫だろう」
「それならば良かった」
歩き出したクリスの隣を皇帝が歩く。
部屋を出て、階段を上りながらクリスが口を開いた。
「手足の指が黒くなるのは落ち着いたが、今まで蓄積されたものがあるからな。あと年齢を考えても、別の悪いところが出てくる可能性はあるぞ」
「年齢を考えると……そうだな。だが、あの姿を見ていると想像できん」
「人はいずれ死ぬ。いくら戦神と言われるほど強くても、だ」
「……わかっているつもりなのだがな」
「常に考えていろとは言わん。だが頭の片隅に置いておけ」
「そうしよう」
階段を上りきりドアを開けようとしたところでクリスは手を止めた。
「ところで昨日の街での騒ぎだが……」
クリスの言葉に皇帝が首を傾げる。
「街での騒ぎ? なにかあったのか?」
「報告が上がってないのか?」
皇帝の顔が険しくなる。
「なにが起きた?」
「第二皇子に直接報告されているはずだが?」
皇帝が神妙な顔で頷く。
「……わかった。こちらで確認しよう」
クリスはドアを押し開けながら言った。
「私はシェットランド領に戻る。不本意だが、ケリーマ王国の第四王子も付いてくるそうだ」
「聞いている。ベレンも行くそうだから任せる」
「は? なぜ、ベレンまで!?」
今まで静かに空気となっていたルドの肩が跳ねあがる。皇帝が苦笑いをした。
「各地を見てまわりたいらしい。直接私に懇願しに来た」
「いらぬ行動力が付いたな」
「姉上の娘だからな」
「敵の策略を見抜き、皇帝に出された毒入りの盃をワザと飲んだ、あの人か。もし毒が入っていなくても自分一人の暴走という風に装えるようにしていたからな。ベレンもその賢さを引き継いでいておかしくないのだが……」
「あれはあれで、なかなか敏いぞ。あの事件以来、姉上には頭があがらなくなったがな」
「そうだろう。で、ベレンたちはどこにいる?」
「先に湖に向かった」
クリスがため息を吐く。
「無理やりにでも付いてくるつもりか」
「頼んだぞ。なんだ、かんだ言いつつ、そなたは面倒見が良いからな」
「なんでもかんでも押し付けるな。こちらにも限度がある」
「そう言うな。頼りにしている、ということだ」
「いいように使われているような気がするな」
皇帝が柔らかい顔になる。
「そなたたち一族がいなければ、国は崩壊していた。本当に感謝している」
いつの間にか前を歩いていた若い執事がドアを開ける。明るい陽射しが差し込んできた。
乗ってきた馬車がそのまま待機している。クリスは馬車に乗り込む前に振り返った。
「では、失礼する」
「達者でな」
一領主を皇帝が見送るという前代未聞の光景に、護衛の騎士たちが苦虫を噛みつぶしたような顔になる。
相手が位の高い爵位持ちか、他国の要人もしくは王であるなら、皇帝自ら見送ることもある。だが、それ以外の相手なら途中で退席して代わりの者が見送るのが通例だ。
不服そうな騎士と満足そうな皇帝に見送られ、二人が乗った馬車は走り出した。