【番外編3/3】宝探しと宝の行方
「すっかり日が暮れてしまったわ」
ラスティが馬を繋ぎ終わるのを待ちながら、洞窟の入り口から外を見た。森は暗く、灯した明かりの届かないところから先は不気味な闇に閉ざされている。
「兵士を探すのに手間取ったからな」
彼の声に引き寄せられるようにそちらを見ると、橙色の光に照らされ、馬の背を撫でるラスティの影が洞窟の岩肌に映り揺れていた。振り向いた彼の手には、あの麻の袋。
「馬に水をやってくれるか」
「ええ」
頼まれ、彼のそばに行った。馬の近くに設置された木桶の上に手をかざし、癒やしの力を込めた水をそこに満たすと、馬はすぐに水面に口をつけた。
「お前、偉かったわね、ゆっくりお休み」
静かに水を飲む様子を見ていると、私も早く寛ぎたくなってきた。寝室までまばたきひとつの間に行けたらいいのに……そうだ。
「魔術を使ったら疲れたわ。抱いて連れて行って」
ラスティは両手を伸ばした私にちろ、と冷たい視線を向けると、持っていた麻袋をわざとらしく抱き直した。俺は荷物を持っているんだ、とでも言いたげ。
「甘えるな、歩け」
「冗談を言っただけよ」
甘えたのを見透かされ、恥ずかしくなって手を下ろした。結婚したばかりなのだからもう少し優しく断ってくれてもいいのに。
「冗談を口にする元気があるならなによりだ」
私を残し、さっさと洞窟の道を奥に進んでいくラスティの背中をしばらく見ていたけれど、はっとして慌てて追いかけた。ここでひとりは嫌だ。もう安全だと言われても、熊と鉢合わせた記憶はまだ新しい。
「待って、ラスティ!」
呼びかけると、少し先を行っていたラスティが足を止めた。彼の歩くのに合わせ壁の明かりが順に灯っていたのが、彼を置いて奥を照らして行く。
と、足早に歩く私の耳に、駆けてくる獣の足音が届いた。軽やかな音。
「ジーン!」
私が呼ぶのと、奥の曲がり角から黒い犬が飛び出してくるのは同時だった。気づいて出迎えに来てくれたのね。
「遅くなってごめんなさ……あら、私のところに来てくれたのではないの?」
抱き止めようと軽く屈んだのに、ジーンは手前のラスティに前脚を高くあげじゃれついている。
「誰が主人かわかっている、賢いやつだ」
「どう見てもその袋に興味津々といった様子じゃない」
ジーンはしきりに、ラスティの抱えた袋に鼻先を押しつけていた。肉があるのがわかるのね。かわいらしい。微笑んで近づくと、ジーンは黒い目を私に向けた。
「お腹が空いているのよ、遅くなってしまったもの」
しゃがんで目線を合わせ犬の顎の下をくすぐり撫でると、ジーンは私の手のひらのにおいを一度嗅いで、またすぐ袋に関心を移していた。
「鹿肉があるのよジーン、あとで貰うと……あ」
「大丈夫か」
屈んだ姿勢から体を戻すと、軽く目眩がした。すぐに気がついたラスティが支えてくれたのでよろけなくて済んだ。
「ありがとう大丈夫よ、ただのたちくらみ」
とは言ったものの、ため息がひとつでる。
「久しぶりの遠出だ、今夜はもう休め」
言うが早いか、ラスティは麻袋を床に置き、私を軽々と抱き上げた。
「平気よ歩けるわ」
「この方が早い」
もう歩き出している。ジーンは袋と私たちの間を迷うように行ったりきたりしたあと、最後にはこちらについてきてくれた。
「甘えるなってあなたが言ったのよ」
流れ込んでくる熱い魔力を受け取りながらラスティの首に腕をまわし言うと、思っていたより甘えた声が出て自分で驚いた。いやだ、なにこの声。
照れ隠しにこほんと咳払をすると、ラスティがふっと笑ったのがわかった。
「望み通りになって満足かイルメルサ?」
「水差しを買うのは我慢したでしょ」
体を離してラスティの顔を覗き見ると、彼は笑顔を消し、赤銅色の目を細め、不機嫌そうな表情を浮かべた。
「あんなもの、ぼったくりもいいところだ」
「……ぼ……? なに?」
「不当に高値だと。銀貨五枚だぞ、質のいい魔石が買える」
「ほんとうに?」
「ああ」
彼の言葉に嘘はなさそうだ。そうなの。確かに質のいい魔石と釣り合うほどの品物とは思えない。記憶の中で美化されていた水差しが、すっと色褪せた気がした。
ちょうどそのとき炊事場の横を通りかかり、机の上の持ち手のひび割れた我が家の水差しが目に入った。でもあれはやっぱりみすぼらしい。底の裏の黒ずみは取れないし、内側には蜘蛛の巣みたいなヒビが見えるの。
「少し休んだら物置を探すわ」
「明日にしておけ」
◆◆◆
目を開けた。
寝台そばの燭台に、小さな魔術の明かりが灯されている。静かだわ、夜明けまでまだ時間がありそう。深く眠ったあとのだるさを体に感じながら、隣にいるラスティのぬくもりを求めて手をのばした。手は、冷えた寝具の上にぱたりと落ちる。いない。
「……ラスティ?」
また隣の部屋で研究に没頭しているのかしら、帰ってきたばかりなのに。でもそれにしては静かすぎる。器具を扱う音も、なにか考えているときにうろうろと歩き回る彼の足音もしない。
身を起こし寝台から足を降ろした。いやだ、服がそのまま。マントをラスティが外してくれたのは覚えているわ、そのあとここに横になってすぐ眠ってしまったのね。もしかしたらラスティが魔術で私を眠らせてくれたのかもしれない、心地よい深い眠りだったから。
「ラスティ? ジーン?」
返事はない。寝室の入り口まで行って隣を覗くと、そこは無人だった。食事でもとっているのかしら。
いない、と思うと急に寂しくなってきて、裸足のまま研究室を横切った。重い扉を開き廊下に出る。そこもやはりしん、と静まり返っている。叫ぼうかしら。でもなにもなかったらきっとラスティは私を笑うわ、起きて姿がないから騒ぐなど幼子のようだ、とかなんとか言って。
それで私はふたりの姿を探して炊事場まで行くことにした。喉も渇いているしちょうどいい。炊事場に行く前に庭も覗こう、湯船につかったまま眠っているのかもしれないもの。
そう決め、足を踏み出そうとしたとき。
「?」
ラスティの声が聞こえた気がした。普段はあまり使わない、物置や、木の根の侵食で天井の一部が崩れた、朽ちかけた部屋の並ぶ通路の方から。まっすぐ行く炊事場への道ではなく、右へ続く薄暗い通路の先。見れば、扉が開き光の漏れる一室があった。
「ラスティ? あなたそこにいて?」
大きめの声を出しそちらへ向かうと、部屋の中からゴト、と音がして、宙に浮かべた魔力の光を背にしたラスティが顔を見せた。
「起きたのか」
彼は少し気まずそうで、微妙に視線が合わない。目の下が少し赤い。
「ええ、ジーンもそこに?」
「いる。寝ているがな」
「夜中だもの」
近づくと、ラスティは体を避けて私を中へ迎え入れてくれた。箱や壊れた家具が雑然と積まれた部屋だったと記憶しているけれど、それがさらにあちらこちらへ移動し、いくつもの箱の蓋が開かれている。
「水差しを探してくれていたの?」
わかりきったことを言葉に出して尋ねると、胸の中がじわりとあたたかくなった。小さな明かりが灯ったみたい。だってこんな夜更けに、私のために。口元に自然と笑みが浮かぶ。
「そうだ――笑うな」
ふい、と顔を背けた彼からは、ほんのりお酒の香りがする。夜ひとりで飲酒なんて珍しい。
「飲んだのでしょう」
「例の肉をつまんだら旨かったんだ。葡萄酒があったな、と……そんな顔で見るな、食ったのは少しだけだ、ジーンの方が余計に食ってる」
ラスティの視線を追うと、部屋の隅の汚れた布の上に伏せ、満足そうに眠る黒い犬がいた。
「私を除け者にして楽しんだのね」
「そう言われれば返す言葉もない」
肩をすくめた彼は、なにか思い出した風に蓋の開いたひとつの木箱に近づいた。
「水差しは見つかって?」
「ああ、ひとつ」
箱に深く手を入れた彼が取り出したのは、緑色の艶を塗られた水差しだった。ころんとした形で、土を焼いたもの。表面に模様が彫られている。特徴的な注ぎ口。見ているとなにかを思い出しそう、あれは……。
「フクロウだ」
眉間に皺を寄せて水差しを見つめる私を見て察したのか、ラスティがぽつりと言った。ああそうだわ、あそこが目で、そう、フクロウの模様。かわいい。
「好きだわ、それ」
「なによりだ。高価なものではなさそうだが……気兼ねせず使えるな」
「ひびはない?」
「恐らく。自分で確かめろ」
ラスティが水差しを差し出したので近づいて受け取ると、それはずっしりと重かった。
「重いのね、中になにか入っているんじゃない?」
「気をつけろ、大きな鼠が飛び出すかもしれん」
両手に水差しを抱え、上から中を覗こうとした瞬間そんなことを言われ、私は叫んで水差しをラスティの腕に押しかえした。
「冗談だ、生き物の気配はない」
くくく、と笑いながら水差しを逆さに振ってみせるラスティが憎らしくて、下から睨もうとしたのにできなかった。
「いやっ!」
水差しからなにかが落ちてきたのを目の端で捉えたからだ。飛び退いて、床で眠るジーンにすがりつくとジーンの体がもそ、と動いた。
ラスティが屈んでなにかに手を伸ばしている。怖くて手が震える。動かないわ、大きな蜘蛛かと思ったけれど、違う。怖々視線を動かし彼の指の先を見ると、ちょうどラスティが包みを取り上げたところだった。
革ひもで幾重にも巻かれた、手のひらに乗るほどの大きさのなにか。布に包まれている。
「それ、なに?」
「わからん」
ラスティは水差しを床に置くと、それを目の高さに移動させまじまじと観察しはじめた。
「魔力は感じない」
「開けて」
身を乗り出して言うと、ジーンがぶるっと体を震わせ私の下から抜け出した。体重をかけてしまったわ、重かったかしら。
「きっと宝石よ、それか指輪。ね、早く開けて」
立ち上がり、ジーンの首を撫でながら一緒にラスティのところへ行った。
「命令するな」
彼が短剣を取り出し革ひもを切るのを見守りながら色々な想像をした。布に財宝のありかの地図が描かれていたら。なにか種が入っているかも。それとも恐ろしい、人の指や歯が出てきたら。そうしたらもう、この水差しは使えない。
革ひもが床に落とされ、ラスティの指が布を開きはじめる。長い間そこにあったみたいで、布はすっかりはりつき固まり、ばり、と音がした。どきどきする。
少しして、ふ、とラスティが短く息を吐いた。
「見ろ」
差し出された手の上には、古びた薄い銅貨が二十枚ほど乗っていた。
「過去の誰かの秘密の財産か。おおかた、隠していた水差しごと盗まれでもしたんだろう。古いが使える、やろう」
「私に?」
ラスティが硬貨を握った手を突き出してきたので反射的に両手を出すと、そこにじゃら、と音をたてて銅貨が降ってきた。よく見れば一、二枚銀貨もまじっている。
「お前、金を持っていないだろう」
「ええ」
お金を持ち歩くなんて初めて。早く使ってみたい。
「また市に行きたいわ、近いうちに」
これだけあれば蜂蜜は買えるのかしら。
手のひらの上の硬貨を握りラスティを見上げると、なぜか彼は目を細め不愉快そうな顔をした。
なにか変なことを言った? わたし。
「命令じゃないわラスティ、命令なら“連れてお行き”と言うもの」
「わかっている、今日のことを思い出しただけだ。もうあそこへお前を連れて行きたくはない」
「なぜ? 私大人しくしていたでしょう?」
……多分。おおむねうまく過ごしてきたはずよ。帰りの騒ぎは私たちのせいではないのだし。こそこそと噂されるのも慣れている。
「あそこの奴らのお前を見る目が気に食わん……男たちの」
ラスティはそう言うと水差しを脇の箱の上に置き、唐突に私の頬を親指の腹でぐいっとこすった。
「なにするの」
「汚された気がする」
「おかしな人ね、視線で人は汚せないわ」
酔ってるんだわこの人。腕を振って彼の手から逃れ離れると、ラスティは憐れみと安堵が入り混じった、なんとも言えない複雑な表情で私を見た。どういう感情のあらわれなのかしら、これは。
「そんな目で見るのはおやめなさいよ、なに、私の知らない秘術でもあるというの?」
無知を見透かされたみたい。腹立たしいような恥ずかしいような、そんな気持ちをかかえたまま言うと、ラスティの手がこちらに伸びてきた。また頬をこすられる。びく、と首をすくめた私の額を、ラスティは軽く指で小突いた。
「まあ、なに、失礼よ」
押された額に手を当て言うと、ラスティはふん、と鼻で笑って脇に置いた水差しを再び手に取った。
「行くぞ、金を落とすなよ」
そうしてそれだけ言うと、ジーンを連れて部屋を出て行ってしまった。
「待って」
通路に顔を出して呼ぶと、ラスティが足を止める。
「炊事場に行く? 眠ったら少しお腹が空いたの。なにか口にしたい」
「俺は水差しを置いたら入浴する。その間に食っておけ」
「私も食事を済ませたら入りたいわ、待っていて。夜にひとりで入るのは怖いのよ」
「なら早く来い、ひどく眠い」
物置が汚れていたからか、昼間の遠出の間についたのか、埃と蜘蛛の巣のついた服を着たラスティが、珍しく大きなあくびをひとつした。
◆◆◆
「……遅かったな」
衝立の裏で腰紐を解いていると、水音とともにラスティの声がした。責める響きはなかったけれど眠そうだ。
「ごめんなさい、もらったお金をしまう場所のことを考えていたの」
裸になって、衝立の横から顔だけのぞかせて向こうを見ると、ラスティはこちらに背を向けていた。濡れた浴槽の縁に腕と頭を乗せ、目を閉じているみたい。眠っていたのかもしれない。
「ジーンはどうした」
「炊事場を出て行ってしまったわ、寝にいったのじゃないかしら」
「また寝台の真ん中を占領されるな」
我が物顔で寝具の上で目を閉じ寝息をたてる、いつものジーンの姿を思い出し笑みが浮かんだ。お湯に足をつけると、いつもより熱い。ラスティの魔力のせいかしら、それとも今が夏だから?
「お湯、少し冷ましても構わない?」
「ああ、好きにしろ」
ラスティは相変わらずこちらに背を向け、目を閉じている。腕に魔力を這わせ、湯の一部を水に変えかき混ぜていると、脳裏に悪戯がひとつ浮かんだ。
浴槽に体を沈めながら、そっとラスティに近づく。そうしながら手のひらの上に、こぶし大ほどの大きさの氷をひとつ作った。ラスティはまだ目を開けない。
氷を浮かばせ、ラスティの背中に向かって送り出した。小さな波をたてて氷の船を進ませる。もう少し。まだ目を開けないでよラスティ……。
「うわっ! ――おい」
ぺた、と氷が彼の背中にたどり着くと、ほとんど同時にラスティが驚きの声をあげ振り返った。珍しい姿がおかしくて、笑いが口からもれる。
「驚いた? いつあなたが振り向くかとハラハラしたわ」
言いながら手で水をあおってさらに波を起こし、急速に小さくなっていく氷を再び彼にぶつける。
「お前を信じて気を許していたらこれか、あの金をやらなければよかった」
ラスティはそう言って氷をすくい上げると、あっという間に溶かして蒸発させてしまった。つまらないの。
「あれはあなたのものではないし、それにもう隠しました。無理やり取り返そうとしても無駄ですから」
ふん、と顔を背けお湯に唇まで沈む。なにも喋らない意思表示。と、ラスティが水面を波立てながら体をこちらに向けた気配がした。ふーっと長く息を吐く音がする。
「持ち手の欠けた古い水差しに入れ、杯を並べた棚の奥にでも置いたんだろう」
「ん、っ、見ていたの?」
驚いて口を開いてしまい少しお湯を飲んでしまった。せき込みながらラスティににじり寄って責めると、彼は濡れた前髪をかきあげながら私をちろ、と見下ろしてきた。
「当たりか」
片方の口角が少し持ち上がっている。
「……」
その通り。でも認めたくない。ぎゅ、と唇を引き結んで、答える代わりにお湯をすくって彼にかけた。正確にはかけようとしただけで終わった。ラスティの出した魔術の壁に阻まれてしまったから。
「拗ねるな、気が向いたら金を足しておいてやるから」
「結構よ。体を洗うわ、向こうをむいていて。いいというまでよ」
「わかったから早くしてくれ」
ラスティがまた私に背中を向けるのを視界の端にとらえなから、泳ぐように浴槽の縁に移動した。色彩豊かなタイル敷きの床に出て、置いてあった木桶と石鹸を手に取った。夏の草の匂いが香る。
ふた月近く繰り返していたから、ひとりで体を清めるのも随分うまくなった。最初は疲れたけれど、慣れてみればひとりの入浴は、召使いに洗われ、お湯をかけられるのをただじっと立って待っている以前までの入浴と比べると、ずっと気楽で心地よかった。
でも、洗っているところを見られるのはなんだかいや。
木桶で浴槽から湯をすくいながらそっとラスティの様子を確認すると、彼はまた浴槽の縁に顔を伏せていた。本当に眠いのね、早く寝かせてあげなくては。大急ぎで石鹸を落とし、すぐお湯の中に戻った。
「済んだわ。起きて?」
そばにいってそっと呼びかけても、小さく身じろぎをしただけで彼は起きなかった。それで今度は反対側に回り込んで、彼の顔を覗きこみながら声をかけた。
「ラスティ」
髪と同じ色の彼の睫毛が濡れている。髪も濡れて、いつもより暗い色をしていた。この髪に触れたらどんなか、私はもう知っている。
そっと手を伸ばして下りた前髪に触れた途端、ラスティがぱちりと目を開けた。
「すまん、寝てしまったか」
ラスティは軽く首を振って身を起こした。波が起こる。
「いいのよ、戻りましょう?――あ」
「どうかしたか?」
「着替えを持ってくるのを忘れたわ、靴も。あの、ラスティ、申し訳ないのだけれど取ってきて――」
「断る」
とりつく島もない。ラスティは短くきっぱりと拒否すると、私の手首を掴んで立ち上がった。そのままざばざばと湯をかき分け歩きはじめる。
「脱いだものを着たくないわ、今日は遠出をしたし」
「服を取りに行って、戻り、また行けというのか? 面倒だ」
ラスティは浴槽の端までくると手を離し、ひとりで上がっていってしまった。怒ってはいないみたい。黙って見ていると、衝立に掛けてある布を一枚取って、こちらに投げて渡してきた。
「連れて行ってやる、上がってこい」
そう言って別の布を被って髪を拭きはじめたラスティに気付かれないよう、お湯からあがりながら布に顔を押し当て笑みを隠した。
ぶっきらぼうなのに優しいのだから。
彼に怪しまれない程度に表情を整え、大きな布を広げ体を隠す。そうし終わる頃には、ラスティが着替えを終えていた。
「行くぞ」
ひょいと慣れた手つきで彼が私を抱き上げる。私も彼の肩に手を置いた。さっきも彼に運ばれたけれど、今は布一枚しか身につけていない。彼の手が体に触れているのがはっきりとわかった。ラスティも同じように感じたのだろう、庭から回廊に出るあたりでぽつりと、
「少し肉がついたな」
とつぶやいた。
「そうなの!」
嬉しくて、自然と口元が綻ぶ。
彼と暮らしはじめてから、私は肉付きがよくなった。食事の量が増えたし、たくさん動けるようにもなっている。
「あなたに見つけてもらえてよかったわ、ジーンやリスと同じ。あなたに世話されると、健康で幸せになれるのよね」
「まったく、騒がしい生き物が増える一方だ」
感謝を伝えたのに憎らしいことを言われたけれど、ラスティの言葉からは喜びが透けて見えた。それで私はむくれるかわりに、彼の頬に手を触れそっと撫でた。
「そうよ、増える一方」
「……そうか」
答えた彼の声はあたたかく優しかった。なのに、赤銅色の目が私を見下ろす視線が強くて。まだ頬に触れたままの手が、ふいに緊張する。蜂の巣にいたずらをしてしまったような気持ちがして、慌てて手をおろして体を小さく縮こめた。と、ふ、と彼が笑い立ち止まる。どうしたのかし……。
「ん」
ラスティが私を抱えなおしたと思った瞬間、とても静かに唇をあわせてきた。一瞬驚いてから目を閉じ受け入れる。とても自然で、少し情熱的な口づけ。
「……どうしたの?」
薄く唇を離して尋ねると、彼は別に、と短く答えてから私の唇にもう一度そっと触れ、それが終わると歩きはじめた。
別に、ってなによ、どうしようどきどきする。初めて口付けをしたあの夜を思い出すわ。森は眠っているみたいに静かで、そして暗い。
彼の研究室へ続く扉が近づいてきた。
私たちもこれから眠るの、そうよね? ラスティ。
―完―




