北の城壁
呼ばれた気がして目を開けた。
自分の心臓の鼓動が耳に大きく響いている。走ったばかりみたいに速い。視界は暗かった。まだ真夜中ね。枕の下に入れていた手はそのままで、少し痺れていた。ほとんど身動きせずに眠っていたんだわ。大丈夫、書簡はそのままある。
手を引き抜いて首に触れると、じっとりと汗をかいていた。まだ夜の間は冷えるというのに。
どうして目が覚めたのかしら。耳を澄ませても、音はなにも聞こえなかった。ただ部屋に暗闇が広がっているだけ。
嫌な予感がする。
そう思ってもなにもできなくて。忍び寄る不安を振り切ろうとぎゅうっと目を閉じ、ふたたび眠りにつこうと努力した。
◆◆◆
「欠伸をなさるなどお珍しい」
リュイに腰の帯を結ばせながら、小さな欠伸をかみ殺すとすぐにカラルから声が飛んできた。目敏いのね。
「夜、一度目が覚めてしまってね、しばらく眠れなかったから」
不作法だと言われた気がして、言い訳めいた言葉を口にした。
「早朝の騒ぎもお耳に届きましたでしょうか」
「朝? いいえ。なにかあって?」
夜明け前にはまた眠れたから、なにも知らない。早朝、とカラルが言った時から、私の前に立っていたリュイがぴたりと動かなくなったのはどうしたことだろう。頬を強ばらせ、下唇をぎゅっと噛んでうつむいている。
カラルに視線を向け答えるように促すと、彼女は目を細め私の背後の開いた窓に顔を向けた。
「夜のうちにフラニードが城壁から身を投げたのです」
「えっ?」
ため息まじりに漏らされた言葉に、今度は私の動きが止まる。今なんと? 聞き間違いではないわよね、フラニードが城壁から……。
「早朝になってから見張りの兵士が遺体を見つけ、ちょっとした騒ぎになりました」
私も起こされたのですよ。カラルの不満げな言葉はただ私の耳を通り抜けて行った。夜、身を投げた。そう聞かされ、怯えが生まれたけれど平静を装った。夜――彼女が私を呼んだのだろうか。
「自殺では葬儀も行えません、すでに体は壁の外に埋められたそうです」
フラニード。彼女の紫の瞳を思い出す。たびたび強い意志を乗せて私を見つめてきたあの目。
自死を選ぶ女とは思えない。
「ねえそれは本当に」
身投げなの? と問おうとして直前で気を変えた。
「フラニードで間違いない?」
身投げでなければなんなのか。殺されたのではないかなんて、私の置かれている立場を思えば簡単に口にできない。
「顔は綺麗だったそうですから」
「……そう」
「朝から不祥な話でお耳汚しをいたしました。ほら、お前、手が止まっていますよ、早くなさい」
ぱんぱん、と手を叩いてカラルが注意すると、リュイはぶるっと体を震わせてからまた仕事をしはじめた。この子はフラニードに懐いていたものね。
「リュイ、あとで花を手向けに行ってくれて?」
そっと身をかがめて提案すると、リュイは黙ったまま、こくこくと何度も頷いた。リュイには別れを言う時間が必要だろう。
「イルメルサさま、不要な気遣いにございます」
「フラニードは私の侍女となるために修道院を出てきたのよ。なにもしないでいては気持ちのおさまりがつかないわ」
「埋められたのは城外だと申し上げたはず。魔物も獣もおりましょう、気軽に近づいてよい場所では御座いませんし……そもそも、申し上げにくいのですが」
ここでカラルは言葉を切って、正面から私を見据えてきた。私も顎をあげ、視線を受け止める。
「なんです、おっしゃい」
「その子供はもう表を自由に出歩ける立場にはございませんので」
言われ、言葉を失った。
確かにそうだ、この子はあの酷い場所にいた私を知っている。幸い皮膚の色が変わったところは見ていないから、こうして生かされているに過ぎないのだ。目立つことはさせない方がいい。
「……そう。リュイ、あとで一緒に花輪を作りましょうか。昨日運び込まれた花がたくさんあるでしょう、そこから選んで。ね?」
「はい」
「それを誰かに託せばいいわ。カラル、お前に命じてもいいのだし」
「イルメルサさま……」
迷惑そうに眉根を寄せるカラルの顔を見て、少し溜飲がさがった。
それから、昼前にふたたびロインがやってくるまでに、私とリュイは小さな花輪をふたつ作った。
「ロイン、今日もあなたひとり?」
「はい」
部屋に入ってきたロインは返事をしながら、入り口近くに立っていたリュイに視線を向けた。今日は帯剣し、髭を剃ったさっぱりした顔をしている。軍衣はなく軽装で、故郷で見ていたのに近い、懐かしい姿をしていた。昨日より一層美男子で、私も誇らしい。
リュイはカラルの横に立ち、一瞬ロインをみた後ぱっと頬を染めて下を向いてしまった。手に持った二つの小さな花輪を持つ手に力が入っている。あれでは花弁が取れてしまう。
「毒味役よ」
伝えた言葉に返事はない。ただ、こちらに向けられたロインの表情はどこか不機嫌そうだった。シファードからの菓子に毒を盛られた件は、彼の頭にもしっかり残っているようだ。
「花を作られたのですか」
「侍女だった者が今朝死んだの」
「そのようだ、朝食の席はその話で持ちきりでした」
「広間で食事を取れているのね? エマリィも?」
「はい。昨夕から我々は客人として城に滞在することを許可されました。正直粗末な場所ですが。ああ、剣もこの通りほら、戻ってきましたよ。一体どんな魔術をお使いに?」
腰の剣を自慢げに見せつけ笑顔を浮かべるロインに、私も笑みを向けた。魔術なんて。昨日バルバロスさまへ手紙を書いただけ。私の願いを受け入れる姿を見せればうちの騎士は安心するだろう、と。
「バルバロスさまにお願いしたのよ。言ったでしょう、お優しい方なの」
「勇敢で慈悲深くあられる」
ロインは誠実そうな声で言ったけれど、口元は不愉快そうに歪んでいた。カラルに聞かせるための会話、それを今、私たちは貴重な面会時間を使ってしているのだ。ラスティがいたら“馬鹿らしい”と言うわね、きっと。
「……その花、置きに行かれるのならお供致します。今日もよい天気だ、お顔色もいい。少し外を歩かれた方がよいのではないですか」
「そうね、兵士に頼もうと思っているの。侍女の眠る場所は私やその子供が行くには少し――適していないそうだから」
「ではその兵士とやらを捕まえに、あたりを歩きましょう」
決定事項のように話し、笑顔で手を差し伸べてくるロインになんと答えればいいのか迷う。行きたい、でも、私が外を歩けばバルバロスさまはよい顔をなさらないだろう、でも行きたいわ、残された時間、一度でも多く春の近づく陽の光や風を感じたい。
下唇を噛んで、大きなロインの手に手袋に包まれた手を乗せ立ち上がった。私の手に触れたロインが驚いて目を見開いたので小さく首を横に振る。なにもないふりをして。
察しのいい騎士はすぐに表情を戻し、立ち上がるのを手伝ってくれた。
「イルメルサさま」
すぐにカラルの責める響きの声が飛んでくる。わかっていてもうんざりする。
「兵士に花を渡すだけ。まさか、司祭さまのお身内の死を悼むのを止めろとは言わないでいてくれるわねカラル?」
ため息をつきながら言うと、ロインが私を護るように脇に立って振り返り、カラルたちのいる方に体を向けた。カラルの頬がぴくりとひきつったのがここからでもわかった。彼女のどこか高慢な印象の唇が薄く開く。
「兵士ならばすぐ下におりましょう。私が渡してまいります。騎士さま、イルメルサさまは床払いをなされたばかり。くれぐれも無理をさせるな、とバルバロスさまからきつく言い渡されておりますので」
カラルはバルバロスさま、というところで力を込めてロインを見つめた。ロインが肩をすくめ、ちら、とこちらを見下ろす視線を送ってきたのに気が付いたけれど、知らぬふりをした。
「参ったな、その兵士なら先ほど急ぎの用をひとつ頼んでしまった」
ロインったら、笑ってしまいそうよ。
目を見開いて驚くカラルの顔を見ないですむよう、隣のリュイを見た。リュイは落ち着かなげに視線をあちこちに向けている。あら、目が合った。小さく微笑むと、彼女もほんの少し表情を和らげてくれた。初めて会った時はあんなに怯えていたのに。
「他の兵士を探さねばなりませんね、花のしおれるより前になさりたいのでは?」
「その通りよ。今すぐ行ってきてくれて? カラル」
ロインの意図はすぐにわかった。彼女が行ってしまえば私とロイン、ほとんど二人きりの状態になってしまう。行かないとわかっていて命じると、カラルはすっと表情を消した。
「無理よね。みなで行きましょうか、それならあなたもいいと言うわね? 少し歩いておきたいのよ、婚礼の時に萎えた足取りの花嫁ではバルバロスさまに申し訳ないもの」
「その通りです。もしイルメルサさまにお疲れのご様子がちらとでも見えたなら、すぐこのロインが部屋までお連れする」
「早く行けばそれだけ早く戻れるわ、日の高いあたたかなうちに」
ロインの肘に手を添え部屋を出ながら、あれこれと話してしまうのは強く止められたらとの不安から。
「お前たち、おいで。上着を持ってきてね」
緊張を悟られたくなくて振り返らず言うと、無言のまま二人分の足音だけが後ろからついてきた。
「ガウディールにも春が近づいてきておりますね」
「シファードはどうなっていて? アリアルスは元気?」
「草花はすっかり春の装いで。下の姫君はいつも通り非常にお元気だ、と申し上げればおわかりいただけるかと」
お転婆三昧なのね。アリアルスのよく響く大きな声を思い出してくすくすと笑いながら、明るい外に足を踏み出した。あたたかい。
昼の光の眩しさに思わず目を細めた。部屋の中にも届いていたのに、鳥の声や人の気配といった微かなざわめきが、より近くで感じられる。ゆっくり目を開きあたりを見回しても、ロインの言った通り、外に兵士は見あたらなかった。一体どんな用をいいつけたのかしら。
「どちらに行けばよいのですか」
「そうね……カラル、どの門に向かえばいいの」
「北門から出た奥になります」
振り返って尋ねると、つんと澄ました顔をしたカラルが冷たく言った。北門。北の城壁は、ラスティが何度か近づくなと警告してくれたところだわ。
そもそも私には行く許可の出ていないところだから、たどり着けない場所なのだけど。北門へ通じる道を少し歩くだけにしておこう。
「あちらね、あちらに向かって少し歩きましょう。そのうち兵士があらわれるはずよ」
「道中、ご一家の最新の噂話をお聞かせいたします」
道中なんて、大げさね。私を楽しませようとして。彼の気持ちは嬉しかったけれど、少し怖かった。家族の話を聞けば、懐かしく、会いたいと――生きたいと願ってしまいそうで。
言葉通り、ロインは懐かしい故郷の話を次々繰り出してきた。妹の起こしたぼや騒ぎ、お父さまの馬が蜂に刺された話、料理人とお母さまの確執。それから、私の部屋にいつの間にか山羊が入り込んで半日過ごしていた話。
「半日も?」
「はい。アリアルスさまが毎日……とはいかないか、度々お届けしていた花がすっかり食い散らかされておりまして」
「あの子、怒ったでしょう」
「それはもう、鞭を手に城中追い回しておりましたが、山羊は無事逃げ切りました」
大騒ぎが目に浮かぶ。つい口元を綻ばせ笑ってから気が付いた。思っていたより奥にまで来てしまった。いつも遠い北の城壁が近くに迫って見える。
陽の光も城の影になって届かない、じめっとした暗い場所。すっかり見慣れぬ様相で、気持ちに不安が広がる。
いつもならここまで入り込むより先に兵士があらわれるのに。ロインやカラルを連れているからかしら、それとも、フラニードの死が関係している?
ぴたと足を止め振り返ると、詰まらなそうな顔をしたカラルとすぐに視線がぶつかった。
「兵士がいない」
「フラニードが身を投げましたのも北の城壁、不吉だとみな近寄るのを避けているのでございましょう」
「そう。こんなに寂しいところで……」
あの目立ちたがりが死に場所に選ぶとは思えない。また、そんな思いが脳裏をよぎり、慌てて打ち消した。考えては駄目。それに人が亡くなっているのよ、こんな考えはよくない。
「少し疲れたわ」
これ以上先に進むのも怖くなってきた。ラスティが近づくなと忠告してくれた場所なのだもの。足を止めてつぶやくと、すぐにロインが顔を覗き込んできた。私を気遣うあたたかな目。
「ここは暗いですね、明るいところへ戻りましょうか」
そう言った一瞬あと、ロインはふっとなにかに気が付いたように顔を道の先に向けた。私もつられてそちらを見たけれど、薄暗い道が伸びているばかり。
「……誰かいる。兵士か、いや、微かに魔力の気配を感じる、魔術師か……」
魔術師。姿も見えぬ内から魔力を感じさせられるなんて、まさか。心臓がどくりと音をたてた、その時だった。
道の両脇に並ぶ、枝ばかり目立つ茂みのひとつの影から、突然大きな影がゆらりと出てきた。一瞬、熊があらわれたかと思い体がこわばった。同時に、ロインが私を背中に庇い一歩前に進み出る。
ロインの背後から顔を覗かせこわごわ前を見た。そこに立って、訝しげにこちらを見つめていたのは熊ではなくひとりの男。
暗い赤のローブに錆色の髪。ラスティだった。




