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蚊柱

作者: 燦月夜宵

 Sさんが普段から通い慣れている駅は二階建て構造だ。一階に当たる部分がホーム、二階に改札や売店などがある。改札に入ると駅の反対側の改札まで売店と、各路線のホームへと降りる階段やエスカレーターを挟みながら一直線で繋がっている。

 駅から出てると地上へ降りる階段に、バス停やロータリーまで続く通路があった。通路を歩くとほぼ全てのホームが遠目から眺められ、もう電車が来ているかどうか目で確認することもできる。学生達が慌てて改札へと走っていく姿はよく目撃されており、Sさんも過去に何度か改札へ駆け込んだことがあった。

 駅のある場所は大都市のベッドタウンとも呼ばれる地域だ。朝から夕方まで利用客がそれなりにいるが、夜になると途端に減った。夜に帰ってくる人はいても、出て行く時間帯ではない。駅全体の雰囲気は蛍光灯の青白い光で貧相になり、駅の外から見たホームほど薄ら寂しいものはないだろう。

 その日もSさんは自宅に帰るため、改札から出てバス停へと歩いていた。通路を照らす街灯よりも遠くに見えるホームのほうが明るく、携帯から離れた目線が自然とそちらへ向く。

 都市へと向かう登りのホームは逆に気持ちいいほどに誰もいない。がらんどうとした一番手前のプラットホームの端に、ぼんやりと靄のようなものが出来ていた。小さな雲のようでいて輪郭はぶれ続けている、何か細かいものの集合体。

 蚊柱だとSさんは思った。どこからか羽虫が集まってきたのだろう。

 駅前は改修工事がされていて、マンションやアパートも増えている。それが原因だと決めつけた。

 昨年先だって行われた道路の車線増加工事で周囲の草原を切り広げたところ、見たことのない羽虫が道路を埋め尽くしたのはSさんの記憶に新しい。なすすべなくタイヤにすりつぶされていく虫の大群。出来上がる死骸の絨毯を思い出し、顔をしかめた。

 それよりはマシだ。規模が全く違う。Sさんは行き場の無くなった虫が電灯に集まってきただけだろうと考え、もう気にも止めず視線を進行方向へと向けた。

 ところが。数日経っても蚊柱は消えていなかった。Sさんの帰宅時間に合わせるかのように、きまって登りホームの端に群を作った。しかも日を追うごとに濃くなっている。

 ただ、本当にその時間にしか出来ていないのだろう。駅に『ホームに虫が大量発生しています』という注意書きは出ていない。その路線を使い、Sさんより帰宅時間の早い友人もそんなものを見たことはないと言う。

 工事が終われば気にもならなくなる。そうは思っているが、駅の外に出ると確かめてしまうのだった。

 初めて見たときよりも密度を増す蚊柱。小さな塊だったものは縦に長く面積を伸ばし、とうとう小柄な人間ほどの大きさにまで達していた。そこに虫が集るようなものがあるのかと、時間のある日に足を止めて遠目ながらに観察をしてもみた。誘蛾灯もなければ、付近にゴミ箱も雨水用のパイプもない。蚊柱がなければ寂れたホームの端っこだ。

 見ていると突然、蚊柱が揺れた。前後にゆらゆらと細かく、縦に芯を入れているように動いていた。細かい虫の集合体は何かでまとまり、ひとつの生き物にも見える。

 まるで。まるで強弱をつけて揺れる人の、ような。

 そこまで考えてSさんは目を疑い、瞬きをした。脳が人の姿をそれに見たのだ。だが、もう一度見たときにはいつも通りの薄黒い蚊柱に戻っていた。思い込みのせいだと考えつつも、すぐ場を後にした。


 その翌日だった。休日のSさんは都心部に用事があり、例のホームに向かっていた。蚊柱のある場所も一度近くで見たくもあり、人の混む階段近くも苦手なこともあって足は自然とホームの端を選んでいた。

 混む時間帯をずらして立ったホームは都心部行きながら、人がまばらだった。Sさんがいつも夜に見かけていた場所は何の変哲もないただのホームだった。夜と違っていたのは光っていない頭上の蛍光灯と、ぼんやりと突っ立っているひとりの男性。遠目から見ていた蚊柱とほぼ同じ大きさだった。

 Sさんは驚いた。前後にふらふらと動く仕草すら似ている。こんな偶然があるだろうか。細かな羽音の幻聴が聞こえる気がしてしまい、それ以上近づくのが途端に恐ろしくなった。そのまま線路の方を向いて電車を待つことにしたが、視界に入れずにいようとすればするほど前後に揺れる男性が端にちらついていた。

 怖くとも目を瞑るのも失礼かと思い、Sさんは俯いてそのまま時間をやり過ごした。そのうち柱に設置されたスピーカーからアナウンスが流れ始め、到着を報せる軽快な音楽に切り替わった。

 やっと電車に乗れる。Sさんがほっとして顔を上げ、ほんの僅かに横目で男性を確認した。そのときだった。

 ホームに電車が滑り込むと同時に彼は力強くアスファルトを蹴り、けっして身軽でもない体を軽やかに時速一〇〇キロを越える鋼鉄の塊へと投げ出していた。

 瞬きを忘れたSさんの横で、肉塊になるはずの人間は電車とぶつかった瞬間に霧散した。それこそ虫の大群を散らしたように、跡形もなく消え去っていた。自動ドアが開く音が聞こえ、駅名を告げるアナウンスが流れても動けなかった。目の前でドアが閉まっても一歩も進もうとしなかった。

 再びホームからは電車は去り、無音が戻ってきた。

 そして視界の端に、その姿も戻ってきていた。前後に頼りなく揺れ、見るものの精神を削るあの不安定な動き。

 Sさんは次の電車が来るまで目を堅く瞑り、今度の電車のドアが開いたと同時に一目散で入り込んでいた。



 後にも先にも、見てしまったのはこれ一度きりだという。

 以来、不自然な場所の蚊柱にはもう注目しないと、Sさんは固く決意しているそうだ。

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