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こころ


「もう、ひとりで歩けます」


 魔術師塔から離れるほうにしばらく進むと、ロインは彼の腕に添えていた私の手をそっと外しながら言った。自嘲するように目を細めた彼の額には、血が黒く乾いてこびりついていて痛々しい。


「お見苦しい姿をお見せいたしました」

「とんでもないわ、ロイン。あなたが来てくれなければ今頃私は」


 そこまで口にすると、ほんのついさっき、騎士ノースに突きつけられていた切っ先の鋭さが蘇ってきた。ぶるっと体が震える。


「間に合ってよかった」


 と、隣からぽつりとロインの安堵する声がした。顔を上げて見たけれど、ロインが私の視線を避けるようにエマリィの方を向いたので表情はわからなかった。


「エマリィもよく来てくれたな、お前が来なければイルメルサさまをお守りできなかっただろう。なぜ我々がいるとわかったんだ?」

「魔術師ラスティの使っている小屋にいたのですが、あの犬がやってきて」

「犬? ジーンのこと?」


 あの子逃げだしてから、ラスティの小屋へ向かったのね。でもエマリィはなぜあんなところにいたの。


「はい。なんだかもの言いたげに私を見るものだから、導かれるままついて来てみたんです。そうしたらイルメルサさまのお声が聞こえてきて……」

「そう」


 ジーン、ラスティを探して戻ったのかもしれない。


「ジーンは今どこに?」

「わかりません、いつの間にかいなくなっていて。こっちに向かいながら、魔術師塔の方をしきりに気にしていたのでもしかしたら……」

「もうやめておけ」


 ロインが珍しく低い声を出した。私は足を止め、背後の魔術師塔のある方角を振り返る。少し前まで見えていた黒煙は見えなくなっていた。甘いにおいも、ここでは薄い。ジーンが塔を見ていた……ラスティがいると思ったのじゃないかしら。


「イルメルサさま、先へ進みましょう。エマリィ、あれはあったのか?」


 ロインが話しながら私の背に手をあて、歩くよう促してきた。


「はい」

「では予定通り、ゲインさまのところへ向かおう」


 進もうとしたけれど、会話にひっかかりを感じて踏み出しかけた足を止めた。


「あれ、って?」


 私の知らないなにかがあるみたいで。


「エマリィがラスティの小屋に行ったことと関係が?」


 重ねてたずねても、ふたりは沈黙を守った。ロインを見上げても視線が合わない。そのまま彼の向こうのエマリィを見ると、私と目を合わせた彼女は慌てて下を向いた。彼女の黒髪混じりの髪がさらりと揺れる。動揺しているわ、揺さぶるならこちら。


「お言い、エマリィ。命令よ」

「イルメルサさま」

「お黙りロイン、私はエマリィに聞いているの」


 きつく言ってエマリィをじっと見つめたけれど、彼女はうつむいたまま押し黙っている。もう一度言わないと駄目みたいね。口を開きかけたとき、ロインがふうっとため息をついて話しはじめた。


「ゲインさまは魔術師ラスティに、可能であればガウディールが謀反を企んでいると証明できるなにかを見つけ出すようにと、依頼をしておりました」

「謀反……?」


 思いもかけなかった言葉が出てきて、思わず小声になる。ああでもそういえば、前にラスティから聞いていた。父からの依頼を受けた、と。私には関係がないからと詳しくは教えてくれなかった。でも。


「まさか、そんな、謀反なんて」

「国王陛下は長らく疑っておいでだそうです。ガウディールに二心あり、と。ゲインさまは半信半疑ながら、そういったものが手に入ればイルメルサさまの婚約を反故にできるのではとお考えで」

「それで、それが見つかったと……?」


 私の呟きに、ロインは黙って頷いた。


「確実ではないが疑いを濃くできるものを手に入れたと連絡が」


 それはなになの? と聞こうとして止めた。それを知ってどうなるというのか。そんな危険なことをラスティがしていたのが問題なのだ。


「謀反の企みについて探らせるなんて危険よ。彼は……ただの魔術師なのよ」


 なんの後ろ盾もなく王領森に隠れ住んでいた、ただの、魔術師のひとり。私の命を何度も救いながら、そんなことまでしていたなんて。


 たまらず、また魔術師塔の方角を遠く眺めた。ラスティ。きっとまだあそこにいる。その思いは確信に近かった。それなのに私は、一歩ずつ彼から離れていっているのだ。


 立ち止まったままの私をみつめるふたりの視線を感じた。


 ラスティを探しに行きたいなんて……言えるはずもない。このふたりは私を守りガウディールから連れ出す命を受け、ここにいるのだろうから。それにこの道を戻ればまた、さっき引き離したあれに出会ってしまう。ふたりは動けなくなるわ。


 でも、ラスティは? もし、ラスティも塔で動けなくなっていたら……。前に庭であれと対峙したときは、私の持っていた魔石があったから切り抜けられたのよ。さっきエマリィに渡されてから手に持ったままの石の、ゴツゴツした感触を感じながらラスティを想った。


「イルメルサさま?」


 エマリィの呼びかけが遠く感じられた。胸の鼓動がはやくなる。耳元で血がざあざあと流れる音が聞こえる気がした。

 これを、彼に渡すの。私にしかできない。


 ず、と足を引きずりゆっくりふたりから一歩後退った。


「イルメルサさま」


 今度はロインが私の名を呼んだ。彼の頬が強ばっている。私がどこに行こうとしているのか、感づいたに違いない。


「行ってはなりません、なんのために我々が――あの男も、危険を冒し行動しているのかお忘れですか」


 忘れるものか。もちろんわかっている。

 考えると目に涙が滲んだ。


「お立場をお考えください、魔術師ひとりのために失われていいお命ではないのです」


 立場。私はシファードの領主の娘。ラスティは“魔術師のひとり”……それはそうだわ、だけど。


「私のために働いてくれた者を、放って行くなんて」

「力のある魔術師です、心配ありません」


 そうね、ラスティならなにがあっても切り抜けて……そして、私の無事を確かめに来てくれるはず。きっと。何事もなかったのならば。


 胸に矢を射られても、盗賊にさらわれても、毒を飲んだ時も、バルバロスさまに喉を裂かれそうになった時だって来てくれた。なのになぜ、今、ここにいてくれないの。それが不安で仕方がない。


「……なにかあったのよ」

「イルメルサさま」


 また私の名を呼んだロインが、視線をちら、とエマリィに向けたのに気が付いた。エマリィが小さく頷く。なにかする気なんだわ――眠らせるとか。


 エマリィが右手をあげる素振りを見せる。


「やめてっ!」


 大声を出し、身を翻して駆け出した。


「イルメルサさま!」


 来た道を駆け戻った。ロインの鎧の音が鳴り、追いかけられているとわかる。けれどまだあの闇の魔力の影響が残っているのか、彼の動きはいつもより鈍かった。


 気持ちがぐちゃぐちゃ。なにをしているのイルメルサ、間違ったことをしているわ、引き返してロインたちとお父さまのところに行くのよ。と頭の中の私が囁く。


 いや!


 と心の中の私が叫ぶ。いやよ、いや。その声はとてもとても大きくて、無視できるものではなかった。その叫びに突き動かされ、振り返らずに走った。


 しばらく行くと、足元を冷たい魔力が流れはじめた。おかしなことだわ、今はこれが助けに思える。この魔力がある限り、あのふたりはここを越えられないのだもの。最後の魔石は私が持っている。ここを抜けられるのは私か、ラスティくらい魔力量の多い者だけに違いない。

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