ケリーマ王国の常識
見渡す限り砂漠が広がる上空を帆船がゆったりと飛行していた。風が吹くとさらさらと砂が動き、地形が変わる。
そんな砂だけの世界の先に緑に囲まれた街が見えてきた。中心には青く輝く大きな湖があり、その中心には城が浮かんでいるように建っている。
徐々に帆船が下降し、ゆっくりと湖に着水した。湖面が大きく波打ち、桟橋に横付けするように帆船が停まったが、船体は揺れ続けている。
甲板にいた男たちが縄を持ち、素早く桟橋に降りて固定していく。
その一方で、桟橋で待機していた男たちが錨を持って帆船に乗り込み湖の中に投げ込む。水は透き通っており、湖底の白い砂まで目視できた。錨が沈むと縄を帆船に縛り付けていく。こうして、ようやく船の揺れが収まった。
帆船が安定したところでオグウェノが言った。
「よし、じゃあ行くか」
湖を眺めていたベレンが顔を上げる。
「どこに行きますの?」
「市場だ。ここは交易の交差点でいろんな人や物が集まる。珍しい物もあるぞ」
意気揚々と帆船から降りたオグウェノに、城から出てきた男が挨拶に来た。
「オグウェノ第四王子、お久しぶりです」
「あ、今日はお忍びだから、そういう挨拶はなしで」
男は断られると分かっている様子で進言した。
「護衛ぐらいはつけさせて下さい」
「イディがいるから大丈夫だ。それより夕方には親父が来るから、そっちを迎える準備をしてくれ。あ、あともう数人ほど客人が増えそうだから部屋を準備していてくれ」
「客人……ですか?」
男がクリスとベレンに視線を向ける。
「あぁ。この二人以外にも、あとから来る。そうだろ?」
オグウェノが訊ねたがクリスは答えない。不満気な顔で城を眺めている。
「そういうことだ。準備しといてくれ」
オグウェノはクリスとベレン、最後尾にイディを連れて街へと向かった。
オグウェノが言った通り、市場には大勢の人が行き交い、様々な店が並んでいた。
ケリーマ王国の伝統的な衣装を着ている人が多く、男性はオグウェノのように頭に白い布を被って紐で留めている人もいる。女性の服は橙色や黄色、緑など華やかな色が多く見られた。
店にはクリスやベレンが見たことがない物が並んでおり、見飽きることがない。
魔法で氷漬けにされたカラフルな魚。裁かれて吊るされた生肉や、燻製された肉。巨大な硬いチーズや、バターの塊。山積みにされた香辛料や調味料。
視覚と嗅覚を刺激され、水色の目を輝かせているベレンに対して、クリスは眠そうに目を細めている。
楽しそうにベレンが商品を眺めていると、野菜とともに花が並んでいた。
「ここでは野菜と一緒にお花も売るのですか?」
ベレンの質問に店主が笑う。
「この花は食べるんだ。炒めたら美味いよ」
「食べられるお花があるのですね。こちらは?」
「これは果物だ。食べてみるかい?」
「よろしいのですか?」
「あぁ。甘いよ」
店主が慣れた手つきでナイフで皮をむいて実をベレンに手渡した。ベレンが躊躇うことなく口に含む。
「甘くてみずみずしいですわ」
素直に驚くベレンの様子に通りすがりの人が店主に声をかける。
「そんなに甘いなら、一山買って行こうかな」
「おう、まいど!」
「そういえば聞いたか? バチョのところのヤギが……」
客と店主が世間話を始めたのでベレンが次の店へと移動する。その後ろをクリスは黙ってついて行っていた。
クリスの隣を歩くオグウェノがベレンを見ながら話しかけてきた。
「お姫様は楽しそうだな」
「そういうお前は王子様だろ」
「王子っていうガラじゃないけどな」
「そうだな」
「いや、少しぐらい否定してくれよ」
「否定できる要素がない」
「なかなか辛辣だな」
そう言いながらも、オグウェノはどこか楽しそうだ。
「で、ここに来た目的は? 何を待っているんだ? まさかカリストたちが追いかけてくるのを待っているわけではあるまい」
「お? どうして待っていると思った?」
「帆船はまだ飛行できた。だが、わざわざここに停まったということは、ここに用事があるのだろう? しかも、すぐにその用事を済ませないということは、必要な物がないのか、何かを待っているということになる。必要な物を調達している様子もないから、何かを待っていると予想したまでだ」
オグウェノが嬉しそうに笑う。
「やっぱりいいな」
「なにがいいんだ?」
「こっちの話だ。もう少ししたら分かるから、今は待ってくれ」
クリスが軽く欠伸をする。そこにベレンが声をかけてきた。
「見て下さいな。綺麗ですわよ」
ベレンが金で作られた首飾りをクリスの首にあてる。
「あぁ、そうだな」
興味はないが一応返事をしたクリスにベレンが頬を膨らませた。
「あなた、もう少し飾ることを覚えたほうがいいと思いますわ」
「別に必要ない」
クリスの素っ気ない言葉に装飾店の店主が笑う。
「確かにお嬢さんは飾る必要がないぐらい美人さんだけど、うちの宝石で飾ったらもっと綺麗になるぞ」
「ほら、お店の方もそう言って……」
ベレンは店主を見て固まった。正確には、その胸にあるモノを見て。
「あの……そちらはお子さんですか?」
店主が抱っこ紐で胸に抱いている子どもを見せる。
「そうだよ。生まれて半年なんだ。可愛いだろ」
指をくわえた赤ん坊が丸い目をベレンに向ける。
誇らしげな店主にベレンは唖然としながら訊ねていた。
「奥様はおられないのですか?」
「いるに決まってるだろ。いなかったら、この子は生まれていないぞ」
「では、なぜ奥様が世話をしていないのですか?」
店主が首を傾げる。
「俺が世話をしたらいけないのか?」
「男の方が子どもの世話をするなんて……」
オグウェノがベレンの肩を叩いた。
「ケリーマ王国では、生きるのに男も女も関係ないと言っただろ?子育ても同じだ。二人の子どもなんだから、二人で世話をするのが当たり前なんだ」
ベレンは思わず周りを見た。買い物客の中には子どもを連れて買い物をしている父親や、幼い孫を連れた祖父もいる。みんな慣れた様子で子どもをあやしながら歩いていく。
初めて見る光景にベレンは呆然とした。子育ては女がするもので、男は一切関わらない。それが常識で普通だった。なのに、ここでは自分の当たり前が通じない。
それどころか商品を売っている女性もいた。笑顔で生き生きと商品の説明をして客とお金のやり取りをしている。
女は家で家事をするか、家業の手伝いをするぐらいで、市場に出てきて積極的に商売をするということは考えられない。
「本当に関係ないのですね……」
衝撃を受けているベレンにクリスが言った。
「こういう国もある。かなり珍しいがな」
ベレンからの返事はない。クリスは何気なく商品を眺めていたが、ふと目を止めた。
「……綺麗だな」
それは琥珀を使った髪飾りだった。クリスがそっと手を伸ばして触れる。
「どうしているんだろうな」
自分を見つけて嬉しそうだった琥珀の瞳が、この姿を見て驚愕の表情へと変わった。そのため思わずオグウェノの後ろに逃げてしまった。
女だとバレてしまったら……女性恐怖症のあいつは離れるだろう。だが、いつまでもこのまま隠し続けてるのは……
今の関係を壊したくない気持ちと、本当の自分を明かしたい気持ちがせめぎ合う。
「だから女装は嫌なんだ」
クリスが小声で呟く。
その声が聞こえていなかったオグウェノはクリスが髪飾りに興味を持ったと思って声をかけた。
「買ってやるぞ」
クリスがあっさりと首を横に振る。
「いや、いい。こういうのは、もっと似合うヤツが付けるべきなんだ」
「似合うと思うぞ」
「見え透いた世辞はいらない」
そう言うとクリスは歩き出した。