ルドとクリス
いつもの、人懐っこい犬のような姿はそこにはなかった。
冷たい空気を凍らせ、肌をピリピリと突き刺す感覚。張りつめた糸のように走る緊張。
模造刀を振るたびに、襟足から伸びた赤髪が揺れる。琥珀の瞳が、仮想の敵をまっすぐ見据える。高すぎない鼻に、形の良い口。整った顔立ちは、冷淡な印象にもなる。
とても近づけるような雰囲気ではないのに……
その視線の先に映りたい。
無意識に浮かんだ想いに、クリスの顔が真っ赤になる。
「いや、いや、いや、いや、いや、いや、いや! 何を考えているんだ! 私は!」
一人で激しく首を振っていると、ルドがクリスに気が付いた。
「師匠? どうかされましたか?」
ルドが模造刀を下ろして近づいて来る。それは、普段のルドだった。
クリスは恥ずかしさを誤魔化すように、声を大きくして言った。
「明日は先帝の治療があるから、さっさと寝ろと言っただろ!」
「あ、もう少し鍛練をしたら寝ます」
「いいから、今すぐ寝ろ!」
「そうはいきません」
珍しくルドがクリスに反論をする。思わぬ反応に、クリスはスッと恥ずかしさが消えて冷静になった。
「なぜだ?」
「二度と、あのような失態をしないためです」
ルドがきつく模造刀を握る。
「目の前で攫われるのを見ているだけの屈辱は、もう味わいたくありません」
「いや、あれは私も悪かった。あんなにあっさり攫われるとは思わなかったからな」
「いえ、師匠は悪くありません。守りきれなかった、自分の失態です」
そう呟くと、ルドは俯いて歯をくいしばった。
「はぁ……」
クリスは大きくため息を吐いて、ルドの長く伸びている襟足を引っ張った。
「何度も言っているが、自分の身は自分で守る! お前はそんなに気にするな」
「いえ! そういうわけにはいきません。今回はご無事でしたが、次もそうだとは限りませんから」
「それなら、なおのこと、さっさと休め。でないと、私も安心して休めん」
「え?」
丸くなった琥珀の瞳と視線が合い、クリスが慌てて顔を逸らす。
「い、いざという時に、倒れては困るからな」
「ありがとうございます」
礼を言われて、クリスがますます顔を赤くする。
「か、勘違いするなよ! 別にお前の心配をしているわけではないぞ! 倒れたら治療しないといけないから、面倒なだけだ!」
「……治療して頂けるんですか?」
想定外の言葉に、クリスが横目でルドを睨んだ。
「お前、私をなんだと思っているんだ?」
ルドが照れたように頭をかく。
「いや。まさか、治療してもらえるなんて、考えていなかったので」
クリスがルドの足を蹴る。
「それなら、治療が必要な状況にならないように、とっとと寝ろ!」
「は、はい」
「ほら! さっさと歩け!」
「ちょっ、師匠! そんなに蹴らな……いてっ!」
ルドはクリスに蹴られながら屋敷へ戻っていった。
翌日。クリスはルドを連れて帝城を訪れていた。
帝城の地下深く。先帝が幽閉されている部屋。皇帝と護衛の騎士、数人とともに、クリスはベッドに寝ている先帝と面会をしていた。
「予定より遅れて悪かった」
「大まかなことは聞いておる。無事で、なによりだ」
「早速だが、治療をしてもいいか?」
「あぁ。イール」
壁際に控えていたイールが進み出る。懐から出した魔力封じの金の首輪を先帝に装着すると、金のナイフを銀の魔法陣に突き刺していった。
「どうぞ」
イールに誘導されて先帝の前にクリスが立つ。ルドがクリスの足元に鞄を置いた。
「師匠、手伝わなくていいのですか?」
「大丈夫だ。お前は、お前の仕事に専念しろ。イール、中身を出してくれ」
「はい」
イールと入れ替わるように、ルドが下がる。
イールは鞄から折り畳み式の机を出すと、素早く組み立てた。そして、次々に鞄の中から箱を出して並べていく。ルドは周囲を警戒しながらも、イールの動きを観察していた。
イールは、もう一つ机を出して組み立てたのだが、その机の脚には、移動がしやすいようにタイヤが付いていた。イールは、その机を始めに出した机の横に移動させて、箱の蓋を開けた。
そこには、柄が長いハサミのような形をした器械があり、先端は楕円形で、物を挟みやすいようになっていた。
イールは、柄が長いハサミのような物を使い、箱の中から布を取り出すと、タイヤが付いた机に広げた。
それから、箱の中にある器材を、次々と柄が長いハサミのような物を使って、順序よく布の上に置いていく。その動きに迷いはなく、手慣れた様子だ。
その動きに、ルドは素直に感心した。イールは簡単そうにしているが、挟んでいる物を落とさずに運ぶには、力加減とバランスが難しい。
ルドは始めの頃、力加減が上手く出来ず、柄が長いハサミを何度か壊しかけた。このような運び方をせず、手で持って運べばいいのに、と何度も思った。
それは皇帝も感じたらしく、ルドに訊ねた。
「なぜ、あのような物を使って出しているのだ? 手を使っては、いけないのか?」
「イールが箱から出している器材は、滅菌という特別な処理がされています。器材が滅菌していないものに少しでも触れたら、その器材は使うことが出来ません」
「滅菌とは、なんだ? そもそも、なぜ使うことが出来ないのだ?」
「器材に付着している、目に見えない生物を全て殺すことを、滅菌と言います。あと、人に有害な生物だけを殺す、もしくは除去することを、消毒と言います。滅菌した物に、滅菌していない物が触れたら、そこから目に見えない生物が移ります。目に見えない以上、細心の注意を持って扱わなければなりません」
「目に見えない生物だと?」
「はい。信じられないでしょうが、私たちの周りには、そのような生物が多くいます」
淡々と説明しているルドも、最初の頃は、滅菌や消毒などの説明を聞いても、その意味が理解できなかった。そもそも、細菌やウイルスなどという、目に見えない生き物がいることが、信じられなかった。
それでも、クリスの屋敷の書庫にある本で学び、細菌を培養したものを拡大魔法で実際に見たことで、やっと実感することが出来た。
それを、こんな口頭での説明で信じろというのは、無理な話である。だから、ルドは聞かれたことだけを説明した。
皇帝が不思議そうに質問をする。
「なぜ、そこまでして、小さな生物を殺さねばならぬ? 別におっても、かまわぬだろ?」
「小さいからこそです。目に見えぬほど小さいということは、体の中を自由に動き、増えることができます。たとえ治療が成功しても、もし器材が汚れていれば、数日後、治療をしたところに見えない生物が増殖をして、腫れと痛みを起こします。それは場合によっては、血にのって全身を巡り、酷い発熱を起こして死に至らしめることもあります。目に見えぬほど小さいからといって、侮れないのです」
「それは……なんとも信じがたい話だな」
皇帝の呟きにルドは何も言わなかった。それだけクリスの知識が飛び抜けており、理解しろというほうが無理なのだ。それに加えて、人体の構造についての知識。それに合わせた魔法の数々。
ここまでの知識と技術がある治療師は、この国……いや、他の国でも、クリス以外にいないだろう。
一般的な治療師が使用している治療魔法は、神の加護がないと使えない上に、確実に治るという保障はどこにもない。
まったく治らないこともあれば、中途半端に治ることもあるし、再発することもある。それは原因を考えず、ただ魔法をかけて、全てを神に委ねているからだ。
だが、クリスの治療は原因を追究し、そこを治療する。そのため、治療魔法のような不確定さはない。
そして、神の加護はあるのに、何故か治療魔法が使えないルドでも、魔法で治療をすることが出来る方法でもあった。
クリスは、ずっと治療魔法を使えるようになりたい、と願っていた、ルドの望みを叶えた人でもあった。
どんなことがあっても守り抜く。そのためには、まず魔法騎士団を抜けて、側に居られるようにしないと……
ルドは次々と準備をしていくクリスを見つめた。