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第6章 華のヨーロッパ

「時効不成立」 7

第6章 華のヨーロッパ


一九九三年。

狭間良孝は、日本へ帰るという口実を盾に、「寿司丸」での契約更新はしなかった。

参碁朱美がフランスに作った「ユーロ寿司」に来て、既に半年が過ぎ、パリの花屋が春の花で賑わいだしていた。


表の頑丈な防犯用のシャッターを上げると、木製の格子戸が作られていた。

三メートルの寿司のカウンターは有るが、客席にはしていなかった。

その晒しの寿司場から、料理を出すカウンターだった。

店内全体は、角材を駆使した組み木造りになって、茶室の雰囲気があった。

使用されている木の小口を赤く塗り、それが店全体に散らばっている感じになっていた。四人掛けの五脚のテーブルは、大木を斜に切った厚さ五センチ、年輪を生かした艶なしブラウン色の無垢材だった。

テーブルとテーブルの間には衝立があり、各テーブルのプライバシィーを守っている。

寿司場から後ろのキッチンへ通じる幅一、五メートルの通路があり、ほとんど、走って仕事をしなくともいい間取りになっている。


「板前がしゃしゃり出てどうすんだ?」と狭間がキッチンで、寿司見習いのケイが何くれと、マネージャー格の寛子に指図をする事を指摘して言った。

「寛子は経験があって、確かに日本食を知っている、お前が知ったかぶりする暇があったら、さっきのフライパンを洗って置け。洗剤使うなよ」

すごすごと洗い場へ行って、ケイはフライパンを洗い出した。

ケイは寛子の気を引きたかっただけだった。だが、とにかく早く覚えて、自分の店を出したいから、狭間に逆らうことはなかった。


朱美は、次はイタリアだといって、日本、フランス、イタリアを駆け回っていた。

さすがに日本で顔が広いだけあって、信用の置けるマネージャーは日本から連れて来るという方針を持っていた。

狭間もこれには賛成だった。そして、自分は一箇所に落ち着くタイプじゃないから、出来たら板前も、と言うと、それには、まだ参碁朱美は賛成していなかった。

「外人見習いを、年に一人仕上げるなんて、無理です」

「どうして、そんなに難しい事じゃないでしょ」

「そんな事言ってるから、いつの間にか、日本食やってるのか、餌作りやってるのか分らなくなり、客足が減るんじゃないですか」

「どうすればいいわけ」

「いつも言ってるでしょ、日本から、最低五年生をつれてくればいいのです」

「高いわよ」

「当たり前じゃないですか。高い給料出してる店で、潰れた試しはないですよ」

高く買われた人間は、努力する。安く買われて店を食う。

狭間はそれを言いたかった。

「酒代にもならん給料じゃ、店の酒を飲まれるんです。酒だって、売って何ぼが、飲まれればマイナス、じゃないんですか」

「そうね・・・・・・」

「それを酒は出さない金は出さないじゃ、仕舞いにゃ、現金取られますよ」

「いくら儲けを度外視しても、損はしたくないわよ」

「締めるポイントを、間違えないようにして下さいよ」

「どこよ、それ?」と朱美は言った。

「今更ですね、最も遅くないから、参考までに言いますと、材料は、いいものを少し入れること。飲み物にステータスを持つ事。仕事以外の用事を頼んだらチップを出す事。自分が自慢できる職人を高給で雇う事。仕入れと売り上げは毎日見る事。在庫を抱えない事。そんな事かね」

「自慢できる人って、どんな人よ」

「器をキャンパスに出来る人」

「どうして器がキャンパスな訳?」

「言ったでしょ、器の色は全て白を揃えてくださいって。そうしてくれましたからいいようなもんで、気が付かなかったんですか?」

「し、知ってたわよ」

「じゃいいですけど・・・」

「結構五月蝿いのね」

「私が五月蝿いのではなく、朱美さんが不動産感覚の丼勘定なだけです」

朱美は、やはり素人だった。

しかし、父の血を強く引いた彼女は、レストラン経営のツボを押さえることも早かった。

一九九三年には、ついにイタリアに「ローマン寿司」を出し、日本から鎌田と言う板前を呼び、彼の妻をマネージャーに据えた。

更に三年後

一九九六年、オーストリアのウィーンには「ドナウ寿司」を開店した。

翌年の一九九七年には、フランスで英国のダイアナ妃が交通事故でなくなったと同時に、ロンドンのクィーンズ・ウェイに「ダイアナ寿司」を鳴り物入りで開店すると言う事をやってのけた。

そしてこの年の暮れ、二十四日から一九九八年の正月三日までをホリディーとし、社員はロンドンに集まった。


各店の板前店長、マネージャー、二番手と総勢十二名に、狭間良孝が加わり、参碁朱美の住むフィンチリーの自宅に顔を揃えた。

営業成績は何処も黒で、確かに投資への減価償却率に問題はなく、順調な現金収入は数字が物語っていた。

強いて問題と言えば、日本から来る食材に遅延がある事ぐらいで、湾岸戦争やイラン問題、ロシアをはじめとする元共産圏問題、ヨーロッパ通貨などのくすぶる世界情勢を考慮すれば、止む終えない事だった。

日本から来た板前達は、在日当時、何の苦もなく手に入っていた食材が、これほどまでに社会情勢に左右されるとは、なかなか理解できないでいた。

特にロンドンには、日本から直接、新鮮な魚を輸入できない条例があった。

日本からの食材は、全てフランスに送られ、そこから各支店に配送されていた。

米と和牛は、宮城県からの遠田米と加美牛など、狭間の知人数十名に頼み、一人が関税のかからない重量で送ってくれる。

荷が着いた翌日、各店の店長とマネージャーがパリに来る。

パリを中心に、ロンドン、ローマ、ウィーンからの往復は日帰りで出来た。

給料が月、三千ポンド、四千五百ユーロとあっては、誰もが喜んで動いた。

その清算は参碁朱美が、五か月に一度、一月間かけ、日本からの、発送人一人一人に会い、食材の価格と輸送代と利益分を支払っていた。

鮑と山葵は静岡、鰹と鰆は四国の松山、モズク蟹は佐賀県浜玉町、バッテラ昆布は福井県の敦賀から、朱美はこの各地から板前をスカウトしていた。

板前店長は、自分の出身県の酒を店に置いた。

フランス店では、狭間の勧める宮城の酒「浦霞」と「日高見」があり、静岡の酒「おんな泣かせ」と「花の舞」はロンドンで置いた。

ローマは佐賀県の「天山」と「風の音色」が置かれ、福井を語るウィーンには「黒龍」と「天下取り」がメインだった。

窮屈な挨拶は何もなかったが、狭間は、朱美にこれからの事でも言ってください。と促すように言った。

「私嫌よ、そんな改まって」と朱美が言ったと思うと、その場は静まった。

しょうがないわね。と朱美が前置きを言って

「私が一番嬉しいことは、皆が正直にやってくれている事。これだけよ」

みんなの顔に喜色が浮かんだ。

「もういくつ寝るとお正月、って歌があるけど、後三年で二十一世紀、大きな時の変化がある時期は、何かと煩雑さが増えるので、当分はこのままの体制でやっていこうと思っています。おそらくヨーロッパの国は、ユーロ圏に入ると思います。西欧、中欧、東欧は一つになるはずです。呼び方は違っても、アメリカのようになるはずです。そして、アメリカ、ヨーロッパ、アジア、アフリカと言う経済圏が出来上がると思っています。それが二十一世紀の初めだと思うのです。二〇一〇年ごろまでには、後三件の店を作りたいというのが私の夢です。少なくとも後一つ、東欧に作りたいわね」

「社長さん、どうしてアメリカには出さないのですか?」と寛子が聞いた。

「寛子さん、いつも言うように、何処であっても、その社長は、止めてね。アメリカも悪いとは思わないけど、それは、私の好みの問題ね。そうそう、フランスのケイさんには、店長に昇格していただきます。狭間さんには今後、四支店を二・三か月毎に、回るようにしてもらいますので、皆さんそのつもりでお願いいたします。タイミングよく荷物を頼んでもいいかなと思うんですが」

「一寸待って下さいよ、勘弁してください」

「アラ、お手当ては出しますよ」

「そんな事じゃないです、体力、の問題」

「あら、もう?」

「もうすぐ五十の大台ですよ、こき使わないでくださいよ、朱美さん」

すると周りから、ええ、そうなんですか、逆サバ読んでるんじゃないですか。と冷やかされてしまう狭間だった。

「最近地元の新聞が良く来るんですが、どう対応しておくか、教えてください」

「只で宣伝してくれるなら好きにしてかまいませんが、有料にはお断りしてください。それと、只食いもお断りしてかまいません。最大の宣伝は、皆さんの腕で、お客様に喜んで頂く事です。見た目とお味だけではなく、お店の雰囲気も大事ですから、マネージャーの人は、充分粗相のないよう気を遣って下さい。それと、ゴロツキ客は絶対に許してはいけません、手に余るようでしたら、警察をお呼びしなさい。そのために皆さんには、語学の研修料を出しているわけですから」

「現在、毎日棚卸をしているわけですが、これを一週間に一度とか二度にしてはいけませんか?」

「お嫌でしたら、日本へ帰ってください」と参碁朱美はキッパリと言った。

狭間良孝から、それをやりだすと、蟻の一穴と云って、必ず穴が大きくなっていき、それに気が付かなくなるから危険だと、目じりを上げて言われていたからだった。

場が一瞬、水を打ったように静まった。

どこか隣からか、微かなピアノが聞こえて来た。

その音につられるように、窓に一つ二つと雪が張り付きだした。

ホワイト・クリスマスが過ぎ、大晦日を前に、社員はそれぞれの国へ帰った。

狭間は、ヒースロー空港まで、皆を送った帰り、静岡から来たロンドンの板前店長と戻った。

「狭間さん、上総の総帥なくなってから、だいぶ落ちたって話ですね」と彼は言った。

彼は参碁朱美が、静岡県から連れて来た高山だった。

高山は、「兆次」の松山克夫と同年で、同じ「上総」の出だった。

狭間はホモの源太から逃れる為に、「上総」に居たのは、僅かな期間だった。

ホモ源太が事故死以後、松山克夫達が入った頃には、理想の店になっていた。

同じ県内の狭い板前社会で、松山は狭間が松島に居る事を知り、尋ねて来た事があった。

狭間が外国へ出る二年前に、松山は郷里の静岡県の焼津に「兆次」を開店したのだった。

そして狭間がフランスに渡った頃、高山は、やはり静岡県の静岡に職場を移していた。

言って見れば、狭間は少しずれてはいたが、松山そして高山とは、兄弟弟子になる事が解った。

「葬儀には、松山さんが代表で行きましたが、噂は聞こえて来ます」

「兆次、何も言ってこなかったよ。最近か?」

「いえ、もう足掛け八年になります」

「ということは、一九九〇年か?」

「はい、暮れでした」

「海老子奥様は、元気か?」

「奥様が松山さんへの話ですが、総帥は狭間さんに、知らせるなと言ったそうです」



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