エルネスタ
ベレンをからかって遊んだクリスは、馬車でルドの屋敷に帰ってきた。
「クリスちゃーん!」
馬車から降りたクリスを、突進してきたエルネスタが抱きしめる。
「怪我してない!? 大丈夫!? 誘拐されたって聞いて、もう、もう……」
クリスが大丈夫と言おうとしたところで、エルネスタからどす黒い気配が這い出てきた。
いつもより一段低い声でエルネスタが呟く。
「ケリーマ王国に、殴り込みに行こうと思っていたのよ……」
クリスに抱きついているため、エルネスタの顔は見えないが、声に込められた強い意志から、本気だったことが分かる。
そこに、やつれた顔をしたフィオリーノが歩いてきた。
「無事で、なによりだ」
数日前より、確実に頬がこけている。エルネスタを必死に止めていた結果なのだろう。
すべてを察したルドが、気の毒そうに労いの言葉をかける。
「お疲れ様です」
その声を聞いたエルネスタが、ゆっくりと顔をあげてルドを睨んだ。
「ルゥドォォォォ?」
「は、はい!」
ルドが一本の木のように、真っ直ぐな姿勢になる。
「なんで、目の前で、クリスちゃんを、誘拐されているのぉ? 私はぁ、そんな不甲斐ない子に、育てた覚えは、ありませんよぉ?」
「申し訳ありません!」
腰を直角に曲げて頭を下げたルドに、ゆらりと不気味な動きでエルネスタが近づく。
「しかもぉ、ケリーマ王国の、第四王子の側近と、引き分けたそうねぇ?」
「な、なぜそれを……」
エルネスタはルドの問いには答えず、袖から扇子を取り出すと、無言で振り下ろした。ルドの頭頂部に当たる寸前で、ルドが頭を下げた姿勢のまま真横に移動する。
鞭を打ったような音が響くと同時に、ルドが立っていた地面には大きな亀裂が入っていた。
「なっ!?」
驚くクリスの前で、エルネスタが次々と扇子を振る。その度に、風が刃となって地面に傷をつけていくが、ルドはそれを頭を下げたまま全て避けた。
しばらくして、エルネスタがスッキリした顔で言った。
「動きは悪くなっていないわね。次は、ないわよ?」
「はい!」
ルドがまっすぐ顔をあげる。
「あの、エル殿? いまのは……」
クリスの存在を思い出したエルネスタが、恥ずかしそうに頬を赤くする。
「あら、あら。見られちゃったわ」
「……魔法、か? いや、でも魔力は感じなかった」
クリスの言葉に、エルネスタがホホホ、と笑う。
「クリスちゃんったら、おかしなことを言うのね。この国では、女性は魔法が使えないのに」
エルネスタが、どこまで知っているのか判断しかねたクリスは、当たり障りなく話を続けた。
「では、今のは?」
「素早く扇子を振り下ろしただけよ」
エルネスタがニッコリと微笑む。そこにルドが補足説明をした。
「母は、祖父より武術を学んでおります。それが、魔法騎士団に匹敵する腕前でして……」
クリスが傷ついた地面に視線を向ける。
「魔法騎士団でも、扇子で地面を削れる者はいないだろ……」
「祖父は、母が女性に生まれたことを、非常に残念がっていたそうです。男なら魔法騎士団長になっていただろうに、と」
「そうだな……」
エルネスタが扇子を広げて口元を隠す。
「あら、そんなに悲観することでもないわよ。たまに、皇族の女性たちから護衛の依頼がくるの。むさくるしい殿方に守られるより、私の方が良いって」
エルネスタなら、警備が手薄になりやすい、貴族の女性だけのお茶会などにも、爵位があるため、違和感なく参加して護衛することができる。
「そうか……」
外見は、どこにでもいるような普通の婦人だが、人は見かけによらない。
クリスが肝に銘じていると、フィオリーノが声をかけてきた。
「疲れただろう。今日は休みなさい」
エルネスタが頬を膨らませて不満を表す。
「え!? せっかく無事に帰ってきたのだから、お帰りパーティーをしないと!」
フィオリーノがたしなめるようにエルネスタに言った。
「それは、明日でもいいだろう? 今日は疲れているだろうから、休むことを優先したほうが、いい」
エルネスタが小首を傾げ、上目遣いでクリスに訴える。
「パーティーしたら駄目?」
おねだりをするような表情と声。可愛らしい仕草だが、先ほどの地面を削った光景が脳裏をかすめて、素直に可愛らしいと思えない。
クリスは、どうにか無表情を作ると、頭を横に振った。
「申し訳ないが、明日も帝城に行かなくてはいけないので、今日は早めに休みたい」
「そう……なら、仕方ないわね」
悲しそうな顔で俯くエルネスタに、クリスは思わず提案していた。
「明後日なら時間があるから、その時に……」
エルネスタが茶色の目を光らせて素早く反応する。
「じゃあ、明後日は一緒に買い物に出かけて、その夜にパーティーをしましょう! 約束よ!」
「あ、あぁ」
「そうと決まれば、お風呂と夕食の準備ね。ほら、ルドもさっさと入って」
一同はエルネスタに押され、屋敷の中へと入って行った。
風呂と食事を終えたクリスは、部屋で明日の治療の準備をしていた。
「クリス様だけで大丈夫ですか? 今回は、犬が護衛として付くなら、治療の時に助手がいないのですよね?」
心配そうなラミラに、クリスが頷く。
「あぁ。だが、助手なら先代の領主が置いていった、イールがいるからな。どうにかなる」
道具を鞄に詰め込んでいたカリストの手が止まる。
「本物ですか?」
「残念ながら本物だ。まさか帝都の帝城にいるとは思わなかった」
「カイ様も思い切ったことをしましたね」
「まったくだ。まあ、先帝と皇帝の人格を考慮して、置いていっても大丈夫だと判断したんだろう。だが、第一皇子は駄目だな」
「そのようですね」
コンスタンティヌスとオグウェノの会話を、影の中から聞いていたカリストが肯定する。
「まだまだ未熟な部分が、多く見受けられました。あのままでは、跡を継いだ後が大変そうです」
「セルシティの方が、マシかもしれないな」
「どうされますか?」
「どうもしない。こちらに手を出してこない限りはな」
「第一皇子は、すぐに手を出しそうですね」
「そのために、セルシティがオークニーにいるんだろ」
「皇帝は、なかなか考えていますね」
「一つ間違えれば、シェットランド領が動くからな。その意味をよく理解しているんだろ」
「そうですね。終わりました」
カリストが道具を詰め終えた鞄をクリスに差し出す。
「これは明日、犬に運ばせるか。お前たちも疲れただろう。今日はもう休め」
「クリス様は、いかがされますか?」
ラミラの問いにクリスが欠伸をした。
「さすがに疲れたからな。さっさと寝る」
「わかりました。ごゆっくり、おやすみ下さい」
ラミラとカリストが部屋から出て行った。
「さて、寝るか……」
クリスはベッドに入ろうとして、ふと手を止めた。
「……まさかな。考えすぎだ」
ベッドに入り布団を被る……が、少しして、クリスは上半身を起こした。
「少し散歩するだけだ」
クリスは静かに部屋から抜け出した。
夜の暗い廊下を、手元に魔法で出した小さな光球を頼りに歩く。微かな魔力を辿って着いたのは、開けた庭だった。その中心で模造剣を振っているルドがいる。
「やはり寝ていなかったか」
クリスが呆れたようにため息を吐きながら、ルドに声をかけようとして足が止まった。
剣を振る度に、月明かりの下で汗が弾く。動きに合わせて赤髪が揺れ、白い息が吐き出される。琥珀の瞳はまっすぐ前を向き、空を斬っている。
それはクリスがほとんど知らない、ルドの姿だった。